なんか最近は、作家向けか精神的なお話かのどちらかになってますが、今日は精神的なお話です。

人とは違う生き方を受け入れる、というお話をしてみましょう。

 

寄付先を探している時に感じる出来事

私は折に触れて寄付をしているんですが、寄付先を探していると、こういう表現を使っている団体がいるんですよ。

「恵まれない人に、愛の手を」

「あなたも、こんなかわいそうな子どもたちを助けることができます」

……みたいな。

 

私の場合、こういう表現をしている団体は、真っ先に寄付先から外しています。

というのも、私は「恵まれない人」や「かわいそうな子ども」を助けるつもりなんか、さらさらないからですね。

こう言うと、すっごい冷血人間のように聞こえるかもしれませんが(笑

まあ、私の話を聞いてくださいよ。

 

私が「恵まれない状態」だったらどう感じるのか

これは単純に、相手の立場だったらどう感じるのか、というお話です。

もし私が他の人よりも、安全も安心も得られずに、迫害されて、住む場所を失い、職も食べるものも何もない状況にいたとしましょうか。

そして世の中ではみんなが豊かさを持っていて、広い家に住んで、お金が家にあり、おいしいご飯を食べて、きれいな服を身にまとい、深い愛でつながった家族、絆を結んだ恋人、多くの友人を持って、笑顔で生きられているとします。

私だけが、何も持たずに、ひとりぼっちで見捨てられている状態です。

 

で、そんな私に、誰かが食べ物を与えてくれます。

おなかがすいている私にとっては、のどから手が出るほど欲しい豊かさです。

 

ですが、そんな支援者は、私にこう言って食べ物を渡すわけです。

「あなたは恵まれない、かわいそうな子ね。ほら、この食べ物をあげるよ」

もしくは、支援者がこう言って食べ物を集めていると知るわけです。

「ここに、こんな惨めで不幸な子がいます。皆さんは豊かなんだから、この人に少し分けてあげるべきです」

 

果たして、自分は「かわいそうな人」なのか

ちょっと待てよと。

誰が「かわいそうな人」だって?

誰が「恵まれない人」だって?

 

みんなが、私を「かわいそう」だと言う。

果たして、自分は本当に「かわいそうな人」で、「恵まれない人」なのか。

 

確かに、安全も安心もなくて、紛争地帯に住んでいて、愛でつながった家族や恋人、友人もなく、腹を空かせて、国を追われて、体はボロボロかもしれない。

でも、私はまだ生きている。

命という価値あるものを持っているし、生きられる時間もある。自分になせることがあるのなら、そのためには命をかけてもいいし、泥まみれになってでも、のたうち回っても生きる覚悟もある。

そんな命の価値を持つ自分が、本当に「かわいそう」で「恵まれない」のか。

 

人々は、「みんなこれぐらい持っているんだから、あなたも持たなきゃ幸せじゃないよ」と、「幸せの形」を渡そうとする。

「これができなきゃ不幸なんだから、あなたもこれをできなきゃだめよ」と、「不幸の形」を渡そうとする。

そういうのを見ていると、「みんな、『みんなが望む幸せ』が好きなんだな」、と感じたりするんですが。

 

自分の幸せは、自分で決められること

自分が幸せかどうかは、自分が決められることですよね。

人によっては、みんなと比べた上で「平均的な生き方」、「平均以上の状態」が幸せな人もいる。

でも人によっては、そうでない人もいる。

 

私の場合、そういう「みんなが言う幸せの形」と「私が願う幸せの形」は、結構大きなズレがありました。

かつては私も、他の人と同じように「平均以上の生き方」を目指していたんですよ。

必死で勉強して、一流大学に入って、大学院も出て、誰もが知る日本トップクラスの大企業に入り、新入社員時から幹部候補のエリートコースを進んでいました。

でも、それらのアドバンテージを全て手放して、小さなゲーム制作チームの監督として独立しました。

「みんなが言う幸せの形」と「私が願う幸せの形」は違うと、分かったからですね。

 

それが、私が「私自身」を手に入れた瞬間だったように思います。

もし私が「みんなが言う幸せが、私の幸せだ」と思い込んでいたら、きっと私は自分を見失っていたように思います。

 

「自分はかわいそう」で受け取ると、どうなるのか

で、そういう私が支援者から、食べ物を「かわいそうだから」という理由で受け取ったら、どうなるのか。

きっと私は、「他人と比べて不幸であればあるほど、食べ物が得られる」と思い込んだことでしょう。

そして自らボロを身にまとい、自分の不幸を手当たり次第に探して見つけ出して、周囲に「私はこれだけ不幸なの!」と主張したことでしょう。

「私はこれだけ不幸なの。だから、もっと食べ物をちょうだい。もっと私にかまって愛情をちょうだい。もっと私に豊かさや幸せをちょうだい! みんなは私より幸せなんだから、不幸な私にその豊かさを与えるべきだ!」

……みたいに、分かち合うのではなく、奪い合う世界にいたことでしょう。

 

私は、そんな奪い合う方向よりも、分かち合う方向に行きたかったと。

「不幸だから手に入る場所」には、自分を失った状態しかないからですね。

私は、自分の足で歩いていきたいんだと。

 

何も持たなくても、劣っていても、それでいい

そんな風に、私は「自分の生き方ぐらい、自分で決める!」という生き方をしたいんですよね。

そして、そういう生き方でいいように思います。

他の人と比べて何も持たなくても、劣っていても、「平均的な幸せ」を持たなくても、才能を持たなくても。

いいじゃないですか、それで。

 

もし私が紛争地帯に住んでいたなら。

そして、もし自分よりも弱い子を、その紛争地帯や苦しい場所から逃がすことができれば、私はそこで死んだとしても、満足して、微笑んで死ねるでしょう。

「私はたった一人の子を、苦しい場所から逃がす手助けができた。他のみんなが見放した子を、私は助けようとした。これで十分だ」と。

たとえ虫けらのような生き方で、虫けらのような死に方だとしても、満足して死ねるわけです。

 

別に紛争地帯に住んでいなかったとしても、日本に住んでいたとしても同じです。

私の周囲には、生きる希望を欲している人がいる。

「苦しみから抜け出して、ありのままに生きたい」と願う人がいる。

なら、私にもできることがあるはずだと。

 

むしろ私から見ると、そういう「かわいそう」とか「恵まれない」と評価している人ほど、なんだか不気味な仮面をかぶっているように見えます。

その仮面は笑顔の仮面なのに、なんだか不気味な笑顔なんですよね。

 

「幸せが欲しいために、自ら不幸を求めている」という矛盾

私が「恵まれない人」や「かわいそうな子ども」を助けるつもりがないのは、こういう理由です。

「恵まれないから」、「かわいそうだから」で与えると、彼らは「恵まれない状態になるほど、かわいそうな状態になるほど、自分は幸せになる」と勘違いします。

そして、彼らはツイッターでもfacebookでも、「私はこんなに大変なの!」、「私はこんなに不幸なの!」、「私はこんなにひどいことがあったの!」、「私はこんなに苦しいの!」と、不幸を次々と表明するようになると。

幸せが欲しいがために。

「幸せが欲しいために、自ら不幸を求めている」という矛盾に気づいていないがために。

 

私が寄付や支援をするのは、かわいそうだから助けるのではなくて、そういう人たちを尊敬しているからですね。

愛される家族も持たずに、豊かさも与えられずに、何も持たない状態で、だけど生きようとしている。

虫けらの命でもいいから、国や故郷を捨ててもいいから、生き延びようとしている。少しでも何かをなして死にたいと思っている。

これって、素晴らしいことじゃないですか。

 

もちろん、どっちを選んでもいいんですよ。

世の中の多くの人が、「かわいそうだから与える」、「かわいそうな自分だから、与えられるべき」で動いているんですから。

私のような考え方をするのは、むしろ少数派かなと思います。

でも私は、そういう風に生きたいわけですね。

 

欲しいものをもらえるなら、喜んで受け取ればいい

じゃあ、そんな「かわいそうだから与える」という支援者から食べ物を受け取らないのかというと、私は受け取るでしょう。

返済のリスクがないのであれば、「運がいいな」と言って、喜んでもらえばいいわけです。

でも、私はそんな「かわいそうだから与える」という人には、たとえ欲しいものをくれた人だとしても、尊敬もしなければ感謝もしないでしょう。

まあ、ある意味、「こういう人になってはいけないと、天が私に教えてくれようとしているんだ。だからこの人と出会えてよかった」と、そういう反面教師としての感謝をすることでしょう。

 

私が尊敬する支援者というのは、私を「かわいそうだから」として恵むのではなくて、敬意を持って支援してくれる人ですね。

私なりの生き方を認めてくれて、そのために必要としているものを与えてくれる人、でしょうか。

だから、私もそういう人でありたい、と思うんですよ。

そして、だからこそ、このブログでもそういうスタイルで分かち合っていると。

寄付もこのブログも、有り余った豊かさを分かち合うという点では、同じ活動なんですよね。

 

まとめ

これが分かったとき、私は人とは違う生き方を選べるようになったように思います。

自分の幸せの形は、自分で決めるものだと。

 

私たちは、今まで周囲から、「あなたはかわいそうね」とか「あなたは恵まれない人ね」と言われてきたかもしれません。

「あなたは劣った人ね」とか、「あなたは不幸な人ね」、「あなたは無価値な人ね」と言われ続けてきたかもしれません。

 

でも、幸せかどうかを決めるのは周囲ではない、ということです。

私たちは、自分で自分が幸せかどうかを決めることができます。

虫けらの命、上等じゃないですか。

少なくとも、自分の意思で生きているんですから。

 

虫けらだろうが弱々しい命だろうが、精一杯その命を燃やし尽くせばいいんです。

与えられなくて、それでも本当に欲しいものがあれば、人生をかけて挑戦すればいいと。

そして「私はこれを実現するために挑戦した! そして思う存分、生ききったぞ!」と言えれば、どんな結果であれ、満足して死ねます。

 

そうやって生きるのも、一つの生き方じゃないかなと思います。

 

ということで、今日は「人とは違う生き方を受け入れる」、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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