今日も生き方のお話です。
行動できるのは、「ポジティブだから」ではなく、「ネガティブを受け入れられているから」だというお話をしてみましょう。
私はよく「ポジティブに対するネガティブキャンペーン」をやりますが、今日もそんなお話です(笑
どうすればもっと動けるのか
現状を打破するために、「もっと行動的になりたい」とか、「もっといろいろ挑戦してみたい」ということって、あるかと思います。
でも、なかなか動けないことってありますよね。
それで「元気を出そう」、「勢いを出そう」、「ポジティブになろう」としても、長続きしなかったり。
そういう場合、「もっとポジティブになろう」ではなくて、「ネガティブ側を受け入れよう」としてみるのもいいように思います。
すると、安心して動けるかなと思います。
安心とは「ネガティブ側になってもいい」という許しのこと
この原理は簡単で、安心って、実は「ネガティブ側になってもいい」という許しなんですよね。
反対側の方向性も確保されているから、安心できるんだと。
例えば「撤退していいし、ダメなら撤退すればいいから、参入できる」とか、「落ち込んでいいし、ダメなら落ち込んで泣き言を言えばいいから、挑戦できる」みたいなことって、あるでしょ。
他にも、例えば「疲れたら、今夜布団に入ってぐっすり休めばいいや」と、部屋に暖かい布団を準備しているから、疲れることを恐れずに1日を行動できるわけです。
裏を返すと、「ネガティブ側になってはいけない」という思い込みが、行動を妨げていると。
「撤退したらバカにされる」とか、「落ち込んじゃいけない」、「疲れちゃいけない」と思い込んでいると、ネガティブ側の手段を執れません。
だからポジティブ側の「参入する、挑戦する、行動する」みたいな行動ができなくなるわけです。
「ネガティブな手段を選ぶこと」は悪いことではない
よく、「ネガティブになっちゃダメ」とか言いますよね。
でもよくよく考えてみると、ネガティブな状況になった時に、ネガティブな手段を選ぶことって、何も悪いことではないと分かります。
むしろ、それこそが自然で適切な処置じゃないかと思うんですよ。
例えば「売り上げが落ちたから、事業から撤退する」とか、「疲れたから休む」なんて、まさに「ネガティブな状況で、ネガティブな手段を選ぶ」ことです。
売り上げが落ちて可能性がないときに、もっと経費をかけて事業を続けると、赤字ばかりで破綻するでしょう。
疲れて身体が限界な時に、「もっと活動しなきゃ!」と活動を続けると、身体を壊して当然ですよね。
そして「撤退する」とか「休む」なんて、強烈なネガティブです。
つまり、「ネガティブな状況で、ネガティブな判断を下す」というのは、当たり前のことを、当たり前にしているに過ぎません。
人は、活動と休息、参入と撤退、希望と落胆、出会いと別れ、得ることと手放すことを繰り返しながら、望む方向に進んでいるんですから。
だからネガティブを恐れるようになる
なのに、「ネガティブな状況なのに、ポジティブじゃなきゃいけない」とするから、ネガティブ側の波が来ることを恐れるわけです。
例えば部屋に布団もなく、「もし疲れたら、休む場所がない」という状況で、「大いに活動しよう」なんて思えませんよね。
むしろ、「疲れたらどうしよう。寝る場所もないのに」と、活動して疲れることを恐れるようになります。
でも、人生には波があるので、必ずネガティブな状況が来ます。
1日単位でも、夜になると疲れる時が来るんですよ。
それでも「ポジティブじゃなきゃ。寝ちゃいけない」とすると、疲れ果てて調子が悪くなるのは当然だと分かります。
こうして「ポジティブになりたい」という人ができる
すると、そういう疲れた人ほど、いつも「寝たい。休みたい」と願うようになります。
こうして、「私はいつもネガティブで困ってるんです。ポジティブになりたいんです。私はどうしたらいいんでしょうか?」という、ポジティブを渇望する人が出てきてしまいます。
そしてポジティブなノウハウに手を出すんですが、確かに短期的には元気が出るでしょう。
でも、長期的にはもっと疲れて、もっとネガティブに陥ってしまうと。
客観的に見たら、「そこでポジティブを求めても無駄だ」と分かりますよね。
それは「ポジティブになれない」のが問題ではなく、「ネガティブを受け入れられていないこと」が問題の本質だからです。
でも、本人はその矛盾に気づいていないんですよ。
「ネガティブを受け入れられないこと」で起こる問題
実のところ、抑圧とかインナーチャイルドみたいなものも、すべてこの「ネガティブを受け入れられていないこと」によって起こります。
幼い頃に、本当は泣きたかったり、不安だったり、何らかの感情を感じていたのに。
なのに、「泣いてはいけない」、「そんな反応をするな!」と、偏ったポジティブ側の行動を強制されて、ネガティブに反応を出すことを許されなかったわけです。
だから自分を偽って、ポジティブ側ばかりを出すようになったと。
でも、実際の自分は、心の中でネガティブ側をたくさん抱えているし、ネガティブ側を望んでいるわけです。
疲れたら休みたいし、失敗したら落ち込みたいし、嫌な活動を避けたいと。
だけど、それを出せない状況です。
すると、「誰も私の気持ちを理解してくれない」とか、「誰か、本当の私を分かって」と感じるようになって当然でしょう。
「言わなきゃ分からないよ。主張しなきゃ」と言われても、ずっとその「主張」自体が許されなかったんですから。
そういう状況では、「何も言わなくても、私の気持ちを理解して欲しい」と願うようになって当然だと分かります。
波に合わせる生き方
最近の私は「波」で語るのが好きなんですが、まさにこの波です。
「上昇の波がいい」ではなく、「上昇の波の時は、上昇に合わせましょう。下落の波が来たら、下落の波に合わせましょう」ということです。
私はそういう「波に合わせる」ことを「自然に生きる」と表現してますが、そういう自然に生きるのがいいように思います。
元気になったら活動して、疲れたら休んで。
現状を変えたいなら新たに参入して、古いものから撤退して。
よりよく生きるために、何かを得て、重たくなったら何かを手放して。
そういう上下を繰り返しながら生きるのが自然でしょ。
すると、ネガティブはポジティブの根源になると分かります。
私が最近よく言う、「落とせば上がる」ということです。
休むことが元気の源になるし、撤退することが新規参入の力になるし、落ち込むことで気持ちや優先順位を整理して、より大切なことに目を向けて再び立ち上がれるんですから。
「抑圧やインナーチャイルドは、その波のサイクルを妨げられることによって生まれるものだ」とも言えるでしょう。
まとめ
なので安心して現状を変えたい場合、「もっとポジティブになろう」ではなくて、「ネガティブ側を受け入れよう」としてみるのもいいように思います。
ポジティブは短期的な力は出ますが、長期ではネガティブを受け入れる方がいいかなと。
そして「安心は、ネガティブな環境を整えることで生まれる」ということですね。
家に心地よい布団があって、十分に休めるネガティブな環境があるから、ポジティブな活動もできると。
ネガティブな方向でも心地よい環境を作っておくことで、ネガティブをも楽しめるようになって、ポジティブにもなれます。
活動して楽しんで、布団に入って寝るときも心地よくて幸せ、という感覚です。
別の表現をすると、「手放すさみしさとか、別れの切なさを心地よく味わえるようになると、新たな出会いとか、入手できるものが多く得られる」ということですね。
「夏ばかりがいい」ではなくて、「春夏秋冬、どの季節も味わいがある」のと同じです。
そういう季節のサイクルを、どんどん回していくイメージです。
すると変化に合わせて適切な手段を選べて、変化を作れるし、望みを実現しやすくなるかもしれません。
ということで今日は、行動できるのは、「ポジティブだから」ではなく、「ネガティブを受け入れられているから」だ、というお話でした。
今日はここまで~。