「好きなことをしたい」
「これはもう、嫌だから、やめたい」
そういう場合、我慢をしない生き方を選ぼう。
「好きなことをしたい」、「もうこれはやめたい」、それらを素直にできない人というのは、我慢癖がついていることが多いものだ。
「私はこんなに我慢して生きているんだから、報われて当然」と思っている。
我慢をして仕事をたくさんこなした。だから高評価を得て当然。
我慢して嫌なことをたくさんした。だから成功して当然。
しかし、こういう人は、高評価を得ても、成功しても、いつまで経っても満足できないものだ。
というのも、「好きなことをしたい」、「嫌なことはやめたい」というのは、言い換えると「我慢をしない生き方」だ。
しかし、「我慢をしない生き方をするために、我慢をすることで、それを得よう」というのはおかしいことだと、ぱっと見ればすぐに気がつくものだ。
それでも、本人は気がついていないものなんだ。
なぜかというと、幼い頃から「我慢しなさい」と言われて、我慢をしたら「いい子ね」と褒められたから。
親から受け入れられるためには、我慢をしなければいけなかったから。
そして、我慢をすればするほど、親は「いい子ね、これ、ご褒美よ」と望みを少しだけ叶えてくれた。
我慢をしなければ、「もう何にも買ってあげません」、「もう一緒に遊びに行ってあげません」と脅して、望みを奪った。
つまり、親は愛情や楽しみという生殺与奪の権利をちらつかせることで、都合よく子どもを操っていたのだ。
だから、無条件で「我慢をすれば願いが叶う」と洗脳されてしまっている。
そして、「好きなことをする=わがまま=人(だいたいは親)の迷惑になる」と洗脳されてしまっている。
そういう子は、「なぜ我慢をしなければならないのか」が理解できない。
「我慢しなければならないから、我慢する」、「我慢しなけりゃ、人の迷惑になる」という思考で生きている。
本当の愛情ある親に育ったならば、「この電車で静かにしていれば、他の人たちが安らいで、心地よく過ごせるから」と、相手への愛情や優しさをベースに考えることができる。
それは、自分が満たされているから。
「どんな状態でも、貴方を愛するわ」と、愛情を十分に与えられて育った子は、我慢などせずとも、「周囲の人たちのために」と、愛情を与えるために行動できるんだ。
そういう人を、自由人と呼ぶ。
しかし、そうでない、愛情を受けずに操られて育った人は、「電車では静かにしなければいけないから、我慢して静かにしなければならない」という「優しさのない束縛」に支配されている。
つまり、「我慢をしなければならないから、我慢をするしかない」という生き方をしている。
愛情を失いたくないから、ルールに縛られ、それにすがらなくてはならなくなる。
こういう人を、不自由人と呼ぶ。
不自由人は「仕事に行きたくないが、行かなきゃいけない」と思うが、自由人は「人に喜んでもらいたくて、仕事をする」。
不自由人は「この人とは付き合いたくないが、付き合わなきゃいけない」と思うが、自由人は「付き合いたい人と付き合い、人に喜んでもらう」。
不自由人は、嫌な仕事でも「我慢をする」だけ。
自由人は、嫌な仕事なら、新たな道を模索する。
そして「こういう仕事をしたい」なら、そのビジネスを立ち上げるなり、商品を仕入れて売り上げを作るなり、転職するなり、弟子入りするなりして、そのスキルを身につけてゆく。
「我慢しなければならないから、我慢をする」か、「人に喜んでもらいたいから、こうする」か。
もし好きなことができない場合、自分が、いつの間にか「我慢しなければならないから、我慢をする」という思考に陥っていることに、気がつこう。
実はそれは、ただ幼い頃に親が貴方を都合よく操るために使った、洗脳でしかないんだ。
大人になった今、その洗脳に従う必要はない。
夢の実現に、我慢は障害になる。
夢とは、「我慢をしない生き方をすること」なのだから。
「幸せになるために、私はめいっぱい苦しんで、できる限り不幸になることで、幸せを実現します!」と言っているのと同じなのだから。
その洗脳に気がついた時、自分には自由に羽ばたける翼が、それだけのクリエイティビティーがあるのだと、気がつくのだ。