今日は精神的な内容で、「我がなくなると、どういう感じになるのか」というお話をしてみましょう。

今日はとりわけ、普通の人には意味不明な、とんでもない非常識なことを書きます

なので、気が向いた人だけ読むといいでしょう。

 

我がなくなると、どんな感じになるのか

もはや耳タコですが、1年半ぐらい前に、劣等感を解決するという出来事が起こりました。

これは、私にとっては天地がひっくり返るかのような大事件で、人生の中でも最も大きな体験でした。

それからというもの、だんだんと「我」がなくなってきたんですよ。

「我」というのは、よくある「我が強い」とかそういうやつで、「私が、私が」という気持ちのことですね。

で、この我がなくなってくるとどんな感じになるのか、その実感をお話ししてみましょう。

 

以前も少し触れましたが、先月引っ越しをする時期に、読者さんから一冊の本を送っていただいたんですよ。

「私の人生が変わった本なので、おすすめです。是非読んでください」とメモが添えられていて。

そのタイトルが、こちら。

聖書に隠された成功法則

私は聖書だろうが仏教経典だろう心理学本だろうが、今まで何でも結構読んできたんですよ。

それでもこんなタイトルの本だと、「宗教の勧誘か」とか感じて、読まずに処分しようとするものでしょ(笑

 

でも、偶然にも引っ越しで手持ちぶさたで読んでみると、これがその辺にある聖書の解釈本とは全然違うわけです。

で、私が説明したかった「我がなくなった感覚」が、まさにこの本に明快に書かれているんですよ。

それでもう、私は「この本を送ってくださった方は、天からの使いだ」とか思っているんですが。

 

我がなくなったらどんな実感になるのか、興味がある方は、この本を読んでみるといいでしょう。

劣等感を解決する方法論というよりも、「自分に我がなくなったかどうかを確認するための本」という位置づけで見るといいかなと思います。

でないと、ただ単に「不思議なことを書いている」としか思えませんからね。

 

「我がなくなる」とは、「私が死ぬ」ということ

じゃあ、私なりに我がなくなった感覚というのをお話ししてみましょう。

「我」っていうのは、すなわち「私」のことですよね。

「我がなくなる」というのは、簡単に言うと「私が死ぬ」ということです。

だから、私は死んじゃったのと同然なんですよ(笑

 

競争の世界とかで、よく「満足したら、そこで終わりだ」とか、「ハングリー精神(欠乏感)を持て」とか言いますよね。

劣等感を解決するっていうのは、「完全に満足する」ことを意味します。

そして、「満足したら、そこで終わり」というのは、ある意味当たっているように思います。

 

より正確に言うと、「満足したら、『私』はそこで終わり」である、と言えるでしょう。

完全に満足したら、「目標に向かって進む向上心」なんてものはなくなって、競争なんかできなくなります。

すなわち、満足したら、「私」がそこで死んでしまうわけです。

 

ただ、普通は「私(我)が死んだら終わりだ」と思いますよね。

ここから、すっごいわかりにくい感覚的なお話をします。

 

実際のところ、「我(私)」が死んだら、新たに目覚めるものがあります

それが、上記の本では「神」と表現しているものであり、時には「天」と表現できるものでもあります。

心の中で「我」が死んだら、「神」と呼びたくなるようなものが目覚めるわけですね。

「目覚める」というよりも、「あることに気づく」という方が、より正確な表現かもしれません。

この感覚が、一番しっくりくる表現方法のように思います。

 

我がなくなると、自分の中に「神」のようなものがあることに気づける

劣等感を解決したら、「私が、私が」という気持ちがなくなってしまいます。

すると、「私(我)が成功するために、こうする」という目標のようなものが、すべて無意味になってしまいます。

だって、「目標」っていうのは、「私(我)が満たされるためにすること」ですよね。

もはや満足してしまっているんですから、今までの「自分(我)が持っていた人生の目標」みたいなものが、全部霧散してしまいます。

 

一方で、私の肉体はまだまだ生きているわけじゃないですか。

しかも、どちらかといえば、やっぱりおいしいものは食べたいし、心身ともに健康に生きたいと。

そして現実では、やっぱりいろんな判断や決断をしなければならないものです。

なら、「我(私)」がなくなってしまったら、何を基準に判断や決断をするのか。

 

そこで、心の中にある「神」もしくは「天」と呼べるようなものに、判断をゆだねるわけですね。

「我(私)の判断はもういいや。その奥にある自分の魂のようなものに、判断をゆだねよう」と思うようになるわけです。

すると、「私」が判断するのはやめて、その「魂のようなもの」の導きに従うようになると。

その「魂のようなもの」を、「神」とか「天」と呼ぶ、ということです。

 

我が満たされた後でも、「心地よいと感じたい」とか「楽しく生きたい」という気持ちは残ります。

すると、自然と他の人に喜んでもらいたくなるものです。

我が満たされた後では、他の人に喜んでもらうことが、最大の喜びになるんですから。

で、「よく分からないけれども、自分の持っている能力を使って、喜んでもらおう」という方向に動き出すようになります。

すなわち、「私(我)が決めたことじゃないけど、私にこういう能力が備わっているのは、天が私に与えたものだ。なら、その天に判断をゆだねよう」という感覚になる、ということですね。

 

私たちの能力というのは、私たちが得たものではないわけです。

すべて「与えられたもの」ですよね。

命だって私が得たものではないですし、生まれた場所だとか、家庭環境だとか、ほぼすべて私が得たものではなくて、「与えられたもの」という実感になります。

すべてが「与えられたもの」ならば、「その与えられたものを最大限に使って、心地よく生きよう」となる、という感じです。

 

我がなくなると、お気楽な状態になれる

だから、我がなくなると、すっごい満足して、お気楽な状態になります

まさに、「死んだと同然な安楽」ですね。

でも、命があるので、心地よいと感じられることはもっと味わいたいものです。

死ぬことを恐れはしないけれども、どっちかというと生きていたくて、楽しく生きたい、そういう感覚です。

 

言うなれば、子どもの状態と同じようなものです。

子どもの状態って、親とかに依存しながら生きているじゃないですか。

働かなくても食べ物は得られて、未来を心配したりせずに、毎日遊んで、豊かさを受け取るだけ、みたいな。

まさにそんな感覚で、「親」が「神」に代わるようなものです。

神が行き先を決めてくれるし、神が食料を与えてくれるし、神が未来を与えてくれて、毎日遊んで、豊かさを受け取るだけ、みたいな感覚です。

神に自分の身を完全にゆだねてしまうわけですね。

 

これって、すっごい危険そうに思うじゃないですか。

常識的な思考では、自分(我)以外のものに判断をゆだねるとか、ありえないでしょ。

でも、これは「親に依存する」とか「教祖に依存する」とかではなくて、言うなれば「我よりもさらに自分の中にある『自分の魂』に判断をゆだねる」ということです。

ある意味、「神」というのは、「自分を突き詰めたもの」だとも表現できます。

 

だから、「神に判断をゆだねる」というのは、「完全に自分の評価軸で判断をする」とも言えます。

ただし、その「神」というのは、「我」ではありませんよ、ということです。

この「神」と「我」の違い、これが最大の違いとも言えるかなと思います。

でも普通の人には、我があることでその「神」が理解できないので、これが一番意味不明に感じるんじゃないかと思います。

 

まとめ

この「我」と「神」という違いが、「劣等感で生きる」か「神とともに生きる」か、という違いになります。

「自分(我)が死んだと同然な状態で生きる」ということですね。

 

でも、これは「自分を殺して生きる」のとは違います。

「自分を殺す」というのは、殺す自分がいて初めて成り立つものですからね。

我がなくなるというのは、殺す自分ですらいなくなる状態です。

そして、「神」と呼べるような、内なる魂の声に従う、ということです。

 

言うなれば、劣等感を解決するというのは、一つの人生を終わらせることを意味するのかもしれません。

私自身、「私」はあの劣等感を解決したときに、一度死んでしまったのも同然です。

私の人生は、一度あのときに終わったと。

でも、なんか知らないけど、よく分からないエネルギーによって「生かされている」わけです。

だったら、そのエネルギーに身をゆだねよう、という感覚ですかね。

 

う~ん、今回のお話は、私の話の中でも最も理解しにくい内容じゃないかと思います。

まあ、信じられなくてもいいですし、「あやえもさんがついにおかしくなった」と感じるのでいいでしょう。

劣等感を解決した人であれば、この感覚が「まさにそういう感覚だ!」と分かるんじゃないかと思います。

 

ってことで、今日は「我がなくなると、どういう感じになるのか」というお話をしてみました。

今日はここまで~。