今日はタイトルの通りです。
「空気を読む」というのは時々耳にする言葉ですが、この言葉を使っている人は大抵が「嫌われるのが怖い」という動機で使っているんじゃないかなと思います。
そして「好かれる人」というのは、そういう次元ではなくて、「空気を作る」という人が好かれているような気がします。
「空気を読む」人と「空気を作る」人の違い
「空気を読む」という言葉を使うのは、「嫌われるのが怖い」、「周囲に合わせなきゃ嫌われる」と思い込んでいると。
そういう人が所属している社会や集団というのは、だいたいがありのままを出すことを許さないような劣等感に満ちた環境じゃないかと思うんですが。
だから、「嫌われる」ことはなかったとしても、「好かれる」こともないんじゃないかと。
一方で、「空気を作る」ことができる人というのは、「ありのままの自分を出せる」人かなと思います。
そして、そういう人は、人に好かれると。
ただ、こういう人は、好かれると同時に、嫌われることもあるんですよ。
つまり、「好かれないけど嫌われもしない生き方」か、「嫌われもするけど、好かれもする生き方」の二通りがあると。
空気を読もうとすると、「ありのままの自分」を出せなくなる
「嫌われたくない」と空気を読もうとする人は、次第に「ありのままの自分」を発揮できなくなるものです。
だって、「ありのままの自分」というのは、言葉通り「わがまま」ですからね。
逆を言うと、自分の意志を出せる人で、自分の意志を出している状態というのは、「空気を読んでいない」ものなんですよ。
「私はこれをしたい」、「私はこれがいい」、そう表現することは、周囲に合わせることとは決定的に違いますよね。
「自分を偽って生きる」と、好かれていることを実感できない
ロバート・キヨサキ氏が著書で言っていて、私が気に入っている言葉があって、それはこういうものだったりします。
「世の中には三種類の人がいて、世の中の1/3は貴方を好きで、もう1/3は貴方のことを嫌いで、残りの1/3はどうでもいいと思っている」
実際、「世の中の全ての人に嫌われない」というのは、不可能なことじゃないかなと思います。
また、世の中の1/3ぐらいは、その人を好きな人がいるとも思います。
ただ、実は「ありのままの自分」を出せない人には、その「好かれている」ことを理解することができません。
というのも、「自分を出さない」イコール「本当の自分ではない」ということです。
本当の自分でない状態で生きていて、他の人から「好き」と言われたとしても、「この人は本当の私を好きと言っているわけではない」と感じるものですよね。
本当は、それを含めてその人の全てを受け入れてくれている場合もあるのに、愛されている本人は「ありのままではない」から、たとえ愛されていたとしても、「誰からも本当には愛されてはいない」と感じるわけです。
つまり、「ありのままの自分」を出せない人というのは、「世の中全ての人から愛されない」と感じるわけです。
これって、まさに地獄ですよね。
本当は1/3ぐらいの人は愛してくれているのに、それに気づけないんですから。
そして嫌われないように、もっと嫌われないようにと空気を読もうとして、自分を出せなくなって、永遠に愛情を感じられなくなるわけです。
「ありのままの自分」を出すと、愛情を受け取れる
一方で、「ありのままの自分」を出せる人は、好かれていることを素直に受け取れますよね。
そして、自分を精一杯表現できるようになるわけです。
もちろん、嫌われることもありますが、ありのままの自分を受け入れてくれる人がいるので、底力というか、そういうベースの部分が違うんですよ。
実際、一人でも自分を受け入れてくれる人がいたら、違うものですよね。
まとめ:「好かれずに、嫌われることもある生き方」か、「好かれて、嫌われることもある生き方」か
だから、先に「好かれないけど嫌われもしない生き方」か、「嫌われもするけど、好かれもする生き方」の二通りがあると言いましたが、正確に言うと、ちょっと違うんですよ。
より正確に言うと、「好かれていることに全く気づけずに、嫌われることもある生き方」か、「好かれていることを実感しながら、嫌われることもある生き方」かのどちらかになります。
結局のところ、人から嫌われずに生きることなどできないということです。
なら、どちらを選ぶのか。
まぁそんな風に、「空気を読む」ということと「空気を作り出す」というお話をしてみました。
今日はここまでっ。