ここんとこ、この夏に経験したことを語っていますが、今日はその最終回です。(たぶん)

私は「自分を守るための武装」の武装解除をすることにした、というお話を、日記的につらつらと書いてみましょう。

 

自然に軸を置いた生き方

おとといの記事でも触れましたが、私はこの夏が、人生でも最も海を眺めた夏になりました。

言うなれば、私にとってこの夏は、そういう「穏やかな心をもたらすための、土台部分」を作っていたように思います。

 

誰もいない砂浜にいると、世の中の比較とか競争が、ちっぽけなものに感じるものです。

そして本当に自分にとって必要なこととか、大切なことに目を向けられます。

 

すると、そういう自然に軸足を置くことで、私はいつでもあの「お気に入りの砂浜」に感覚を戻せるし、その安らいだ感覚で判断できるようになるわけです。

だから、目先の小さなことでは左右されにくくなるし、どっしりと大切なことに向けて動けると。

 

で、そういう心の土台ができると、「もう、自分を守るための武装は必要ないな。等身大の自分でいい」と感じるようになりました。

自分を大きく見せたり、「私は価値がある人間だ!」と叫んだり、「私は他の人と比べて、これだけすごい人間だ!」と誇示する必要はないなと。

だから、そういう「自分を守るための武装」の武装解除をすることにした、というお話です。

 

願望と現実をごっちゃにしてしまう現象

そもそも私たちは、願望と現実をごっちゃにしてしまうことが多いように思います。

これは、「自信」という言葉に注目してみると、よく分かるように思います。

 

よくよく考えると、「自信」なんてものは、まったく無意味な概念だと分かります。

だって、「現実」と「自分の力量」を適切に把握できていれば、自信のあるなしに関係なく判断できます。

 

例えば「小学生ぐらいの算数問題を解け」と言われれば、おそらく私たちは答えられるものですよね。

一方で、「オリンピック選手と一緒に競争して走って、勝て」と言われると、まず私たちには無理だと分かります。

それは、「現実」と「自分の力量」を適切に把握できているからです。

 

そして、もしその中間ぐらいの難易度なら、「できるかどうか分からないけれども、やってみよう」と判断できるでしょう。

つまり、物事の判断基準は「現実」と「自分の力量」であって、自信が介入する余地なんてないものなんですよ。

 

「私は自信がない」は、自分の力量を過大評価していること

なら、「私は自信がない」というのは、「自分の力量を過大評価している」とも言えます。

だって、自分の力量を越えたものにばかり手を出しているから、失敗し続けて、「私は何もできないダメな奴だ」と学習しているんですから。

 

裏を返すと、小学生レベルの確実に解決できる問題から解いて、少しずつレベルアップさせてゆくと、「この分野においては、この辺が今の自分の力量だ」と判断できます。

なら、自分の力量を適切に把握できて、自信のあるなしに関係なく、適したレベルに挑戦できると分かります。

それが、本来の「自信」かなと思います。

 

「願望と現実をごっちゃにすること」が自信を失わせる

じゃあなぜ「自信がない」という風に、自分の力量を過大評価してしまうのか。

それが、先に触れた「願望と現実をごっちゃにしてしまうこと」でしょう。

 

「私はこれぐらいレベルの高い人間である。そうでなきゃいけない」とか、「私はこれぐらいの力量を持たなければならない」という願望が、「自分の力量」をゆがませて見せていると。

おそらくその根底には、「そうでなければ、自分を支配する支配者から受け入れられなかったから」という背景があるのかもしれません。

 

自分を大きく見せる意味

もちろん、そういう「自分を大きく見せる」というのは、「幼い頃に、権力者から選んでもらう時」ほど有効になります

というのも、幼い頃はほとんど違いがありません。

だけど、権力者がその中から有望な人物を選ぶ場合、「少しでも大きな素質を持っていそうな個体」を選んで、その個体を重点的に育てます。

 

例えばツバメの親でも、幼い子はどれも小さくて弱々しくて、どれが大きく育つか分からないものです。

だけど、より大きく口を開いている子がいることで、「この子は将来的に大きくなりそうだ」と判断して、確実にエサをやると。

だから、幼い頃で「選んでもらう」必要がある状況ほど、「自分の可能性を、競争相手よりも大きく見せる」ことが有効になります。

そうすることで、子は選ばれて、優遇されると。

 

ただ、私の中では、それ以外の状況では、そんな「自分を大きく見せる」というのは必要ないように思います。

つまり、「成長したり、選ばれることを手放せると、自分を大きく見せ続けることに意味はない」ということです。

 

私たちは選ばれたのか、選ばれなかったのか

そもそも、私たちは「選ばれた」のか「選ばれなかった」のか、考えてみると分からないものです。

「個性が強くて、社会や周囲になじめなかった」というのは、選ばれたのか、選ばれなかったのか。

「幼い頃の苦しい境遇で、後遺症を引きずるようになった」というのは、選ばれたのか、選ばれなかったのか。

「苦しいだけの状況に生まれてきた」というのは、選ばれたのか、選ばれなかったのか。

 

その先には科学の論理なんてどうしようもなく、宗教的な領域になるようにも思います。

つまり、「どれだけ選ばれれば、幸せになれるのか」というのは、私たちにはよく分からないことだなと。

 

選ばれなくても、誰も見下してなんかいない

そして、自分が選んで生きていると、選ばれなかったからといっても、誰も私を見下したりしていません

例えば私が「メジャー系アニメ、映画の制作監督になれなかった」と未練を持っていたとしても、誰も私を見下したりしていません。

「あやえもんさんのブログを楽しみにしてます!」と言ってくれる人にとっては、私の指揮監督方面でメジャー系を経験したかどうかなんて、関係ないんですよ(笑

 

そして私は、制作監督は小規模ならよくても、大規模では苦しみしかないわけです。

一方で、ブログは好きで書けるし、うきうき気分で毎日書けると(笑

 

ならば、その「選ばれなかったこと」を見下している人なんて、誰もいないと分かります。

つまり、「現実」は、できなかったからといって、誰も私たちを見下したりはしていないと。

その「できないと見下される」、「それができないのは、ダメ人間だ」という常識は、幻想でしかないわけです。

 

今までの幻想を持ち続けるか、現実を選ぶか

なら、「幼い頃に抱えた幻想」を持ち続けるか、「別の可能性を作れる現実」を取るか、という問題です。

 

で、ここでほとんどの人が、それでも幻想にすがり続けます。

きっと、それだけ未知の世界は怖くて、なおかつ今までの自分を否定できないんだろうな、と思います。

ある意味、今まで属していた宗教から足を洗うのは、それだけ難しいわけですね。

 

ただ、きっとこれが海の持つ力なのか、私は新しい価値観へと踏み込すことにしました。

だから私は、「現実」側を選んだと。

これは、「今までの自分を作っていた、大切なもの」を手放すことを意味します。

でもまぁ、私は自分を変化してゆけるタイプだし、そういう別れもあるかな、と思います。

 

まとめ

そういう風に、「選ばれる必要は、もうないんだ。誰も私を見下してなんかいない」と分かったとき、「自分を守るための武装」は必要ないな、と分かったように感じます。

だから、武装解除をすることにした、ということです。

 

「私はこんなに実力を持っています!」と、能力アピールをする必要もなく。

「私はこんなに幸せです!」と、幸せアピールをする必要もなく。

「私はこんなに豊かです!」と、豊かさアピールをする必要もなく。

 

「自然体で、肩の力を抜いて生きるのが、私にとっては心地よいな」というのが私の実感です。

そして「自分にとって心地よい方に進もう。合わない道で、武装して生きるのはもういいや」とできた、ということです。

それが、この夏に海を眺めて実感したことですね。

 

この夏に経験したお話は、今回で最終回です。

「内面を解決した!」と思っても、いろいろ出てくるし、気がつくこともあるものなんですね~。

でもまぁ今回の経験で、より自由に、安心して、自然体で生きられるようになったように思います。

 

ということで今日は、私は「自分を守るための武装」の武装解除をすることにした、というお話でした。

今日はここまで~。

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