今日は、コーチングとカウンセリングの違いについてお話してみましょうか。
心を癒す場合、「カウンセリング」っていう言葉はよく聞きますよね。
いわゆる、伝統的な心を癒す技術ですね。
でも最近、「コーチング」っていう新しい技法が出てきて、しかもどんどん勢いを増してきているんですよ。
この新しい癒し技術「コーチング」と、従来の技術「カウンセリング」の違いについて、説明してみましょう。
コーチングとカウンセリングの違いは、未来志向か過去志向か
結論から言うと、コーチングとカウンセリングの違いっていうのは、未来志向か過去志向かです。
コーチングは未来に目を向けさせることで、心の問題を解決しようとします。
一方でカウンセリングは、過去の解釈を変えることで、心の問題を解決しようとします。
例えば、劣等感を持っていたり、息苦しさや悩み、心理的な苦しみを持っている人がいたとしましょうか。
親から十分に愛されなかったことで、「私は愛されない」とか、「私は劣った人間だ」と思っている、そういう内面の問題を抱えていた人がいたとします。
この問題を、コーチングとカウンセリングでどう対処していくのか、違いを見てみましょう。
コーチングは、未来で癒す
まずは、コーチングの立場から見てみましょう。
コーチングは未来志向なので、「未来が重要」だとします。
だから、未来に目を向けさせることで、問題を解決しようとします。
その代表例が、目標(ゴール)ですね。
例えば、悩んでいる人でも、「私は医者として、アフリカの貧しい人たちを救うんだ」とかいう使命をその人が持ったらどうでしょう。
その瞬間、過去の出来事なんかどうでもよくなりますよね。
そのゴールに向かうことが、喜びであり、幸せを与えてくれるんですから。
そしてそのゴールに集中すればするほど、悩みなんて消えるわけです。
だいたい、悩みって、全く非建設的ですよね。
というのも、「解決できないから悩む」わけです。
解決できるなら、行動しますから。
そんな過去の変えられないことをうだうだと考えるよりも、未来に目を向けて、自分のビジョンを実現する方が、よっぽど現実的で、しかも過去に意識を向けずに済んで、気楽に、充実して生きられるというものです。
言い換えると、「悩む」っていうのは、「それだけ考えることがなくて、暇」ってことなんですよ。
ちゃんと生きる目標を持って、そちらに目を向ければ、悩むことなんてないわけです。
だから、コーチングでは「未来」を重視します。
カウンセリングは、過去を癒す
一方でカウンセリングは、「過去が重要」だとします。
だから、過去の解釈を変えることで、心の問題を解決しようとします。
例えば、ある人が友人との別れ際に、誤解を与えるようなことを言ってしまったとしましょう。
で、「もしかして、あの人、あの言葉に怒ってるかな」とか思って、一晩中ぐるぐると思考がループして眠れませんでした。
ですが、その翌朝の通学途中で、その友人の家族と出会います。
そして友人の様子を聞くと、「昨日の夜ね、あの子、君のことをとっても嬉しそうに話してたよ」と言われたとしましょう。
すると、「ああ、怒ってなかった。よかった」と解放されて、その一瞬で悩みが消えてしまうわけです。
これは、心の中で、過去に起こった「怒っているかもしれない」という情報を、「本当は、怒っていなかった」に書き換えただけですよね。
その「君のこと、嬉しそうに話してたよ」というのは、信憑性さえあればいいわけで、真実でなくともいいわけです。
思考の中にある、そんな「悩みの無限ループを生み出す過去の情報」を見つけ出して、それをちょっとだけ書き換える。
それだけで、人はすっごい精神的に楽になれるものなんですよ。
それを見つけて、過去の解釈を書き換えるのが、カウンセリングです。
カウンセリングの立場から言うと、「目標を持って行動すればいい」なんて、現実的ではないんですよ。
だって、ほとんどの人が、目標を持ったとしても、ずーっと苦しみ続けるわけです。
目標に完全に集中できる人なんか、ほとんどいないものです。
例えば少しだけくつろいだ時とか、風呂に入った時とか、寝る前とか、そういう「くつろぐ時間」ってのがありますよね。
そういう「くつろぎの時間」に、過去の苦しみは襲ってくるんですから。
言うなれば、「未来に目を向けて建設的になれば、悩まなくなる」っていうのは、「一切くつろぐな」って言ってるのと同じなわけです。
でも、人間にとっての幸せや安らぎってのは、建設的なことだけではありませんよね。
夕日をゆったり見たり、美味しいご飯を食べたり、風呂に浸かって「はー、ゆったり幸せ♪」みたいな時間もあるわけです。
「未来に目を向け続けろ」、「絶えず建設的になれ」っていうのは、「そういう人間らしい安らぎを一切取るな」ってことでもあるんですよ。
コーチングもカウンセリングも、同じことをしている
こう考えると、どちらも全く正反対のように見えますよね。
水と油、全く交わりそうもない、全然違う思考なんだと。
ですが実は、この両者は全く同じことをしているんですよ。
そして、どちらも同じような効果があります。
それはなぜか。
それを知るために、「心とは何か」を知る必要があります。
心って、どんなものをイメージするでしょうか。
よく言われるのは、心の中には、顕在意識と深層意識、そして深層意識は無限の深さがあって、その奥底には何がうごめいているのか分からない……そんなイメージがあるかもしれません。
PCゲームで「ゆめにっき」というゲームがありますが、これがひょっとすると人がイメージする「心の形」のいい具現化例かもしれません。
胸に窓がついていて、その胸の窓に入っていったら、なんか別世界が広がっているわけです。
そして扉を開いて、下へ下へと階段を下りていくと、だんだんと抽象的で、不気味で意味不明な世界が広がってゆく……
劣等感とか、心の苦しみを持つ人って、そういうイメージを持っているかなとも思います。
ですが、本当の心って、そういうんじゃないんですよ。
私たちが思っているような、そんな「心の形」とか、「心の世界」などというものは存在しません。
実は心というものは、極めてシンプルなものです。
では、心とは一体どういうものなのか。
心とは、「価値観」でしかない
結論から言うと、心というものは、「価値観」だけで構成されています。
ここで言う「心」とは、「自我」のことを指します。
すなわち、「意識の上で、その人が持つ価値観が再生される働き」、それを心と言います。
分かりやすく言うなら、「出来事を評価するシステム(バリューシステム)」が心だということです。
心とは、ただ単純に、「今、好きか嫌いかを評価するだけ」だとも言えるでしょう。
未来も過去も関係ありません。
ただ単純に、心は「現在」しか知覚できません。
例えば、私たちは食べ物でも、「肉が好き」、「魚は嫌い」、「野菜は和風ドレッシングをかけるのが好き」、「納豆は嫌い」とかいう好み、すなわち価値観がありますよね。
すると、「食堂での注文という現実」を前にしたとき、肉料理を注文すると、「私だな」と感じるものです。
逆に、誰かが勝手に「君はこれね」などと魚料理を注文してしまうと、「違う、それじゃない!」と、苦しく感じるでしょう。
食べ物だけではなく、「腕はこう動かすのが好き、立ち居振る舞いはこうするのが好き」みたいな、「体の使い方」という次元でも、価値観があるものです。
すると、「家族と出会ったという現実」や「友人と出会った現実」を前にしたときに、「こう動こう」という判定を行います。
他にも、しゃべり方での好みとか、言い回しとか、人付き合いとか、お金の使い方とか、暮らし方とか、ライフスタイルだとか、様々な面で価値観があります。
そんな価値観と現実とを意識上で照らし合わせて判定すること、それがその人の「心」を形作っているわけです。
脳内では「過去」は存在しない
また、「未来」や「過去」なんてものも、存在しません。
未来が存在しないのは、分かりますよね。
未来なんて起きてもいないので、ただの妄想でしかないわけです。
で、過去というものも、脳内では存在しません。
過去というものは、「こういう出来事が起こった」という情報を、「今」、作り出しているだけです。
先の「友人を怒らせたかも」という例でも、寝る前では、「友人を怒らせたかも。ああ、もしそうだったらどうしよう」という思考を、「その瞬間」に作り出しているわけです。
で、翌朝友人の様子を知った後、「ああ、怒らせていなかった。よかった、安心」という思考も、「その瞬間」に作り出しています。
すなわち、「『過去にこういう出来事が起こったことにする』という価値観を、今、重視している」ということなんですよ。
だいたい、過去の出来事とか、思い違いとかしょっちゅうしてるでしょ。
で、例えば誰かが車道に飛び出した子を助けたとして、他の人は「かっこいい」と評価していたとしても、助けた本人は「目立って恥ずかしい!」と思っていることだってあるわけです。
価値観が、その人の過去の出来事を勝手に作り出しているんですよ。
だから、私たちにとっては、「真実」とか「現実」なんていうものは見えません。
私たちは、「価値観によってフィルタリングをされたもの」しか知覚できないわけです。(参考記事:「「現実」を生きている人などいない、というお話」)
そもそも、「真実」や「現実」なんて「いい悪い」という次元のものではありませんよね。
ただの現象にしか過ぎないんですから。
価値観があるから、「いい悪い」が生まれて、それが喜びや苦しみを生み出しているわけです。
そんな風に、記憶も含めて何もかも、心は「価値観」で構成されています。
過去も未来も存在しません。
ただ単純に、心には「今」の「評価システム」があるだけです。
心を癒すとは、価値観を変えること
長い前振りでしたが、本題に戻りましょう。
なら、「心を癒す」ということは、ただ単純に「価値観を変えること」でしかありません。
その価値観を変える手段として、未来を使うのか、過去を使うのか。
コーチングとカウンセリングというのは、その手段が違うだけです。
だから、やっていることは、本質としては同じです。
未来を使って価値観を変えてゆくのか、過去を使って価値観を変えてゆくのか、だけです。
なので、どっちも効果ありますよ、ということです。
互いが「過去を考えるなんて、非建設的だ!」、「未来を考え続けるなんて、非現実的だ!」と思っているのは、通る道筋の違いで起こる、一時的な現象でしかありません。
言うなれば、登山で、片方は「右側の道を通れば、崖で道が狭くて危ないじゃない!」と言って、もう片方は「左側の道を通れば、藪ばっかりで危ないじゃない!」と言っているようなものです。
でも山頂にたどり着けば、どっちも同じですよ、ということです。
で、どっちでも山頂にたどり着けます。
ただし、それにかける労力は、違うかなと思います。
ちなみに私はずっと心理学を学んできて、自分の心を癒したのも、カウンセリング的な手法でした。
私が尊敬する人は河合隼雄とかその辺りなので、心理学をベースにする人は、だいたいカウンセリングをベースにしているものです。
だから、私の本でも、「過去を癒そう」というアプローチで提案しています。
これからは、コーチングが伸びそう
ただ、「じゃあ、あんたがこれからコーチングとカウンセリングをやるとしたら、どっちをするねん」と問われると、私はためらわずにコーチングを選ぶでしょう(笑
というのも、はっきり言って、そっちの方が楽で、喜ばれて、やっていて苦痛がないんですよ。
話を聞く側にとって、一番しんどいのは、人の不平不満、愚痴泣き言を延々と聞かされることですよね。
カウンセリングってのは、そういう「過去を出す」ということなので、もう話を聞いていてしんどいことしんどいこと(笑
それに、クライアントの人がカウンセラーに、自分の持っている抑圧を投影するので、カウンセラーは理不尽に怒られたり、ののしられたり、不平不満をぶちまけられたりするわけです。
カウンセラーはじっと聞いて、受け入れてあげるだけ。
カウンセラーの人なら、このしんどさは分かるかと思います(笑
いわば、カウンセリングは、クライアントが「なぜ私はこんなことをぶちまけているのだろう?」と気づくまで、寄り添い、待ち続ける作業だと思えばいいでしょう。
ほんと、これは好きでないとできない世界ですね。
でも、コーチングは未来志向なので、そういうストレスが一切ないんですよ。
むしろ、アクションを起こすことが楽しく感じられるわけです。
必要なのは、大好きなことを元に夢を描いて、実現方法を見つけていくことですからね。
で、クライアントは前向きになるので、喜びます。
アドバイスをする側も、喜んでもらって、感謝されて、それでお金をもらえるなら、こんなにやりがいのあることはありませんよね。
それでいて、カウンセリングのように「数ヶ月も効果が実感できない」ということが少なくて、何かしらの実感できる効果や発見、気づきを、たった数十分とかでも作り出せることが多いものです。
いわゆる「失敗が少ない」というメリットですね。
その上、カウンセリングと同じように、効果があるわけですから。
だから、私はこれからの時代は、コーチングがどんどん増えていくんじゃないかと思います。
癒す側にしても、癒される側にしても、愚痴を共有するよりも、未来や夢を共有する方が嬉しいと思いますしね。
私はカウンセリング的手法で劣等感を解決した人なので、そっちは得意なんですが、もっと早くにコーチングと出会っていれば、コーチングをやっていたと思います(笑
ただ、やっぱりクライアント側からすれば、過去とか不平不満を語りたい人が多いので、トータルで見れば、やはりカウンセリングの方が需要はあり続けるかなと思います。
あと、コーチングは新しい技術なので、まだノウハウが蓄積されてないのが問題と言えば問題ですかね。
まとめ
そんな風に、コーチングとカウンセリングの違いというのは、未来志向か過去志向かで違うだけです。
どっちも効果ありますよ、ということです。
好きな方を使うといいかと思います。
そんな感じで、コーチングとカウンセリングについてお話ししてみました。
今日はここまで~。