今日は日記的な、宗教と人間心理のお話です。

仏教で言う「解脱」の感覚を、私なりに語ってみることにしましょう。

 

仏教での「解脱(げだつ)」という概念

聞いたことがある人も多いかと思いますが、仏教では「解脱(げだつ)」っていう概念がありますよね。

実はこれは、釈迦よりもだいぶ前からインドにあって、インドの宗教ではそれなりに基盤となる考え方のようなんですが。

私は仏教以外の解脱については知らないので、仏教を前提として語ってみることにします。

 

この解脱という考え方って、私たちからすると、とても奇妙なものだったりします。

というのも、解脱って「輪廻(りんね)転生から外れて、生まれ変わらなくなったらそれで成功」という考え方なんですよ。

 

これって、「逆だろ!」と言いたくなるでしょ(笑

だってそれって、「死ぬ方が素晴らしい」みたいな響きがあるからです。

 

「輪廻しなくなると成功」への疑問

だいたい生命の原理からすると、すべての生命は「種の発展と繁栄」を目指して生きているものです。

なのでそういう「種を途絶えさせる方向性」というのは、生命の原理に反していると感じるものです。

 

だいたい輪廻転生と言わずとも、「夜に寝る」なんてことは、「一時的な意識の喪失(=死)」と似たようなものです。

だから「毎晩寝て、翌朝起きる、その生と死の繰り返しをやめたら成功」みたいな発想って、やはり私たちには「なんか違うぞ」と受け入れられないものです。

 

だけど実のところ、そうではなかったんですよね。

実はこれは、心理的な抑圧を解放すると、「まさにこれは、輪廻から外れた」という実感になります

そしてそれは、「いい悪い」ではなくて、「そういう感覚になる」というものです。

 

なので今日は、そういう「解脱(げだつ)」の感覚について、私なりに語ってみましょう。

ちなみに今日のお話を知っても、人生では1ミリの役にも立たないので、ご了承ください(笑

 

心理的な抑圧とは

このブログでも最近触れていますが、私たちは心理的な抑圧を持つことがあります。

私たちは幼い頃に「こうしなきゃ、生きていけない」と感じることで、それを無意識で絶対ルールにしてしまうわけです。

例えば「わがままを言ってはいけない」とか、「親に落胆されてはいけない。頑張らなきゃいけない。失敗は許されない。完璧にできなきゃいけない」みたいな思い込みがあるものです。

 

本来ならば、14歳ぐらいからの反抗期になると、一人になって抑圧源から離れることで、その抑圧ルールを解放するものです。

ですが1万2千年前から人類は農耕を初めて、大規模な社会ができて、土地に縛られるようになって、人口も爆発して、自由に移動ができなくなりました。

農耕によって、「自分が生まれ育った社会」という抑圧源から離れられなくなってしまったわけですね。

 

そのため、狩猟採集時代では誰もが簡単に抑圧を解放していたのに、今では抑圧を抱え続けるようになってしまったと。

そして、大人になっても「幼い頃からの学習」を持つようになって、抑圧で苦しんでしまうと。

 

なぜ抑圧を解放すると「輪廻から外れた」と実感するのか

じゃあなぜ抑圧を解放すると「輪廻から外れた」と実感するのか、ということです。

結論から言うと、次のような流れになります。

  • 抑圧の因果関係を作るには、輪廻という概念が必要になる。
  • 抑圧を解放すると、表層意識が希薄になる。
  • 表層意識が希薄になると、「私」がなくなるので、輪廻から外れた実感になる。

 

まぁこの概要だけではよく分からないでしょうから、以下でこの内容について詳しく説明してみましょう。

 

なぜ輪廻という概念が必要なのか

そもそも、なぜ輪廻という概念が必要なのか、ということです。

これは、「抑圧をうまく説明するために、輪廻転生という概念を作った」と考えると、自然に輪廻転生という概念を理解できます。

 

ちなみに古代インドでは、「すべてのことに、因果関係がある」とすることで、理論を発展させてきました。

まぁ科学的思考と同じで、「原因がなければ結果が生まれない」という発想と同じです。

 

ですがその一方で、私たちが「なぜ幼い頃に、抑圧を持ったのか」なんて言われても、私たちには答えられませんよね。

だって、「その親の子として生まれてしまったから」としか言えないんですから。

もはや自分では、どうしようもない次元の話です。

 

その場合、「なぜ私は抑圧を持つようになったのか」という意味不明な次元の話に因果関係を作るならば、輪廻とか前世という概念を設定すると都合がいいと分かります。

というのも、「前世の行いが、今世に影響したんですよ」とすれば、因果関係を作れます。

そして私たちは、前世の存在を証明できません。

だから、「証明はできないけど、矛盾も指摘できないので、今は分からないけど、とりあえずこれでいいや」としたんじゃないかと思います(笑

 

こうして古代インドで、「輪廻転生」という概念が生まれました。

 

表層意識が希薄になる

そんな中、私たちが抑圧を解放すると、表層意識が希薄になるんですよ。

以前の日記でも触れたように、表層意識が希薄になるというか、「何をしていても、なぜか瞑想状態に入ってしまう」という心理状態になります。

 

これはおそらく、表層意識での葛藤がなくなったからだろうと思います。

私たちの心理は、次図のような階層構造になっています。

↑ この図ですね。

 

細かい階層の説明は省きますが、私たちは普段、第1~2層の意識層で判断して行動しています。

そして第3層より下は、私たちが「意識する」という感覚ではなく、「自分の価値観に合うかどうか、その答えが返ってくる」という感覚になります。

だから第3層から下から来る情報は、私たちの意識からすると、「私の深層意識はこう言っている」とか、「天の声がこう言っている」という感覚で得られます。

 

「私」という感覚がなくなる

すると、抑圧を解放すると、「私」という感覚がなくなるんですよね。

まぁ「なくなる」とまでは言いませんが、「希薄になる」と言えます。

 

というのも、第1~2層で葛藤することがなくなるので、「意識はあるけど、何もとらわれない」という瞑想的な状態になります。

「葛藤がない」というのは、そういう「表層意識で悩むことがほとんどなくなり、『自分』を意識しなくなる状態」だと言えます。

 

また、価値観の判断は、第3層から下でやってくれます。

だから「私」という意識は、そういう「こうすればいいよ」という深層意識の声に従うだけです。

 

少しキリスト教っぽい表現を交えて言うと、「常に心穏やかに瞑想していて、内なる神の声に従うだけの僕(しもべ)になる」と言えるでしょう。

そういう「天の僕(しもべ)」という表現が合うように感じます。

 

こうして「輪廻から外れた」という実感ができる

この状態になると、「輪廻から外れた」と実感します

だって、輪廻するための「私」がないんですから。

 

だいたい転生するには、「私」がなければなりません。

「私」という価値観があることで、別の生に転生できるんですから。

 

ですが抑圧を解放すると、「私」は深層意識の声に従うだけの、虚無なる存在になります。

そして深層意識は、「私」という実感からは離れたところにあります。

 

だから転生するための「私」がないので、転生しようがない、ということですね。

なので抑圧を解放すると、「輪廻転生から外れた」という実感になる、ということです。

 

まぁもちろん、私たちは社会で生きる以上、「完全に抑圧を解放する」ということはできません。

ただ、「実感ではそういう感覚になる」ということです。

 

これは「いい悪い」ではない

で、これは「いい悪い」ではないと分かります。

おそらく釈迦も、いい悪いの判断を外して、「こういう感覚になるよ」とだけ言ったんじゃないかと思います。

そしてその感覚を「解脱」と呼んだ、ということのように思います。

 

だって、「解脱しよう」と言ってしまえば、それは「さあみんな、今から死のう!」と言っているのと似たようなものですからね(笑

「明日目覚めなければ、それですべて解決だ!」というのは、やはり問題発言でしょ(笑

釈迦が言ったのは、「解脱しよう」ではなく、「抑圧を解放して、解脱した感覚を得よう」かなと思います。

 

「生命の発展と繁栄」とは矛盾しない

まぁ「解脱しよう(抜けだそう)」と解釈しても、人によっては問題ないと言えます。

これは「高共感で、社会から離れて生きたいタイプ」ほど、この感覚の方が「生命の発展と繁栄」を実現できると分かります。

 

これは、私のよく使う4つの性質分類(外向型と、3つの内向型タイプ)で言うと、次図の「HSPタイプ」の人に当てはまります。

↑ これの右上側です。

 

なぜ「生命の発展と繁栄」をうながすのか

ちなみに左下の外向型になるほど、「社会的抑圧の中で、種を維持して繁栄させる」という使命を持ちます

そして、「社会」とは「抑圧」そのものです。

だから外向型ほど「抑圧社会の中で生きる方が合う」と言えるし、実際に強く我慢できるように、低共感で刺激にニブい性質でできています。

 

一方で右上のHSPタイプになるほど、「社会から出て、持続的で長期的に、新たな生き方を作る」という使命を持ちます

その場合、社会(抑圧源)から離れる方が、使命を全うしやすいと分かります。

 

だから右上のHSPタイプになるほど、「さっさと抑圧源から解脱する(抜け出す)」ことが、むしろ「生命の発展と繁栄」をうながすと分かります。

この社会的な「抑圧源から抜け出すこと」も、仏教で言う「解脱」も、等価のものです。

だって抑圧源から出てネガティブになれば、自然と抑圧を解放できるし、それが解脱を意味するんですから。

 

こうして抑圧を解放して、表層意識で悩むことはなくなり、生き生きとした状態を保って、自分の使命に生きられると。

簡単に言うと「死んで人生から抜け出す前に、いろんな『抜け出せるもの』があるよね。だからそういう我慢を強いるような環境からは、早めに抜け出そう」ってことです。

 

実際に釈迦も、抑圧を解放した後でも生き生きと長生きをしました。

これが、「抑圧を解放する」ということと、「解脱」の感覚のように思います。

 

まとめ

だから「抑圧を解放すると、解脱したような感覚になる」と言えるわけです。

ただただ内なる声に従って、「天の声の僕(しもべ)」として生きる感覚ですね。

 

すると、確かに合掌をしたくなるようにも感じます。

「両手を合わせる」というのは、両手という「外部を変える手段」を一時的に使えなくすることです。

だから人は内面を見つめる時とか、天の声を聴きたい時ほど、「両手を合わせる」という行動を取るのかもしれません。

 

いやまぁ、こういうことを言うと、「ついに気が狂ったか」とか言われそうですが(笑

まぁ私が言いたいだけだし、人生では1ミリも役に立たない内容なので、程度に聞き流してください(笑

 

ということで今日は、仏教で言う「解脱」の感覚を、私なりに語ってみました。

今日はここまで~。

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