今日は、ちょっと宗教のお話でもしてみましょうか。

仏教で、「供養」という考え方があります。
「先祖供養」とか、戦死者の「供養塔」とかありますよね。

そんな「供養」について、少しお話ししてみましょう。
今日のお話は、「自分は生きている価値はない」と思っている人には、少しだけ心の負担が軽くなる(かもしれない)お話です。

 

「自分がいなければ、周囲はもっと幸せなんじゃないだろうか」という思い

ある人のブログを見ていたら、こんな内容があったんですよ。

その人は、親切心から誰かを助けました。
でも、ふと疑念に駆られるんですよ。
自分はその人を助けて「自分は正しいことをした」と思っているけれども、もしその人が将来に殺人でもしたら、「自分は殺人に荷担したことになるのではないか」、と。

こういう感覚になる人は、いるんじゃないかと思います。

例えば、私たちは毎日食事を取っているわけです。
すると、食べられる側である鶏や牛、豚、魚にとっては、大迷惑ですよね。
ということは、「自分さえいなければ、彼らは死ぬことはなかったのではないか」……そう感じるわけです。

他にも、人間に対しても感じることがあるかもしれません。
私たちが生きている限り、誰かの世話になったり、誰かに手間をかけさせているわけです。
親は、わざわざ働いて苦しんで、自分を育てなければならなかった。
先生は、わざわざ物わかりの悪い子どもに、教えたり、怒ったりしなければならなかった。
他にも、多くの人が、自分のために時間を費やしたり、労力を費やしている。

自分がいなければ、彼らはもっと自由な時間を得て、楽しめたのではないか。
自分がいなければ、彼らは面倒なことをせずにすみ、幸せになれたのではないか。

そういう風に思う人は、いるんじゃないかと思います。

 

「劣等感」という思い込みが、私たちに悪さをしている

実際のところ、これは劣等感がそう思わせているだけなんですよね。

このブログでも劣等感は一つのテーマでもあるので、今回は改めて劣等感について説明しておきましょうか。

劣等感とは、私たちが持っている、「自分は劣っている」、「自分には価値がない」という思い込みのことです。
これはただの「思い込み」で、実際に劣っていようがそうでなかろうが、関係ありません。

というのも、人間はこの地球上で70億人以上もいるわけです。
その中の一人が、自分らしく生きようが、自分を殺して生きようが、宇宙規模の視点で見れば、全く変わらないものですよね。

ツバメが少しぐらいエサの蛾を食べ過ぎたところで、そんなの気にする人はいませんよね。

ですが、その思い込みが、私たちに悪影響を与えることが多くあるわけです。

 

一つの「考え方」で、苦痛が取り除ける例

劣等感というのは、私たちが幼い頃から「お前には価値がない」、「お前さえいなければ、私は幸せだった」というメッセージを受けてしまい、その電気ショック(脳内の神経細胞は、電気で伝達しているため)によって苦しんできたわけです。
そして成長した後でも、「自分には価値がない」と連想させる出来事が起こった場合、「その電気ショックを脳内で繰り返して、自分から痛みを再現している」わけです。

ですが、次のように対処することもできるでしょう。

例えば、前日に貴方が、大好きな人にひどいことを言ってしまったとしましょう。
すると、その日は「嫌われちゃったかもしれない」と不安になり、鬱々とした状態で過ごすことになります。
胃は痛んだり、眠れなかったりするかもしれません。
ですが、次の日にその人に会ったら、「おはよう」と笑顔で言われて、それまであった鬱々とした気分が一気になくなって、元気になったと。

これは、一つの「情報」が、その人の鬱々とした気分を吹き飛ばしたわけです。
「おはよう」という言葉と共に、「相手は気にしていなかった」という「情報」を得たからこそ、気分の悪さが一瞬にして解決したわけです。

これと同じで、一つの「情報」や「考え方」次第で、人は全く違った気分を得られるわけです。
どんなにそれまで重たい気持ちだったとしても、一気に変えられる可能性があるわけですね。
それが、宗教の一つの使い方でもあるでしょう。

いつものごとく前置きが長くなりましたが、「自分は生きている価値はない」と思っている人に対して、今回はそんな一つの「考え方」をご紹介してみましょう。

それが、仏教で言う「供養」の考え方ですね。

 

「食べられる側」の視点で見てみる例

ところで、私たちは毎日食事を取っていますよね。

そこで、ちょっと視点を変えて見てみることにしましょう。

私たちが、食べられる側になったとします
「進撃の巨人」みたく、巨人が出てきて、私たちは食べられるわけですね(笑

で、もちろん私たちは食べられたくないので抵抗しますが、哀しいことに捕まって、食べられちゃいます。

そこで、巨人が「くそっ、まずい奴だった。こんなの食べるんじゃなかった」と吐き出したとしたらどうでしょう。
「なら食べるなよ!」とか、「俺の死って何?!」とか思いますよね(笑

でも一方で、巨人が食べて、「あぁ、美味しかった。ありがたいな。これで明日も壁の外を元気いっぱいランニングできるぞ♪」と言ったらどうでしょう。
まぁ食べられたことは嫌ですが、食べられたものはしょうがないので、受け入れたとしましょう(笑
すると、幽霊になった私たちは、「まぁ少しでも栄養にして、ランニングを楽しんでくれればいいか」とか納得できるわけです。

つまり、食べられたとしても、感謝されれば多少は納得がいく……ということです。

 

テロリストから男の子を助けた人の例

もう一つ、他の例で見てみましょうか。

私たちが銀行にいたら、テロリストが入ってきました。
そして銃を乱射して、無差別殺人を始めてしまいます。

貴方はダイ・ハードの主人公みたく、一人の男の子をかばいながら、テロリストから逃れ続けることに成功します。
ですが、地下道を男の子と逃げていると、ついにテロリストに追いつかれてしまいます。

貴方は男の子を先に扉に入れて、自分は地下道に残り、こう言います。
「俺は傷を負っているから、ここまでだ。お前は先に行け。ここは俺が食い止める!」と。

これは誰もが言ってみたいセリフでしょう!(笑

ですが、男の子は言います。「そんなの嫌だ!」と。
そこで貴方は、優しく言います。
「大丈夫、俺はここで小細工をして、後からすぐに追いつく。お前は足手まといだから、先に行け!」と。

そして男の子が納得して走り去った後に、微笑みながらこうつぶやくわけです。
「ボウズ、俺の分まで、幸せになれよ……」と。

そして敵のテロリストが現れたら、「俺はこっちだ! かかってきやがれ!」と、銃を撃って目立ちながら、別の道へと走ってゆくのです。

もうかっこよくて、ホレちゃうでしょ!(笑

そして貴方は、ちゃんとテロリストに殺されてしまうわけです。
男の子は無事に警察に保護され、生き抜くことができました。
スタッフロールが流れて、感動の嵐なわけです。

 

その男の子がその後、こう思っていたら……?

ですが、スタッフロールが終わって、幽霊になった貴方は何年かして気がつくわけです。
その男の子が、こう言っているんですよ。

「僕さえいなければ、あのおじさんは死なずに済んだんじゃないだろうか……」と。
そしてその男の子は、鬱々として毎日を楽しむことができずにいます。
それどころか、自殺願望まで持っているのです。

「いやいやいやいや! 違うやろ!」と、叫びたくなりますよね(笑

「そこは、『ありがとう、お兄さん』だろう!」と(笑
時々、青空をバックにあのお兄さんの笑顔を思い浮かべながら、涙を思い出しつつも、それでも幸せに向かって生きようとするシーンでエンディングでしょうと。

それなのに、当の男の子が、「自分には価値がないんだ」とか言っているわけです。
それこそ死んだ方にとっては、やってられないでしょ(笑

 

何のために、命をかけて助けたのか

実際のところ、私たちが食べている命や、世話になっている人たち、世話になった人たちというのは、これと同じです。

何のために、貴方を助けたのか、ということですよね。

それは、テロリストの脅威から男の子を救ったのと同じです。
助けた方からすると、別に男の子が自分より優れていたからでもなく、自分より未来の可能性があったからでもないものです。
ただ単純に、自分より若かったからとか、弱かったからとか、そういう「何となく」で命を張ったわけです。

そして、彼らは「ボウズ、俺の分まで幸せになれよ……」と言って、その子を助けたわけですね。
「俺の分まで苦しめよ……」と言って助ける人なんて、いないわけです(笑
それどころか、「俺の分まで、社会貢献しろよ……」とか、「俺以上に、世の中に価値を与えろよ……」とかも思わないわけです。

かばった人は、「あんたが幸せになれば、それでいい」んですよ。
それ以上なんて、ハナから求めてはいないわけです。

 

犠牲に感謝して報いることが、「供養」

私たちができる反応とは、次の二つがあります。

  • 犠牲になってくれた動物や人に感謝して、精一杯自分にとっての幸せを味わうこと。
  • 犠牲になってくれた動物や人に感謝せず、自分を苦しめて生きること。

どっちを選びたいですか、というお話です。

そして、前者の「犠牲になってくれた命に感謝すること」を、「供養」と言います

これは、食べ物だけではありません。
戦争に行って、自分たちを守ろうとしてくれた人たちや、手間をかけてくれた人、世話をしてくれた人に対しても含まれるでしょう。

彼らの命に感謝して報いることが、供養になるわけですね。

そして、例えば食べ物でも食べきれずに残してしまった場合、「ごめんなさい。次からは気をつけます」と心から謝って、処分するわけですね。
だったら、無駄にされた命の方も多少は報われて、「次からは頼むでぇ」と納得してくれるものです。

 

貴方はただ単に、「選ばれた人」だということ

実際のところ、劣等感がある人というのは、感謝もしない上に、自分を苦しめて、そして犠牲になっている命にも報いないわけです。

ですが、感謝をして「みんなの分まで幸せを楽しみます」と心に誓って、自分を幸せにして、そして犠牲になった命に報いることもできるわけですね。

すると、「自分がいなければ、彼らはもっと自由な時間を得て、楽しめたのではないか」とか、「自分がいなければ、彼らは面倒なことをせずにすみ、幸せになれたのではないか」とかいう思いに苦しむことはなくなるものです。

だってそうでしょ。
テロリストから男の子をかばった時、貴方はそんなこと考えもしなかったでしょ。

ただ、「誰かのため」になりたかったから、男の子をかばったわけです。

だったら、「誰かのため」にされた側には、言うなれば「幸せになる義務」があるわけですね。

貴方は、その「誰か」に選ばれたわけです。
今貴方が生きているということは、助けられた男の子として生きているのと同じです。

多くの人や命が、テロリストからかばい、貴方に道を託したわけです。
それは、人だけではなく、今まで食べた命もあるでしょう。
それらの膨大な命が、貴方に「ここは任せろ。俺の命を使って、生き延びろ。そしてボウズ、幸せになれよ……」と言って、幸せのバトンを託したわけですね。

それに、何を恥じる必要があるというのでしょうか。
何を苦しむ必要があるというのでしょうか。

ただ、貴方は幸せを思う存分味わえばいいだけなんですよ。
社会貢献とか、価値とか、そんなものどうだっていいわけです。
それが、彼らに報いる最大の礼なわけですね。

 

犠牲になった命を知れば、「託された幸せ」の量を知る

もちろん、過去に「お前なんかいなければよかった」とか「お前には価値がない」と明にも暗にも言われてしまい、生きる意味を失ってしまったかもしれません。
しかも、親や周囲の人など、手間をかけたその人がそれを言ってしまうことが多いわけです。

ですが、貴方がこれまで食べた命などは、それとは比べものにならないほどの大きなものではないでしょうか。

彼らは全て、「貴方に幸せになって欲しい」から、命を投げ出したわけです。
でないと、彼らは死んでも報われないわけですね。

だからこそ、今まで死んだ命のためにも、生き残った人は精一杯幸せになる必要があるわけです。

それが、命に対する最大の「供養」になるわけです。

 

まとめ:劣等感を克服したい場合、「供養をする」という考え方もある

そういうこともあって、劣等感を何とかしたい場合、「供養」をしてみるといいかと思います。

それは、食べる時に「いただきます」と言って、食べ終えたら「ごちそうさまでした」ときちんと手を合わせることです。
人に世話になったら、「ありがとうございました」と頭を下げるなり、手を合わせるなりすることです。

その感謝があった瞬間に、犠牲は「無駄」から「有意義」になるわけですね。
そしてその「有意義」を積み重ねれば積み重ねるほど、貴方は自分の価値を感じられるようになるでしょう。

その価値がしっかりと積み重なって、貴方の中から感謝が自然とあふれ出るようになった時、劣等感から克服しているものです。

そして劣等感を克服して、「曇りのないまなこ」で物事を見ることができるようになった時、貴方は全ての命や人が、貴方に幸せを託していたのだと気づくでしょう。

 

ということで、今日は「供養」についてのお話をしてみました。

今日のお話はここまで!

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