少し前に「もう精神的なお話は終わり!」と言いつつ、今日は精神的なお話です(笑
いやぁ、語り忘れていたものがあったので。
なぜ「自己肯定感」という概念は役に立たないのか、というお話です。
なぜ「自己肯定感」という概念ができたのか
以前の記事で、「自己肯定感という概念自体がこじれている」ということを説明しましたよね。
周囲から嫌われている場合は、場所を変えればいいし、周囲から好かれていれば、「なぜ拒絶されていると感じるのか」という認知のずれを調整すればいいと。
だから、どちらにしても「自己肯定感を上げよう」とする必要はない、ということです。
じゃあなぜ自己肯定感という概念ができたのか、ということです。
今日はその流れを説明してみましょう。
で、これが分かると、「今の段階では、個人では自己肯定感という概念を使う意味がない」と分かって、手放せるかと思います。
「自己肯定感」は、科学的思考から来ている
結論から言うと、自己肯定感という概念は、科学的思考から来ているんですよね。
大学や研究所などの医療機関とか、学会とか、そういう科学的な機関が科学的に研究したから、「自己肯定感」という概念が作られたと。
多くの人が、「科学的な研究でできた概念なら、信憑性があるんじゃないの?」と思うものです。
だって、科学って事実や数値をベースにしているので、とても効果的そうに見えるじゃないですか。
ただ、私から言うと、その「科学的思考」は、現段階ではほぼ役に立たないものだ、ということです。
何十年後、もしくは百年後ぐらいには役に立つかとは思いますが、現段階ではほぼ役に立たないものだと。
科学的思考では、対症療法になる
そもそも科学的思考で医療や治療をしようとすると、必ず最初は「対症療法」になります。
対症療法というのは、「症状に対して処置をしよう」というアプローチです。
胃が荒れていれば「胃の構造を研究して、胃の穴を治療しよう」、皮膚が荒れていれば「皮膚を研究して、皮膚病を直そう」とします。
だから、症状が出た部分に対して、ダイレクトに治療ができます。
ちなみに対症療法の反対が、「原因の探求」になります。
例えば胃が荒れている場合、「強いお酢を飲んでしまっているからかも」とか、「ストレスかも」、「姿勢が悪いからかも」、「イスが合わないのかも」と、いろんな原因があるかもしれません。
他にも、皮膚が荒れている場合、「日光に当たりすぎかもしれない」とか、「細菌感染された、不潔な服をずっと着ているからかも」、「ベッドで寝返りを打てないので、腰の皮膚が痛んでいるからかも」とかあるかもしれません。
原因は膨大にある
すると、対症療法(=科学的思考)では、原因までは踏み込めないことがほとんどなんですよ。
だって、原因なんて膨大にあるんですから。
実際に胃が荒れている場合でも、医者は患者の食事内容とか、姿勢、毎日の生活習慣すべてをチェックするわけにはいきません。
ちょいちょいと代表的な「ストレスはありますか?」とか、「暴飲暴食をしませんでしたか?」と問診するだけで、後は放棄です。
他にも患者は山ほどいるので、ずーっと一人の患者を朝から晩まで診るわけにはいきませんからね。
マイナーな原因の場合、科学的思考では対処しきれない
すると、例えば「座椅子に座っているから、胃が圧迫されて、消化不良で胃が痛くなっていた」なんて原因は、科学的思考ではきわめて見つけにくくなります。
すなわち、個別のマイナーな原因の場合、科学的思考では対処しきれないと。
だから、原因探求をしたら「座椅子をやめれば、胃がすっきりするよ」という簡単な治療法かもしれません。
だけど、対症療法(科学的思考)では、そんな「座椅子(マイナーな要因)が引き起こした症状」は、不治の病になります。
「座椅子を変えればすぐに治る程度の胃痛」が「科学では不治の病」なんですから、笑っちゃうでしょ。
科学的思考では、「個別の原因」は無視
対症療法というのは、そういうものです。
症状そのものから調べて、胃なら胃を、皮膚なら皮膚を見て、その症状を解決してゆこう、ということです。
だから、その胃薬なり皮膚薬でも開発されれば、確実に効果があります。
ただ、そういう科学的な薬は、「原因」側は後回しです。
特に、マイナーな原因は無視です。
姿勢が悪かろうが、強いお酢を飲んでいようが、イスが合わなかろうが、「胃が痛いなら、胃を対処せよ」という発想です。
だから、「姿勢が悪い(マイナーな原因)を解決しないまま、ずーっと胃薬を飲み続ける」なんてことが起きると。
科学的思考は私も好きですが、科学的思考には限界がある、ということです。
自己肯定感は、「症状」側であって、「原因」側ではない
自己肯定感という概念も、これと同じです。
自己肯定感は、「症状」側であって、「原因」側ではない、ということですね。
私たちの不調は、「何か原因があって、症状が出ている」わけです。
「(原因)日光に当たりすぎて、(症状)皮膚が荒れている」みたいな。
同じように、「(原因)何かの外因や認知のずれがあることで、(症状)自己肯定感が下がっている」ということです。
無意味な「正しさ」
だから、「自己肯定感を上げればいい」というのは、確かに正しいことなんですよ。
でも、それは「皮膚が荒れているから、皮膚をよくすればいい」と言っているのと同じぐらい、無意味なことです。
「皮膚が荒れているなら、皮膚を治せばいい」は誰がどう見ても正しいんですが、「皮膚を治せなくて悩んでいるのに、皮膚を治せばいい」なんて言うのは、無意味だと分かります。
実際に、「自己肯定感を上げよう」として、できた人ってきわめて少ないんじゃないかと思います。
おそらく、ほとんどの人が、ずーっと「自己肯定感を上げられない」と悩んでいるんじゃないかと思います。
それは、原因の探求をせずに、「症状を治せば、症状はよくなるよ」と言っているのと同じです。
もちろん「私は受け入れられている、私は認められている」とか呪文のように唱えることで、ごまかすことはできるでしょう。
でも、根本的な解決にはならないだろうな、というのが私の予想です。
まとめ
そんな風に考えると、「自己肯定感を上げよう!」という解決法は、あまり使えそうにないものだと分かるんじゃないかと思います。
それは科学的思考だからこそ、原因よりも症状側からアプローチしていくからですね。
今はまだ、そういう「自己肯定感を下げる主要因」がまだ研究されていない段階である、ということでもあります。
もちろん科学的思考は、そういう症状側から出発して、少しずつ原因側に踏み込んでいくでしょう。
だからおそらく、数十年後とか、百年後ぐらいにもなると、「自己肯定感を下げる主要因」が判明していくことでしょう。
そうすることで、大勢の人を救ってゆくかと思います。
だから、科学の分野では、そういう「自己肯定感」という概念は基盤になる重要な概念です。
でも、私たち個人が現段階で、実際に「精神的な苦しみを取り除きたい」という場合、それはほぼ使い物にならない概念だ、ということです。
それよりかは、個別の原因をいろいろ探求して見つける方が、おそらく効果は出やすいだろうな、という予測です。
もちろん、そういう「原因を探すこと」は、いろんな要因を見極めなければならないので、しんどいことです。
ある意味、科学的思考ではなく、論理的思考や「エッセンシャル思考」とも呼べる推論能力で、対処していくことになります。
そういう発想ができると、いろんな手段を適切に使えて、精神的な苦しさにも対処しやすくなるように思います。
ということで今日は、なぜ「自己肯定感」という概念は役に立たないのか、というお話でした。
今日はここまで~。