今日は、失敗についてお話してみましょうか。

「周囲はそんなに、人の失敗を気にしてはいない」、というお話です。

 

この正月での、おじいさんのお話

この正月に、山口ではちょっと雪が降るぐらい冷えたんですよ。

それは、私はショッピングモールの吹きさらしの部分を「滑りそうだなぁ」と思いつつ歩いていた時でした。

一人のおじいさんが自転車を押して歩いていたんですが、床が凍っていたので、おじいさんが目の前で自転車ごと滑ってこけちゃったわけです。

で、おじいさんが自転車の下敷きになってしまって、私は思わず自転車を起こして助けたわけですが。

周囲の人も、手伝ってくれて。

幸いおじいさんに怪我はなかったので、そこで別れたわけです。

 

これ、助ける側だと、「おじいさん、災難だったね。怪我がなくてよかったね。ここ、滑るから気をつけようね」ですよね。

床が凍っているのに気づかなかっただけなので、別に恥ずかしいことでも何でもないと。

でも、もし私が滑ってこけた側だったら、周囲を気にして、「うわ、恥ずかしい!」と感じてしまうと思うんですよ。

「失敗するなんて、気づかずにこけるなんて、私のバカ!」みたいに。

 

ここで、当事者と周囲との気持ちは、全然違ってますよね。

周囲は、あざ笑ったりとか、見下したりとか全然してなくて、むしろ優しさを持って気遣っているわけです。

「滑ることってあるよね。私も滑りそうだったんですもの」と同情しているぐらいで。

でも、こけた側からすると、「うわーっ、やっちゃった!」と思ってしまっているわけです。

 

私たちは、「現実」ではなくて、「見たいもの」を見ている

すなわち、現実を適切に見ているわけではないんですよ。

「その人が見たいもの」を見ているわけです。

私がこけた場合は、「失敗してはいけない」、「ダメでいてはいけない」、「氷でも、さっそうと歩かなければならない」とか、そういう自分が持っている価値観を、目の前に投影してしまっているだけなんだと。

問題なのは、「こけたこと」、すなわち「失敗そのもの」ではないんですよ。

その内側にある、「自分が見たいもの」なんですよね。

 

もし、「この世界って、愛情にあふれているなぁ」っていうものを見たい場合、こけたら、「あ、この人、助けてくれた。こけた私を手助けしてくれるなんて、私、愛されてる」って感じると思うんですから。

これも結局のところ、「自分が見たいもの」を見ているわけです。

 

で、現実では、私たちは人が失敗したからといって、そんなに気にしませんよね。

だいたい、自分ことで精一杯なわけですから(笑

これを反対側から見ると、私たちが失敗したからと言って、周囲は私たちが自分で感じているほど、見下したりだとか、あざ笑っているわけではないんですよね。

むしろ、「災難だったね」と気遣いをするぐらいで。

 

まとめ

なので、「失敗そのもの」に苦しむことはないかと思います。

それよりも、「自分は何を見たいのか」の方に着目すると、解決の糸口が見つかりそうな気がします。

 

ちなみにこけたおじいさんは、その後、私や周囲の助力をすんなりと受け入れて、「ありがとうー」と言って、少しだけ照れながら、笑っていました。

それを見て、「あ、優しいおじいさんなんだな」と感じたわけです。

手助けをすんなり受け入れられるってのは、すなわち優しさですからね。

優しくない人は、「完璧でなければならない」と感じて、手助けを受け入れられませんから。

だから私も気持ちよく、その場を離れることができたわけです。

 

そんな、手助けをした側も、された側もほっこりとする、そういう正月の出来事でした。

ってことで、今日はここまで~。

この記事をシェア:
Share