貴方の周りにも、こういう人がいないだろうか。
- 自分の不幸ばかりを語る人
- 自分の境遇を嘆いてばかりの人
- ツイッターで、不幸なニュースばかりをリツイートする人
現実でも、SNSでも、ツイッターでも、掲示板でも、こういう種類の人がいるものだ。
そしてこういう人は、間違いなく劣等感が強い人だ。
満たされた人は、自然と不幸を語ることはしなくなる。
例えば、その人の周辺で、災害という不幸が起こったとしよう。
満たされた人は、どうやって(自分を含めて)人を助けるか、その「対策」に集中する。
嘆いていても、何も始まらないからだ。
そして、その問題に対して「自分の人生の一部をかけて対処する」と決断したら、実際に支援活動に当たったり、現場に行けないのであれば、別の場所で労働などをして、1ヶ月分の収入を支援として寄付するなど、「具体的な対策」を実施するものだ。
そういう場合に必要なのは、「不幸」ではなく「解決策」だ。
だから、自然と不幸を語ることはなくなり、解決策を得ることと、解決策を広めることの方に意識を向ける。
幼い頃の幼児的願望が、その「問題行動」を引き起こしている
しかし、劣等感の強い人は、対策など一切練らないし、「自分の人生の一部をかけて、その問題に対処する」ことなど一切しない。
ただ、嘆くだけ。
これは、幼い頃に、幼児的願望が満たされていないことによって、このような行動に出るのだ。
赤ん坊は、泣くことによって、親に世話をしてもらうことを要求する。
世話をしてもらえれば安心して、泣き止む。
そして大きくなるにつれて、自分でできるようになれば、その幼児的願望は満たされて、自然と消えてゆく。
幼児的願望は、満たされれば消えるからだ。
しかし、何らかの事情で、泣いても親に世話をしてもらえなかった場合、赤ん坊は「泣いても世話をしてもらえないかもしれない」という恐怖を得る。
すると、よりいっそう大きく、激しく泣くようになる。
それでも思うように構ってもらえないと、「泣いても無駄だ」と思い、あきらめて抑圧する。
しかし、その「世話をしてもらいたい」という幼児的願望は満たされることがないので、大人になってもその願望は消えずに残る。
そしてあるとき(多くの場合は中学生~高校生ぐらいの思春期に、遅い場合は社会人になってから)、そのあきらめていた願望が、ふいに姿を現す。
こうして、大人になっても「泣く(嘆く)ことで、周囲の注意を引いて、世話をしてもらいたい」と強く願う人ができあがる。
時に、抑圧していた時代はおとなしくしていることがあるために、周囲にとっては「あんなにおとなしかったいい子なのに、なぜ突然」といった反応を引き起こすこともある。
そういう人は、自分の不幸を大きく叫び、周囲からの関心を求める。
不幸を叫ぶと、必ず「どうしたの?」と声をかける人がいるものだ。
すると、その人は味を占めて、「大きく不幸を叫べば叫ぶほど、人に迷惑をかければかけるほど、注意を引いて、世話をしてもらえるようになる」と思うようになる。
こうして、その行動はエスカレートしてゆく。
風邪を引いたら、大声で「私は風邪なの」と、大喜びで元気に叫ぶ。
痛いところがあったら、ところ構わず「痛い」と叫ぶ。
不満があったら、いつもぶすっとした顔をして、嬉しいことがあっても喜ばない。
人が幸せを感じていたら、「私はこんなに不幸なのに」と、人の幸せをぶちこわす。
不幸なニュースがあれば、それを自分に関連させて、周囲にまき散らす。
「私たちは、こんなに不幸な世界に住んでいるんです」と、「自分ではない誰か」に助けを求める。
そして人々の不幸を打ち壊し、自分や自分の周辺の不幸を周囲にまき散らし、その上、自分では一切何も解決に向けて行動しないような人ができあがる。
「自分ではない誰か」に助けを求めると、人は自らの意志で不幸を選ぶようになる
これは、メシア(救世主)思想と同じだ。
自分では一切何もしようとせずに、「自分ではない誰か素晴らしい人」が、全ての問題を解決してくれることを願う。
そういう「全知全能の人」や、「救世主」、「私を助けてくれる、白馬の王子様」を求めているのだ。
自分で自分を幸せにすることは、一切せずに。
普通は、自分から望んで不幸になる人など、いないと思うだろう。
しかしそういう人は、自分から、自らの意志で不幸になることを望む。
というのも、もしそういう「救世主」や「白馬の王子様」がいたとすれば、きっと「世の中で一番不幸な人」から順番に救ってゆくだろう。
すると、少しでも早く救世主や白馬の王子様に助けてもらおうとするならば、「自分は少しでも大きな不幸を抱えていなければならない」のだ。
「救世主がいたならば、幸せな人を救うことはしない」、そう思うものだ。
だから、そういう人は、自分の周囲にどんなに幸せなことがあっても、それを拒絶する。
「少しでも幸せになったら、私は助けてもらえなくなる」とおびえて。
そして、自らの意志で、不幸を見つけて、それを身にまとい、落ちぶれてゆく。
「私はこんなにも不幸なんです!」と言いたいがために。
「救世主」からの関心を引きつけるために。
そのような人たちに、「こうすれば、幸せになれるよ。喜びを感じられるよ。楽しめるよ。お金を得られるよ。豊かになれるよ」といくら言っても、受け入れない。
なぜなら、彼らは自分の意志で、「世界で最も不幸な人」になりたがっているのだから。
そういう人に、救いの手をさしのべても、彼らは自分の意志でそれを断る。
自分が望んで、不幸を選んでいるのだ。
彼らは、「幸せになりたいんです!」、「救われたいんです!」などと叫ぶだろう。
しかし本当は、「幸せになりたいんです! (だから救世主様、私はこれから自らの意志で、世界で最も不幸な子羊になります。だから救って!)」と言っているのだ。
その「救世主」とは、多くの場合、「親」の幻影だ。
現実では、そのような救世主や白馬の王子様はいない。
彼らは、「幸せになるために、不幸を求めている」という矛盾に気づかない。
そして彼らは今日も、自らの意志で不幸を身にまとい、不幸を周囲にまき散らしてゆく。
そのような救世主を求めてしまうのは、「自分以外の誰か」が自分を助けてくれるように願うのは、幼児的願望が満たされていないから起こることなんだ。
まとめ
だから、彼らの好きにさせておけばよい。
彼らは、自分から不幸になりたくて、なっているのだ。
もし幸せを味わいたいのであれば、自らが幼児的願望を満たせばよい。
自分よりも外側に救いを求めるのではなく、自らの内面を見て、満たされない幼児的願望をあらわにして、癒せばよいだけなんだ。
もし豊かになりたいのであれば、幸せになりたいのであれば、その原理を知ろう。
そして、自ら不幸を探し、身にまとうのをやめよう。
「自分ではない誰か」に助けを求めるのではなく、「自分には力がある」と知ろう。
それが、嘆いてばかりの毎日から抜け出る、ひとつの方法になるだろう。