昨日の日記で触れたように、精神的なお話は、今後少なくなるかと思います。

ということで今日は、今までの精神的な内容を総まとめです。

私自身がどうやって精神的な苦しみから抜け出せたのか、そして「この2つをできていれば大丈夫そう」という内容について語ってみようと思います。

 

私自身を語ってみる

私自身のことを少し語ると、私自身は、「幸せな家庭で生まれ育った」とは言えなかったように思います。

まぁ高校時代もナイフを持っていたような子でしたし、親から出される食事にも「毒が入っている。殺される」と強迫観念を持つような、そんな環境でした。

ちなみに私には2人ほど歳の離れた兄がいますが、その2人も私と同じようにナイフを持つような人だったり。

なので私の中では、「ああ、崩壊していた家庭だったんだな」と理解しています。

 

そして当然のごとく、学生時代とか、「なんだか生きるのが苦しい」と感じるのに、それが何なのか分からなかったんですよ。

「こんなに毎日苦しいのに、どうしてみんな生きていられるんだろう」と、ずっと思ってました。

 

変化のきっかけ

そんな大学時代になったある日、私は本を読む習慣ができました。

きっかけは「アメリカでは、お金持ちになる方法が、大学でまじめに研究されている」と知って、飛びついたんですが(笑

 

それを学びつつ、本屋の棚をいろいろ見ていると、心理学の棚があって。

その心理学の棚で、ふと目についた本を手にして読むと、私がそれまで普段感じていた苦しい感覚が、見事にそこに書かれていたわけです。

もうすぐにその本を買って読んで、「私だけじゃなかったんだ」と、ボロボロと涙を流したのを覚えています。

 

ちなみにその本の内容は、被虐待児の手記を集めたものでした。

そこでようやく、「ああ、私は虐待を受けていたんだ」と理解できたと。

それまでは、「虐待」という言葉は知っていても、それが現実で何を指すのか知らなかったんですよね。

で、そこから心理学本をあさるように読みまくって、自分のゆがんだ内面を整え始めたわけです。

 

解決すると、忘れてゆく

そうして、少しずつ内面を解決していったわけです。

ただ、本当に解決して精神的に楽になると、「どうやって解決したか」という個別のことは忘れちゃうんですよね(笑

いやまぁそれは当然で、本当に必要なくなったら、細かいことなんて、記憶からも捨ててしまうと。

 

だから今日は、「こういう方向性に向かっていれば、少なくとも大丈夫ですよ」という、一番の大枠を語ってみようかと思います。

 

結論から言うと、次の2つさえ押さえていれば大丈夫のように思います。

  1. 嫌な親や環境からは離れる(場を変える)
  2. 過去を思い出して、泣いていればこじれは消える(認知のゆがみが消える)

 

(1)嫌な親や環境からは離れること

まずは、「嫌な親や環境からは離れること」ですね。

これは物理的に離れる、ということです。

 

というのも、脅威が目の前にある状態では、どんなに精神的に立ち直ろうとしても、自己肯定感を高めようとしても、無駄なんですよ。

相手からナイフを突きつけられて脅されていたり、実際に傷つけられているのに、「私は受け入れられている。私は認められている」と思おうとするとか、アホらしいでしょ(笑

以前の記事(「自己肯定感という概念自体がこじれている、というお話」)でも触れましたが、相手から嫌われているのに「好かれていると思おう。感謝しよう。相手を愛そう」なんて思うのは、ずれていると分かります。

 

自分の内面を見つめるには、ある程度の安全と安心が必要になります。

だからそういう「脅威の間近にいる」という場合、戦うなり、怒りではねのけるなりして、どうにかしてその環境から脱出する必要があります

 

「負の感情」が力になる段階

この段階では、怒りや哀しみ、嘆きという負の感情は、とても有効になります

重要なのは、その怒りなどの負の感情を「親や周囲などの脅威そのもの」に向けるのではなく、「場を出ること」に向けることです。

「絶対にこの場から出てやる!」という、強い意志で学び、生きる力を身につけると。

 

そのためには、節約や節制も必要でしょうし、できるだけギリギリの生活で生きられるようにする技術も重要になるでしょう。

そうやって、怒りを「自分の能力を高めること」に使うわけですね。

 

「抑圧環境で自由になる」が難しい理由

私の中では、嫌な親と一緒にいたり、嫌な環境にいる場合、「精神的に自由になる(こじれを直す)ことで、嫌な相手から離れる」という手段は難しいように感じます。

というのも、「精神的なこじれ」というのは、虐待をするような親や環境の下で生きていくには、とても有効な手段だからです。

そんな「こじれた行動が有効な環境」で、「こじれを取り払って、自由になろう」としても、やはり難しいように思います。

 

だから、私自身は、最初に「嫌な親や環境にいる場合、とにかくその場から出る」ことを提案します

そしてその手段として、「怒りや哀しみ、嘆きを、場から出る原動力にする」ことを提案します。

この段階では、「怒りや哀しみ、嘆きを、うまく使いましょう」ということです。

 

(2)過去を思い出して、泣くこと

で、嫌な場から距離を取って、安全な環境に移れれば、2つめの「過去を思い出して、泣く」ということができていれば、大丈夫なように思います。

 

ちなみに、虐待を受けていたり、苦しい環境で生きてきた人の場合、「安心できる環境」に入っても、精神的な苦しみは続きます

というのも、認知のゆがみ、「こじれ」があるからですね。

 

これまでの嫌な環境では、「周囲から嫌われている」という環境だったでしょう。

でも、新たな場に入って「嫌われておらず、むしろ好かれている」という状態になったとしても、「受け入れられているとは実感できない。むしろ、周囲から拒絶されている」と感じてしまうわけです。

 

内面の「こじれ」に気づいてゆく段階

そういう「自分が受け入れられる環境」になって、初めて自分の内面の「こじれ」に気づいてゆけます

「なぜ周囲から拒絶されているように感じるんだろう?」

「なぜよくしてくれる相手を、自分から拒絶するんだろう?」

「自由に動いていいのに、なぜこんなにも強烈に恐れたり、不安になったりするんだろう?」

 

そういう出来事や問いかけをきっかけに、内面を見つめてゆけるわけですね。

 

で、そういう違和感を感じていると、自然と「ああ、過去のあの出来事があったから、こんな風に感じるようになったんだ」と、過去と今の行動とが結びつきます。

すると、ほぼ確実に、ボロボロと涙がこぼれるでしょう。

それは、過去に泣けなかったことを、今泣くことで、過去を清算しているからですね。

 

こじれを1つずつ解決してゆく

そしてそうすることで、「もうこれからは、縛られる必要はないんだ」と分かって、1つのこじれから解放されます。

ある意味、認知行動療法ですね。

そうやって過去を清算していくことで、こじれを1つずつ解決してゆけるわけです。

 

だから極端な話、「過去を思い出して、泣く」ということができていれば、大丈夫だということです。

泣いただけ、こじれ(認知のゆがみ)が消えて、自由になります。

 

「過去の苦しみ」を解決してゆく

たとえて言うなら、私たちの胸の中には、「過去の苦しみ」というヘドロのような堆積物がたまっているわけです。

「嫌な環境下」では、それを表に出すと、生きていけなくなります。

我慢しなきゃ生きていけないし、自分を殺して相手の望む姿にならなければ、殺されてしまうような状況だったんですから。

 

だけど、そういう「嫌な環境」から出て「受け入れられている環境」に入ると、今までの自分を殺す生き方とか、堆積物は自分の重荷にしかなりません。

なので、「もう必要ないんだ」と気づくことで、涙と共にその堆積物を処理してゆくわけですね。

 

今回のお話の、簡単なまとめ

なので私の中では、次の2つができていれば大丈夫かな、ということです。

  1. 嫌な親や環境からは離れる(場を変える)
  2. 過去を思い出して、泣いていればこじれは消える(認知のゆがみが消える)

 

そして、私の中では、1つめの「場を変える」を実現できて、初めて2つめの「過去を思い出して泣く」ができるように思います。

つまり、もし嫌な親と同居していたり、抑圧された環境にいる場合、自己肯定感とかカウンセリングは、さして根本的な効果はないように思います。

それは、ナイフで毎日傷つけられながら、医者にかかって治療を目指すようなものです。

 

とにかく、苦しみの根源からは、距離を取ることかなと。

道徳とか、常識とか、感謝しなきゃいけないとか、報いなければいけないとか、そんなものは「健康な人」向けの教えです。

傷を受けてだらだら血を流している段階では、「親だから、家族だから」みたいな一般常識は関係なく、とにかく「傷つける人や場から離れること」です。

 

で、安心できる環境にたどり着けば、「好かれているのに、受け入れられているのに、なぜか拒絶してしまう。拒絶されているように感じてしまう」という、錯覚が起きます。

そこから過去を振り返って、そして泣いていれば、じきに治ってくるかと思います。

 

「精神的なお話」のまとめ

これが、私がたどってきた、「精神的に安らげるようになった大まかな道のり」です。

もちろん、他の道のりもあるかもしれませんが、私は他の道順は知りませんからね。

まぁ、こういう道順もある、ということです。

 

いやまぁ、ずいぶん人生で遠回りをしたようには思いますが、解決すれば「まぁしょうがないな」って思えるようになるものです。

先日に失敗を乗り越えるプロセスについて語りましたが、まさにそれと同じ、「やれやれ、やっと解決できたか」という感覚です。

 

それでようやく、本来の興味に向けて突っ走れるようになったと。

私の場合、今のところ、それが英語とか金融、ストーリープロットだったりします。

 

実際に精神的な問題を解決してゆくと、私のように、趣味とか興味が変わることもあるかと思います。

そういう変化を受け入れつつ、自分を癒やしてゆけばいいかなと思います。

 

総まとめ

私自身は、運がよかったように思います。

というのも、多くの人が苦しみに耐えきれずに、人生をあきらめたり、自ら命を手放したりしているものです。

そんな中、私自身は、一つの解決地点へとたどり着けたんですから。

 

確かに長い年月がかかったし、「幼い頃に得た負債」を解消するために、多くの時間や労力を費やさざるを得ませんでした。

こういう負債は、ないに越したことはないし、数値化できないので、周囲からも理解されることはほとんどありません。

実際、今苦しんでいる人にとっても、やりようのない怒りとか、「どうして自分だけが」という理不尽さとか、うまくできない哀しさとか、いろんな感情が渦巻いているかと思います。

 

私は、「すべての人は大丈夫!」とか、「すべての人が問題を解決できる!」、「絶対大丈夫!」とは言いません。

現実では、途中でばたばたと、人が倒れて死んでいくような道ですからね。

彼らのこととか、今までたどった現実を考えると、そんな「倒れていった人を踏みにじること」は言えないなと。

 

理解されない現実もあるし、一人きりで歩かなければならない現実も、何かを犠牲にして戦わなければいけない現実もあります。

 

とはいえ、「必ず最悪の結末になるとは限らない」ということも、現実としてあるように思います。

つまり、幸せになる可能性もわずかにあるし、安心して生きられるようになる可能性も、ないとは言い切れないと。

実際に精神的に苦しい状況に置かれている人の場合、「自分が幸せになる」、「自分が安心して、安らいで生きられるようになる」なんて、夢のまた夢、という感覚かと思います。

 

でも、そんなわずかな、夢物語のように淡い夢や希望を信じて、一歩一歩進んでみるのも、いいように思います。

私自身は、そういう「夢物語のように淡い夢や希望」が好きですね。

泣きながら歩いても、いいと思うんですよ。

そういう「わずかな可能性に、人生を託して生きる」という人がいても、いいんじゃないかな、と思ったりもします。

 

これにて一段落

とにもかくにも、このブログでの精神的なお話は、これにて一段落にしようかと思います。

いやまぁ、細かいことはこれからもちょいちょい語るでしょうが、それでも「精神的な苦しみから立ち直る」という方向性は、ここでいったん完了としようかと思います。

 

私が今までたどった道のりは、過去の記事でも、私の本でも記しています。

具体的な方法は、そちらを見ると分かるかと思いますので、そちらをどうぞ。

 

最後に、これまでこのブログや本を読んでくださった方、感想やレビューをくださった方、励ましをくださった方、そして協力してくださったスタッフさんに、心から感謝です。

あなたのおかげで、今の私があります。

ただただ、心から感謝です。

 

私自身が歩いてきた道のりと、その過程が、何かの役に立てば嬉しいです。

ここまでおつきあいくださって、ありがとうございました!

 

ちなみに明日からは、日記的な記事が増えるかと思いますので、これからもマイペースによろしくお願いします。

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