今日は、劣等感がなくなったら、「頑張る」という考え方も変わる、というお話をしましょうか。

まぁ私は劣等感がある時代から、「頑張るのはやめとけ」みたいなことを言っていた人ですが、劣等感がなくなったら、どういう風に考え方が変わるのか、それについて説明してみようかと思います。

 

「頑張る」と、「見返り」を要求してしまう

一つ記事をご紹介。

明石家さんま、「努力は必ず報われる」と思う人に「見返りを求めるとロクなことがない」

まさにこれですね。

「頑張る」というのは、その背後で、必ず見返りを要求しちゃうものなんですよ。

 

例えば、ボクシングでこういう二人が戦うとしましょうか。

一人は、貧乏暮らしで、毎日苦しいトレーニングを、歯を食いしばって我慢をして練習をしている凡人です。

汗水流して、喜びを一切断って、苦難に立ち向かい、相手に勝とうとして「頑張って」います。

もう不幸のどん底で、この試合に勝てなかったら、生きていけなくなるぐらいの勢いです。

一方でもう一人は、豊かで、トレーニングも気持ちいい程度で楽しんでやっています。

そして一切頑張らずに、苦しみもなく、楽々勝って、金も名誉も、地位も、女も、評判も、名声も、何もかもを簡単に手に入れている天才です。

なら、どっちを応援したいでしょう?

 

ここで、普通は凡人の方を選ぶでしょ。

「そんなに苦しんでるんだから、少しは勝たせてあげたいよ」って思うのが人情じゃないですか。

でも、この考え方が、既に劣等感の罠にはまってるんですよね。

 

劣等感のない人は、「楽しい」で選ぶ

劣等感のない人は、どういう基準で選ぶのか。

それは、「楽しんでいるかどうか」で応援する方を選びます。

凡人が楽しんでいれば、そちらを応援します。

天才が楽しんでいれば、そちらを応援します。

二人とも楽しんでいれば、二人とも応援します。

二人とも楽しんでなければ、そんな試合見ません。

 

「楽しんでいる」というのは、言い換えると「天職」とも言えるでしょう。

楽しんでできるものは、その人にとって天職なんですよ。

他人から見ると苦しいことも、本人には苦しくは感じられなくなるものなんですよね。

だから、ボクシングをしているだけで、楽しくて楽しくてしょうがないわけです。

一方で、楽しくないと、「これだけ頑張ってるんだから」と、見返りを求めてしまうわけです。

でも、いつも見返りがあるとは限りませんよね。

すると、見返りがないと、相手や世の中を恨むようになるわけです。

そこに、苦しみが生まれるわけです。

 

例えば、イチローが「可愛い女の子の絵が描けない!」って、机の上で頭を抱えて苦しんで、それでも頑張っていたらどうでしょう。

「いや、あんた野球やれば一流なんやから、野球やればええやん」って思いますよね(笑

でも、野球をせずに、美少女イラストを描こうと固執しているわけです。

「んなアホなことやめて、さっさと野球せーや!」と言いたくなるでしょ(笑

それと同じなんですよ。

「なんで他にもっと輝ける場所があるのに、わざわざ自分から不幸になってボクシングなんかやってるの?」って、分かってるんですよ。

で、もし天才が楽しんでできる人で、凡人が苦しんで頑張るタイプなら、天才を応援するわけです。

だって、自分の才能を最大限に発揮して、苦もなく成功する、これって幸せでしょ。

逆に、「苦もなく成功するのは許せない」っていうのは、嫉妬ですよね。

 

根源は、幼い頃の親子関係にある

その根底には、親子関係があるんですよね。

子どもの頃、「こうしなさい」と、親から言われた。

本当はやりたくなかったけど、やらないと親から見捨てられる。だから、我慢して、「頑張って」した。

すると、「いい子ね」と褒められた。

受け入れられたので、嬉しい。

この精神的な報酬を何度も何度も繰り返していると、「頑張った」から「嬉しい」、という条件反射が生まれるわけです。

そして、「やりたくないのに」という本心を隠すために、頑張ればこれが手に入るとか、人が喜ぶとか、人を救えるとか、いろんな理由をかき集めてしまうわけです。

その上、「頑張る」をやめることができない。

なぜかというと、その根底には、「やらないと親から見捨てられる」っていう恐怖があるんですよね。

だから、「頑張らないと、死ぬ」という恐怖におびえて、頑張り続けるわけです。

 

本当に幸せな子は、「たとえやらなくても、親から見捨てられることはない」っていう安心感がある子なんですよ。

そういう子は、「頑張らなくても、受け入れられている」という考え方で生きています。

すると、「楽しいから、する」ことができるようになります。

「楽しくないのに、なんでするの?」となるわけです。

これが、劣等感がない子の考え方ですね。

本当に命に関わることなら、自然とモチベーションは上がるものですから。

モチベーションが上がらないことは、やらなくてもいいことだって、分かってるんですよね。

言い換えると、「やらなくても別に死にはしないのに、なんで自分からそんなに面白くないことをしてるの?」ってノリですね。

だから、「苦しんで乗り越えて勝つことが大切だ」なんて言う人には、「周囲の人に、幸せじゃなくて、苦しみに飛び込むことを推奨している人なんだ」と、避けるようになるわけです。

 

その会社に我慢して、無理して頑張って居続けなくても、死ぬことはありません。

その人と無理に付き合わなくても、死ぬことはありません。

そんなに無理にお金を稼がなくても、死ぬことはありません。

そんなにがむしゃらに頑張らなくても、死ぬことはありません。

私も昔そうだったので分かりますが、実は、「こうしなきゃ死んじゃう」というのは、ほぼ全て、幻想です。

なら、なぜそんなに自分から苦しみに足を踏み込んでいくの?……ということですね。

まあ、解決した人から見れば簡単なことなんですけど、渦中にいると、「そうは言うけど……」と、受け入れられないものなんですよね(笑

 

まとめ

そんな風に、「頑張る」っていうのは、幼い頃の恐怖から生まれているものなんですよ。

「好きだからやってるんです」が、健康的でいいですよね。

すると、相手も気楽に受け取れますし。

 

このブログも、好きだから長文を書いているわけです(笑

見返りなんか求めてないから、気楽に読めますよね。

そういうノリだと、受け取る方も受け取りやすくて、いいものですよね。

 

ってことで、今日は頑張ることと、見返りについてお話してみました。

今日はここまで~。

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