今日は、「完璧」についてお話してみましょうか。

劣等感があると、ついつい「完璧でなきゃいけない」って思いがちですよね。
「間違ってはいけない」とか、「ミスすることはいけないことだ」と思うもので。

でも、そういう必要はないんですよ、というのが分かるような、そんなお話をしてみましょう。

 

「完璧にならなきゃ」、でもその「完璧」って何?

「完璧でなきゃいけない」、「完璧にできなくとも、完璧を目指さなければならない」って言いますが、実のところ、その「完璧」って何なのか、考える必要があると思うんですよ。

目指している「完璧」は何?ってことですね。

それは、例えば「人に迷惑をかけてはいけない」とか、「間違ってはいけない」とか、「弱くてはいけない」とか、そういうことだと思うんですが。
でも、本気で「完璧」を定義しようとすると、とても難しいですよね。

「人に迷惑をかけてはいけない」にしろ、なら「迷惑」の定義は何かとか、ありますよね。
迷惑だと思っていたことでも、後から学びや喜びに変化することもあるわけですし。
「間違い」だって、最初は間違いだと思っていたのが、後から「あれでよかったんだ」って思うこともあるわけで。
「弱い」にしろ、そもそも定義があやふやですよね。

そんな風に、「完璧」の定義なんて、その人の思い込みでしかないわけです。
「こうあらねばならない」というその完璧像が、とても抽象的だったり、適当に作ったものでしかないと。

 

「完璧」など定義できない

ゲーデルという人が、不完全性定理というものを説明しました。

これは、ざっくり簡単に言うと、「それが『正しい』と言える前提条件を作ることは、できませんよ」ということです。
つまり、私たちが「正しい」と言っていたとしても、絶対にそれが正しいとは証明できない、ということです。

だから、世の中には「正しいこと」なんて定義できないわけで、ましてや「正しい人」とか「正しい行い」なんてものもないわけです。

なら、「完璧」というものも、ただの幻想でしかないわけですね。
勝手に、自分が「完璧像」を作り出して、それを崇拝していただけ、ということです。

 

幼い頃に植え付けられた、「完璧でなければならない」という経験

であれば、なぜそんな風に「完璧でなければならない」と思い込むようになったのかというと、幼い頃にそうするように求められたからですね。
例えば親が、子に「今のお前ではだめだ。これができるようにならなければ、育てるのをやめる」と脅したらどうでしょう。
子どもにとっては、それは死と同義なので、全身全霊で自分をねじ曲げてでも、抑圧しても、何を犠牲にしてでもそれを実現しようとするわけです。

本来は、子どもは不完全な存在で、できなくて当然なわけですね。
そのできなくて当然な子どもを、そのままを愛してあげて、愛情を元に「育くむ」ことが最高ではあるんですが、残念なことにそれができない親もいるわけです。
そして、愛情を取り上げると「脅す」ことで、「能力を高めようとする」わけです。

すると、その子は「能力を高めなければならない」という強迫観念を、すなわち「完璧でなければ、生きてゆけない」という思いを抱くようになると。

だから、完璧でないのに生きている人を見れば、怒りもわくわけです。
だって、「自分はこんなに完璧を目指して努力しているのに愛されなくて、あの人は、完璧を目指していないのに愛されている」わけですから。
本人にとっては、こんなに不条理なことはないですよね。

 

完璧主義者は、愛されない

でも、現実では、「完璧を目指して他の人を否定している人だから愛されなくて当然で、ありのままを受け入れる人だから愛されて当然」なんですよね。

完璧を目指す人は、人が不完全であることを受け入れないわけです。
すると、完璧でない人を受け入れない。
自分の中で、勝手に「完璧像」を作って、そういう崇拝者を作ってあがめて、それ以外を否定すると。
だけど、その「完璧像」すら抽象的なものなので、結局は周囲を否定することでしか自分を保てなくなるわけです。

そんな人は、愛されなくて当然ですよね。

逆に、ありのままを受け入れる人だから、「それでいい」と人を許せるわけです。
そういう人は、愛されて当然ですよね。

実際のところ、完璧を目指している人は、「頑張ったね」と受け入れて欲しいだけなんですよね。
「よく頑張った、もうこれ以上は頑張らなくてもいいよ」と言われて、ありのままを受け入れて欲しいだけなんですよ。

それは、幼い頃に得られなかった、「子ども時代を過ごす権利」を得るとも言えるでしょう。
すなわち、「不完全な状態で生きる許し」を得るということです。

それを得られたら、完璧を目指さなくてもいいと知り、人を許せるようになり、自分を受け入れられるわけですね。
つまり、完璧主義者は、「不完全で生きていい」という許可が欲しいために、完璧を目指しているわけです。
そして、多くの人が、その矛盾に気がついていないわけですね。

 

完璧主義を克服する、二つの方法

でも、多くの場合、親や周囲の人は、「頑張ったね、もう頑張らなくていいよ」などとは言ってくれないものです。
だからこそ、自分で自分を許す必要があるわけです。

「完璧でなくていいんだ」と許してゆくことで、他人をも許せるようになると。
すると、人から受け入れられるようになり、愛されるようになってゆくわけですね。

それを早く体験するために、私は次の二つの方法をオススメします。
一つは、「自分を許してゆくこと」。
もう一つは、「もっと完璧主義を極めてゆくこと」。

最初の「自分を許してゆくこと」は、上で説明した通りです。

実は、「もっと完璧主義を極めてゆくこと」でも、結局は自分を許せるようになります。
というのも、これを極めて極めて、もうこれ以上はできない!というところまで行き着くと、必ず「完璧になることなんて、できなかったんだ」と気がつく時が来ます。

場合によっては、こっちの方が、より短期間で悟れるかもしれません。

 

まとめ:自分を許すことで、楽になれる

だから、結局のところ、どっちでもいいわけです。

「完璧を目指す必要もない」わけで、同時に「『完璧を目指す必要がない』ことを目指す必要すらない」ということですね。

ありのままで、いいんですよ。

これに気がつくことができれば、自分に対しても許しを与えられて、他人を縛り付けるようなこともなくなるかと思います。
そして周囲を変えるのではなく、自発的に自分を変えることで、最高の環境を作り出すことができるんですよね。

まぁ、もし完璧を目指していて辛いのであれば、自分を許してゆくことをオススメします
すると、次第に楽になってゆくかなと思います。

つまり、「完璧が欲しい」という欲求を満たすには、「完璧を捨てる」のが効果的だということですね。

 

ということで、今日のお話はここまでっ。

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