今日は、人間心理と「世の中の仕組み」についてのお話です。

自己責任の(一部)放棄が、国家を作る、というお話をしてみましょう。

 

今回は、日本語版における「4つの性質分類」の最終回です。(延長戦もありえますが(笑

 

「自己責任を放棄したい」という人たち

先日も触れましたが、世の中には「宗教に盲信して、何もかもを組織の言いなりになって、全財産を寄付してしまう」みたいな人がいますよね。

そういう人は、こじれや劣等感を抜きにして、「性質として『自分』がない」と言えます。

 

これは言うなれば、「自己責任を放棄したい」という人たちです。

圧倒的に自分軸がないので、「何も自分で決めたくないし、決められない。自分で決めると不安でしょうがない」という性質です。

だから他者に責任をゆだねて、決めてもらうことで、安心して歯車になれると。

 

そしてこういう人は、許可を得なければ何もできません。

新たな環境に出るのにも、Twitterのフォローを外すのでも、お使いをするにしても、今までと違う状況になると、許可がなければ安心できないと。

 

社会のポジションになじめる性質

もし変化を求められる場合、権力者から責任を肩代わりしてもらう必要があります。

「大丈夫だよ、もし君に何かあったら、私が責任を取ってあげるから。もし苦情が来たら、あなたの代わりに抗議してあげるから」と言われないと、行動できないわけです。

だからこういう人ほど、属する組織が必要になるし、組織に使ってもらうことでより楽に生きられます。

 

なのでこういう「顔のないタイプ」の人ほど、社会からポジションを与えられると、すんなりそのポジションになじめると言えます。

というのも、自分軸がないので、社会的な役割に合わせやすいし、歯車になりやすいからですね。

だけど上記のように、変な宗教に入って変な役割を得ると、教団に貢がせるだけ貢がせて、破滅するような人が出てきてしまうと。

 

世の中の人は、大なり小なりそうしている

ですが、世の中のすべての人は、大なり小なりこういう「自己責任の一部放棄」をしているものです。

だってそういう「自己責任の一部放棄」をすることで、他者に責任を与えて、他者を批難できるんですから。

 

つまり、「他者が原因だとして、その他者を批難する」=「自己責任の一部放棄」ということです。

「自分には責任がないとすることで、自分の領域を守っている」とも言えるでしょう。

 

そしてそういう「責任を引き受ける」最大の組織が、国家だと分かります。

つまり、国家とは「個人の責任放棄で成り立っている」ということですね。

なので今日は、そういう「責任の一部放棄と、国家の成り立ち」について語ってみようかと思います。

 

そして今回の記事で、一連の「4つの性質分類」を(日本語版では)完結しようかと思います。

 

いつもの4つの性質分類

それを説明するために、いつもの4つの性質分類(外向型と、3つの内向型タイプ)を紹介しておきましょう。

↑ このブログで出てくるのが今回で最後になる、この4タイプです。

 

今回は、左右の軸(社会維持型と境地開拓型)を使います。

  • 社会維持型: 自己責任をより多く放棄することで、社会の歯車になれて、集団の力を発揮できる。個性がないので、自由はさして必要ない。
  • 境地開拓型: 自己責任をより多く持つことで、自由にできて、個人の力を発揮できる。個性が強いので、自由環境の方が生き生きとできる。

 

小学校の人間関係に「原始国家」がある

なら実際に、原始国家の成り立ちを見てみましょう。

そういう「原始国家」は、小学校の人間関係からすでに起きていると分かります。

 

例えばある小学校のクラスで、「顔がないタイプの子」、つまり「何も自分で決められないタイプの子」がいたとしましょう。

その子は劣等感を持たなくても、元々そういう「人の下につきたい。誰かに従いたい。責任を負いたくない」という性質を持っています。

 

するとそういう子は、外向型のガキ大将についていくようになります。

というのも、ガキ大将は何でも決めてくれるからですね。

また、顔のないタイプの子は刺激にニブいので、少々のことでも気にせずついて行けます。

だから、心地よく子分として活動できると。

 

「ガキ大将集団」は、まさに原始国家

そういう「ガキ大将集団」というのは、まさに原始国家の形態だと言えます。

というのも、君主がいて、家臣がいて、家臣は君主に責任と自由を受け渡すことで、君主や国家から守ってもらえるわけです。

 

例えば家臣が他の子供たちからいじめられた場合、家臣は泣いて君主に訴えます。

すると君主は「許せない! 俺がやっつけてやる!」と立ち上がって、家臣のために敵と戦うわけです。

 

その場合、君主自身が戦うこともありますし、家臣たちを使って集団で圧力をかけたり、時に実際にケンカなどの武力で戦うこともあります。

そういう「集団の力」を発揮することで、相手がどんなに強い個人でも、勝てるようになるわけですね。

 

すると敵対勢力は、弱い家臣にも手を出せなくなります。

だって、家臣に手を出すのは、その集団にケンカを売るのと同等なんですから。

 

こうしてそのガキ大将を君主とする原始国家は、安定を得られると。

家臣は個人では弱くても、国家の権威を得られて守られるわけです。

 

会社でも同じで、平社員でも「会社名が入った名刺」があることで、信用を得られて売り上げを上げられるものです。

これも、国家のメカニズムと同じです。

 

境地開拓型は、社会維持型の集団に勝てない

そういう場合、自由が好きな境地開拓型は、社会維持型の集団に勝てるはずがありません

だって境地開拓型は、できるだけ個人で力を発揮できるタイプで、集団を作りにくいからですね。

 

そういう場合、社会維持型は境地開拓型を、「社会の異端児」と見なしやすいものです。

というのも、境地開拓型は自由に新たなものを作ろうとします。

その場合、社会維持型からすると、「別種の人間だ」と映りやすく、同時にその「新しい行動」は混乱の種になります。

 

また、社会は同じ価値観で統一されて、安定します。

つまり、同種の価値観や人種ばかりで構成したくなると。

 

なので社会維持型の集団からすると、同じ社会に境地開拓型がいると、不安になります。

だから社会維持型は、個性の強い境地開拓型ほど価値観を押しつけたり、敵視したり、排除したくなるように思います。

 

特に世の中が混乱したときは、そういう「強い境地開拓型を排除する」という出来事が起こりえます。

例えば中世の「魔女狩り」がまさにそうで、社会が不安定化した時ほど、社会の人々は「人とは違うことをする人」を恐れ、迫害することがあると。

 

境地開拓型にできること

その場合、境地開拓型にできるのは、2つの軸があります。

1つが「自由を明け渡して、社会に居続けること」で、もう1つが「自由を明け渡さずに、社会からより距離を取ること」です。

 

これは、「社会のメリットを得られること」と「自由に好きなことができること」のトレードオフ(片方を立てると、片方が立たない関係)です。

この両者は、ほとんどの場合で両立できません。

まぁ一時的であればごまかすことも可能でしょうが、長期的にはごまかしはできないものです。

 

そして「社会のメリット」とは、「お金や社会システムを使って、様々なものやサービスを得られること」も含みます。

 

ならば後は、「どれぐらいの距離感で、社会と付き合うか」という問題だろうと思います。

その距離感をうまく取れると、適度に社会と付き合えて、適度に好きにできるかなと。

我慢がいいのではなく、「できるだけ自分に合った距離感を見つけて、距離感を合わせること」が大切かと思います。

 

国家体制にも、性質がある

で、国家体制にも性質別の傾向があります

それが、次のような性質になります。

↑ こういう国家体制の分類があると言えます。

 

国家は社会のために、社会維持型が行うものです。

なので、こういう「国家は社会維持型(左半分)側にのみ存在する」と言えます。

 

各軸の解説

左右の軸(社会維持型的か、境地開拓型的か)で、「統制社会」か「自由社会」になります。

社会維持的になるほど、統制的な社会になります。

一方で境地開拓的になるほど、自由主義になります。

 

で、上下の軸(高共感か、低共感か)で、「社会主義(弱者救済重視)」か、「競争主義(強者生存重視)」かが決まります。

高共感な国家ほど、弱者へのサポートを強めます。

一方で低共感な国家ほど、「生存競争で勝ち残った人が強い」となります。

 

これは私の予想ですが、「周囲に敵が多かったり、孤立した環境や状況」ほど、国家は社会維持的、つまり図の左側に傾くんじゃないかと思います。

周囲に敵や災害が多い状況だったり、孤立した状況ほど、団結する必要がありますからね。

すると国家は、自然と統制的になるわけです。

 

一方で「個体数を維持する必要がある環境」ほど、国家は高共感側、つまり図の上側に傾くように思います。

個体数が必要な場合、弱者を救済しないと人口は減っていくばかりです。

なら、必然的に「弱者を支えないと、国家は衰退する」と分かって、弱者救済を重視し始めます。

 

各国の体制を分析してみる

例えばアメリカは、新たな大地ということで、ヨーロッパからの移民が来て、境地開拓型が集まる環境でした。

また、ずっと人口流入が続いていて、人口が増えっぱなしだったので、弱者を救う必要もありませんでした。

だから右下の自由主義になっているように感じます。

 

一方でロシアの場合、ウラル山脈があって土地的にヨーロッパから切り離されていて、風土的にも極寒の地です。

だから統制的な社会主義になったんじゃないかな、と。

まぁロシアが福祉を充実させているかは分かりませんが、高緯度の国で福祉が強めなのは、やはり寒いからだろうと思います。

つまり「強ければいい」だけではダメで、弱者を助けないと、人口を維持できないからじゃないかなと。

 

まぁこの辺の国家体制は、一概には言えないんですけどね。

戦争の結果の支配体制とか、歴史とか、いろいろ影響を受けているものです。

 

日本だって、国家制度的には自由主義体制ですが、日本人はどちらかというと高共感側で、社会主義的な価値観を持っています。

逆に中国は、どちらかというと外向型の強者生存重視の民族ですが、名目では国家は社会主義体制を取っています。

いろんな国でそういうズレはあるので、一概に「民族と国家体制が同じ」とは言えません。

 

これからの10年の生き方

ただ、環境が変化することでも、こういう国家体制は変わってゆきます。

おそらくこれから5~10年ぐらいは、世界的に混乱の時代が来るかと思います。

 

ならば、必然的に「世界的に、統制的な体制になりそう」と予想できます。

すると、境地開拓型にとっては「より自由な方に動く方がいい」とできて、今から準備を進められるかと思います。

 

まとめ

そういう風に考えると、人間も国家も、性質の違いでできていると分かります。

「この性質がいい、悪い」、「この国家体制がいい、悪い」ではなく、その風土や状況に合わせている、ということですね。

 

私は自己責任が好きなんですが、こういう「世の中の形」が分かると、自分に合う環境を求められます。

これは国家だけでなく、会社も、友人関係も、SNSも、趣味の集まりも、すべてこういう性質分類があります。

 

「生きるのが苦しい」というのは、自分に合う場にいないからだのように思います。

もちろん幼い頃からの学習によって、「自分に合う場を錯覚している」という場合もあります。

その場合、「自分はどういう性質で、自分はどういう環境に向かえばいいのか」が分かると、より生きやすい場所が見えるかもしれません。

 

「生きやすい場所で生きよう」

これが、私が提案している「4つの性質分類」の目的でもあるように思います。

 

さて、今回で「4つの性質分類」に関する内容は、(日本語版では)最終回です。

あと数回ぐらいで、このブログも、日本語版での活動は終了となります。(たぶん)

 

ということで今日は、自己責任の(一部)放棄が、国家を作る、というお話でした。

今日はここまで~。

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