今日は、人間心理のお話です。
「コップに半分も水があると思いなさい」の教えは不自然だし、無意味な理由を説明してみることにしましょう。
「コップに半分も水がある」の教え
よく、こういう教えがありますよね。
「コップに水が半分入っている。『半分しかない』と思うのではなく、『半分もある』ととらえなさい」みたいな。
まぁ、言うなれば「ネガティブにとらえずに、ポジティブとらえなさい」というものなんですが。
最近の私は自然に立脚した考え方をするようになったんですが、するとこの教えが「不自然だし、無意味だな」と分かるようになりました。
これが分かると、「より根本問題に目を向けさせてくれる教えが重要だ」と分かって、いい教えを取り込みやすくなるかと思います。
因果関係がおかしい
じゃあなぜこの教えが不自然で無意味なのかというと、これは因果関係が間違っていると分かるからです。
「(原因)満たされているから、(結果)半分もあるととらえる」というのが、自然な因果関係です。
なのに、「(原因)半分もあるととらえるから、(結果)満たされる」となるのは、因果関係として不自然です。
結果は、どんなにそれに影響を与えようとしても、変えられません。
だって原因を変えない限り、結果は変わらないんですから。
もちろん共感性によって、短期で気分だけは味えるでしょう。
ですが、それは根本問題を何も解決していません。
つまり、短期的なごまかしでしかない、ということです。
前提条件が違う
これを言い換えると、「前提条件が違う」とも言えるでしょう。
ここで少し、論理から離れて、自然な感覚で物事を見てみましょう。
「コップに半分もある」と自然にとらえられる人はどういう人かというと、そもそも水をたくさん飲んで、すでに満たされている状態です。
下手すると、少し飲み過ぎちゃって、うぷっとなっているぐらいかもしれません(笑
一方で「コップに半分しかない」と自然にとらえる人はどういう人かというと、水に飢えている状態でしょう。
残り半分では全然足りないから、「もっと飲みたいのに、半分しかない」と感じてしまうわけです。
なら、満たされた人は「半分もある」ととらえて、飢えた人が「半分しかない」ととらえて自然だと分かります。
何もおかしいことはありません。
「飢えた人の推測」からできた教え
そしてそういう前提条件が違う中で、「満たされた人は半分もあるととらえるから、飢えたあなたもそうとらえなさい」と言っても、まったく無意味だと分かります。
だって、一方は満たされているし、一方は欠乏しているんですから。
前提条件が違うのに、「そう考えているから」だけで同じように満たされろと言うのは、だいぶ暴論だと分かります。
きっとこの理屈は、「飢えた人の推測」からできたものじゃないかと思います。
満たされてポジティブに活動している人と、自分(飢えていて、ポジティブばかりを求める人)とを比べて、両者は何が違うのか。
それで飢えた人は、満たされた人は「半分もある」ととらえて、自分は「半分しかない」ととらえていることに気づいたんでしょう。
だから、「成功の秘訣は、半分もあるととらえることなんだ!」と理屈で考えたものじゃないかな、と。
だけど前述の通り、それは因果関係がおかしいことになります。
だから欠乏感を増やす
それどころか、この教えは欠乏感を増やす副作用を起こしうるでしょう。
それは先日触れたように、代償欲求を満たそうとしているに過ぎないからですね。
本当は根本問題があることで飢えているのに、「イメージで満たせる」と勘違いしてしまいます。
だから、「もっと満たされた気分をイメージできれば、もっと満たされるはずだ」と思って、根本問題とはまったく関係ないものを得ようとしてしまうと。
そしてその先にあるのは、永遠の欠乏と、永遠の追求です。
何も根本問題を解決していないので、「満たされた気分をイメージできれば、幸せになれるはず」と代償欲求を無限に取り込みまくってしまうと。
で、足るを知ることなく、アルコールやドラッグ、称賛や地位のように、「イメージ中毒者」ができてしまうと。
まぁそういうのをモチベーションにするクリエイターもいますが、不健全であることには変わりありません。
「不自然な教え」の数々
そして、こういう「不自然な教え」は、かなりあります。
例えば「あるものに感謝しなさい」も同じですよね。
「(原因)満たされているから、(結果)あるものに感謝できる」が自然です。
なのに、「(原因)あるものに感謝すれば、(結果)満たされる」というのは、不自然だと分かります。
欠けているものに感謝しても、満たされることはありません。
感謝や感情は結果であり、原因ではありません。
もちろんこれも、共感性のメカニズムがあるので、短期ではイメージで気分を味わうことができますし、科学的にもその効果は証明されています。
「無理にでも笑顔を作れば、セロトニンが増える」みたいな現象はありますからね。
ですが、これも短期のものでしかありません。
「科学で短期的な効果が証明されていること」と、「根本問題を解決すること」は、別問題です。
そして「無理にでも笑顔を作って、毎日延々と苦しい状況に身を投じ続ける」というのも、不自然だと分かります。
「置かれた場所で咲きなさい」の無意味さ
他にも、「置かれた場所で咲きなさい」なんて言葉もあります。
そもそも考えてみると、「なんでそんな無意味な制限をするの?」ってツッコミを入れたくなるじゃないですか(笑
言うなれば、「あなたはYouTuberとして、動画配信で成功しなさい」と言っているようなものです。
本来ならば、ブログとかイラスト、漫画、音楽で成功してもいいし、何なら畑で野菜を作っても、機械工になっても、建築設計者になってもいいものです。
「なのに、なんでその職業限定なの!?」って言いたくなるのと同じです。
願望を教えとして他者に押しつける人
じゃあなぜこの教えが共感を得て支持されているのかというと、それが「願望だから」じゃないかと思います。
「置かれた場所で咲きなさい」というのは、「親が指示した場所で成功しなさい」と同じニュアンスを感じられます。
すると、「その教えの発言者は抑圧を持っていて、親からの教えに従わなきゃいけないと思い込んでいた」と推測できると、とたんにその発言者の動機が理解できます。
だって、それがその人の願望だからですね。
「親の価値観に盲従(もうじゅう)して、親を際限なく満たさなければならない。だからその場で死ぬまで頑張って、親を満たしなさい」
それをきれいな言葉で、それっぽく置き換えて、他者にも押しつけようとしたに過ぎないと分かります。
つまり、それは「自らの成功体験」というよりも、「願望」を教えとして表明しているに過ぎません。
そして、抑圧を持つ人で、「親の価値観に盲従して、親に喜んでもらいたい」と願望を持つ人は、かなりいます。
だからその言葉が響いて、共感してしまうと。
でも、その論理の先にあるのは、永遠の我慢と服従です。
自然な立ち位置から考えると「なんかおかしいぞ?」と分かるのに、いろんな論理の罠にはまってしまうと。
本質を突いた教え
逆に、本質を突いた教えもあります。
例えば私の好きな言葉として、キリスト教で、こういう祈りの言葉があります。
「神よ、与えたまえ。変えられないものを受け入れる心と、変えられるものを変える勇気と、それを見分ける英知とを」みたいな。
こういう言葉は、とても本質をついていて、自然だと分かります。
ここまで本質を突いたことを言われると、反論しようとしてもできないでしょ(笑
他にも、例えば上記の「コップに半分水がある」というのも、元は違った意味で使われているようで。
元々は経営学者のピーター・ドラッカーの言葉なんですが、それは「発想を変えると、世界が変わるよ」というイノベーションの発想例だったようです。
「世の中はみんな、『半分しかない』と思い込んでいる。だけど私たちは、『半分もある』とか、『半分は空だ』と発想を変えるんだ。量的には同じだけど、認識方法を変えると、そこにイノベーションが生まれうる」みたいな。
確かにこれなら自然だし、目からウロコをうながすいい教えですよね。
なのに、なぜか知りませんが、それが「ポジティブがいい。ネガティブはダメ」みたいな教えにすり替えられちゃったようで。
まとめ
そんな風に、世の中の教えでも、無意味なものとか、因果関係が間違ったもの、代償欲求を満たすだけでしかないものは、結構あります。
つまり、世の中にある教えも、だいぶ混乱しているわけですね。
それが、私たちを混乱させる一因になっているようにも感じます。
だけど、論理だけで見るのではなく、自然の立ち位置から見ることで、効果があるのかないのかを見分けやすくなります。
いい教えは、根本問題を解決する方向に目を向けさせてくれます。
実際に私たちが本を読んだときでも、「なんかこの作者、表面的なものばかりだよな」って軽く感じること、ありますよね。
それは、何も根本問題を解決できないからでしょう。
一方で、「この作者は、筋が通っていて、どっしりしている」と感じることもあって。
それがやはり、自然な本質をとらえていて、根本問題に目を向けさせてくれるからじゃないかと思います。
私の中では、そういう「自然な教え」を取り込めるほど、混乱を減らせて、根本問題を解決しやすくなるように思います。
逆に、情報のジャンクフードばかり食べていると、より混乱して、代償欲求ばかりを求めてしまって、不健康になって当然のように思ったりもします。
これが分かると、うまく健康的な教えを取り込んでゆけるかもしれません。
ということで今日は、「コップに半分も水があると思いなさい」の教えは不自然だし、無意味な理由を説明してみました。
今日はここまで~。