さて、ブログも新しくなったことですし、最初ということで、スペシャルなことでも書いてみましょうかね。

今回は、「本当に自殺しちゃいけないの?」ということについて、深く踏み込んでみようかと思います。

「私、死にたいんです」と言ったとしても、普通の人なら「自殺なんかしちゃいけない」っていう反応になりますよね。

「でも、ならなんで死んじゃいけないの?」
「自分で死を選ぶことは、本当にいけないことなの?」

現代では四人に一人が自殺を考えたことがあるというこのご時世に、「いけないからいけない」「みんながそう言っているから」という理屈もないでしょうと。

こういう「殺す」とか「自殺」とかいう話になると、大抵は宗教的思想が絡んでくるものです。
でも、かといって、「この聖典に書かれているから」「こんな聖人がそう言っているから」とかいう宗教を持ち出されても、私たちみたいな宗教性が薄くなってきている現代人には、信憑性に欠けますよね。

おそらく、「なぜ自殺してはいけないのか、宗教的考え方を抜きにして答えてください」と言って、答えられる大人はほとんどいないんじゃないかと思います。

ということで、今回は自殺をすることの是非について、説明してみようかと思います。

去年も少し触れましたが、今回は「どうして自殺しちゃいけないの?」という問いかける、そのシチュエーションそのものにまで踏み込んでみようかと。

最初ということで、ちょっとキャッチーで危険なネタで行きます(笑
まぁ、内容はいつもの私っぽい内容になるので、安心して読み進めてください(笑

 

 

まずは簡単に、自殺についての考え方を、時代ごとにいろいろ考えてみましょうか。

例えば日本が戦争をしていた頃、軍隊に入っていた若者たちは、「お国のために死になさい」と言われて神風特攻したり、爆弾抱えて敵陣地に飛び込んだりしていたわけです。

その頃は、いわば国家が自殺を推奨していたということになりますよね。
たった60年前まで、社会はそういう状態だったんですよ。

そして戦国時代では、「切腹」という文化がありました。

これは武士が何かお上の問題になることを起こしてしまった場合、責任をとって死を持って償うということですね。
もしくは、敗軍の将が、「敵に捕らえられて辱められてまで生き続けるのは末代までの恥」ということで、自刃を選ぶということもあったでしょう。

これらも、逃げずに切腹をした場合、「見事な最期でした」と褒め称えられるようなことでした。

それどころか、今は年末なので、忠臣蔵で赤穂浪士をいつもやりますよね。
彼らも見事全員切腹して自殺したから、あれほど「忠臣」だと褒め称えられて、今でも「赤穂浪士は素晴らしい」と語り継がれているわけです。

これは、今でも「自殺した彼らは素晴らしい」という「自殺は素晴らしい」世評が世の中にある、ということですよね。

そんな世間の状態で、「自殺はだめだ」なんて言っても、全く説得力がないじゃないですか。

自殺者が年間3万人を超える今だからこそ、この辺をしっかり考えられる人が求められるんだと思います。

 

なら、もう少し踏み込むために、「どうして自殺をしてはいけないの?」というその問いが発せられるシチュエーションについて考えてみましょう。

「誰が」「何のために」その問いを発したのか、まずはその状況を考えてみましょうと。

この問いが発せられるシチュエーションは、主に2つあるでしょう。

  • 1つ目は、その問いを用いて大人を攻撃する場合
  • もう一つは、その問いを用いて「死にたくない」と訴えている場合

 

(1)その問いを用いて大人を攻撃する場合

劣等感を持つ子が、大人に対して攻撃をするための武器として、「なぜ死んではいけないのか?」という問いを用いる状況があるでしょう。

これは、普段から大人から「どうしてそんなこともできないんだ」とか「お前はだめな奴だ」とかいうメッセージを明にも暗にも言われていた場合、その子は大人たちの矛盾に対して攻撃をするようになります。

というのも、大人たちも完璧な存在ではないんですよね。

だから、「完璧」を求められて叱られ続けた子どもは、「あんたらだって、いつも完璧にできるわけじゃないだろう」と言いたいがために、こういったたぐいの問いを発するわけです。

そういう場合、最も基礎的で、誰でも分かるような「社会の矛盾」にそれが向けられるものです。

「なぜ死んではいけないのか、あんたらはそんな簡単で基本的なことも答えられない。そんな簡単なことも答えられないような奴が、どうして俺にそんなに偉そうなことを言えるんだ!」というメッセージとして、この種の問いが発せられると。

尾崎豊とか、まさにこれですよね。
そして、現代教育の「減点法」も、まさにこれなんですよね。
100点という制限があって、そこから「間違ったら点を引かれる」「間違えなかった人が優れている」……というメッセージを子どもたちに植え付けていることになります。

これはすなわち、「間違うことはいけないことだ」ということを子どもたちに伝えていることになりますよね。
「より間違わなかった人が優れている」「間違った人は劣っている」という評価をしていることになり、子どもたちに「間違ってはいけない」という思想を植え付けるわけで。

でも、間違えただけで「劣っている」という烙印を押された子どもにとっては、「大人たちだって山ほど間違えたことをするのに、どうしてそんなことを言えるのか」と言いたくなるものですよね。

そして、間違えば間違うほど、「劣っている人間」だとみなされる。
これほどおかしいことはないでしょう。

というのも、実際、社会に出たら、間違うことの方が多いわけで、私や同業者のクリエイターとかも、試行錯誤をして一つのものを作り上げるわけですよね。
そういう環境にいると、間違うことは悪いことではないと分かるものなんですよ。
むしろ、全く間違わないこととは、挑戦のない世界ですからね。
それはクリエイターとしては、致命的なことになるんですよ。

ちなみに大人でも「初めてのミスならいいが、同じミスを2度するな」とか平気で言う人もいますからね。

「だったらあんたは、自転車に一度しかこけずに乗れたのか!」とか「学校で一度問題が出されて間違ったら、後は全部100点だったのか、今でもできるのか!」とか言いたくなるでしょ(笑

彼ら大人たちは、その矛盾に気がついていないんですよ。

「私たちは、誰しも完璧ではない」ということと、「人に完璧を求める」ということの間にある矛盾に。

子どもたちは、それを言葉にはできないけれどもそれを感じて、その矛盾した社会システムを攻撃する武器として、その問いが発せられることがあるということです。

この場合、その問いの答えとしては、大人側が「人は完璧ではない」ということを受け入れる必要があるでしょう。

そして、自分に対しても、人に対しても、もちろん子どもに対しても、完璧を求めていたということを、素直に謝ることですよね。
「ごめん、俺たち大人は、君に対して完璧な存在になることを求めていた。でも、俺たち大人も、全然完璧じゃないよな」と。

すると、その子はきっと、心を開いてくれるでしょう。

そしてそれこそが、癒しになるわけですね。

重度に完璧主義にはまってしまっている人にとっては、「完璧を目指さなければ人は成長しないじゃないか」という思いを持つ人もいるでしょうが、「ならなぜ成長しなければいけないのか」を考えてみるといいでしょう。

すると、そこには幼い頃から家庭環境や周囲の環境で「力がないことはだめなことだ」というメッセージを受け続けていたことに気がつくと思います。
だから、「早く大人にならなきゃ、完璧にできなければ生きていけない」という、いわば「洗脳」を受けているわけです。

 

(2)その問いを用いて「死にたくない」と訴えている場合

そして大きな問題はこちらですよね。

「どうして死んじゃいけないの?」と人に問いかけるということは、暗に「死にたくない」というメッセージを投げかけるためだということがあるでしょう。

本題に入る前に、少し「自殺はいけないのか」という内容そのものを考えてみましょう。

単純に理屈で言うなら、「自殺はいいことか悪いことかを宗教性抜きに説明してください」と言われても、その答えはありません。

というのも、「善悪」という概念こそが、宗教的だからですね。

つまり、「宗教的概念であるいいこと悪いこと」を「宗教性を抜きに説明して」と言われても、それは「問いかけ自体が矛盾していますよ」となるわけです。

じゃあ「宗教的に答えてください」となると、「いけないからだめ」「聖典に書いてあるからだめ」となって、冒頭で言ったとおりに信憑性がなくなると。

なら他の参考をということで自然界を見たとしても、例えばカマキリとかは、交尾した後にオスがメスに食べられることもあるわけです。
これは、用なしになったオスは、メスの栄養になることで、種を繁栄させるための礎(いしずえ)になると。

これも、カマキリの雄は逃げようと思えば逃げられるのに、逃げずに食べられるわけで、これも一種の自殺だと言えるでしょう。

そういう風に、自然界の「種を継続するためのシステム」として「自殺」というものがあるのも事実なわけで。

 

この「種を継続させるためのシステム」というのが、この場合にキーワードになります。

人間にとっての「自殺」も、一種の「種を継続させるシステムの『間違った』発動」だと言えるでしょう。

これは先日も触れましたが、再度説明してみましょうか。

人間は、簡単に言うと「社会(ヒトという種の繁栄)のためになるのであれば、個人にとって損になることも受け入れる」という仕組みがあります。
社会学者のハーバード・サイモンはこれを「他愛行動」と名付けましたが。

例えば、川でおぼれている子どもを助けるために、大人が飛び込んで助ける。
子どもを助けたのはいいけれど、自分は溺死してしまった……とかありますよね。

少し前の話ですが、貧血か何かで駅のホームから落ちた人を、韓国の学生が助けようとして降りて、もろとも電車にはねられて死亡したという事件がありました。

子どもを助けた大人は「立派な行為だ」と褒められるでしょうし、実際に韓国の学生は、韓国で英雄として取り扱われたぐらいで。

そんな風に、「誰かのため、社会のために命をなげうつのは、素晴らしい」という思考システムがありますよね。
これはそういう風に埋め込まれた人間のシステムなので、このシステムそのものは変えられないものです。

でも、ここでも幼い頃からの環境が悪さをすることになります。

例えば、幼い頃から「あんたなんか、生まれてこなきゃよかった」とか「お前さえいなければよかった」とかいうメッセージを投げかけられる子どもがいます。

実はこれは随所に潜んでいるもので、父親が「子どもを食わすために、嫌な仕事をしなきゃいけない」と思っていた場合、そのメッセージは子どもに敏感に伝わるわけですね。
それは子どもにとっては、「自分さえいなければ、お父さんは嫌なことをせずに生きられて、幸せになれるんだ」ということになるんですから。

母親が、つい井戸端会議で、子どもがいるのに「うちの子は3人もいるから、毎日大変なのよ」とかため息混じりに言ってしまうと、子どもにとっては「私がいなければ、お母さんは毎日楽に、幸せに生きられるんだ」と思うわけです。

そんなメッセージを頻繁に受け続けて育った子どもは、「自分さえいなければ、周囲の人たちはもっと幸せになれるのに」という考えに侵されていきます。

そして、それが積み重なっていくと、ある一定以上になったときに、「自分がいなければ、みんなのためになる」、だから自ら死を選ぶわけです。

それはつまり、多くの場合、自殺というのは、(本人にとっては)川におぼれた子を助ける大人や、ホームから落ちた人を助ける韓国の学生と同じように、勇敢で尊い行為であるんですよ。

自分の命を賭してまで、周囲の人たちのためになるんですから。

これ以上、素晴らしいことはないじゃないですか。

……ただし、その死が本当に周囲の人たちのためになるのであれば。

 

でも実際の場合は、その死は無駄な死になるわけです。

というのも、人間は普段付き合っている人は、多くともわずか50人程度と言います。

その小さな社会で「お前なんかいらない」というメッセージを受け続けたというだけで、他の社会であれば歓迎されることもあるわけです。

ただ、社会を移せばよかっただけなのに、人は認識できる全てが世界になるので、「世界全てが自分を必要としない」と思い込んでしまっているわけですね。

そして無駄な自殺をしてしまう。

たぶん、死ぬ本人にとっても、それはうすうす感じていることでしょう。

だから、「どうして死ぬのはいけないことなの?」という問いを発して、「死にたくない」「私も他の形で、誰かのために生きたい」というメッセージを発しているんだと思います。

 

この場合の答えは、まずはその人の素晴らしさを認めてあげることですよね。

だって、自分の命を捨ててまで、周囲の人たちを助けようとしているんですから。

そんな人が、悪い人なわけないじゃないですか。
いらない人なわけないじゃないですか。

最高に素晴らしい、尊い人でしょ。

自殺を考えたことがある、もしくは自殺を考えているという人は、そういう素晴らしい素質を持っている人なんですよ。

そんな人が無駄死にしちゃ、社会にとっても、もったいないでしょ。

社会は、そういう優しい人ほど求めているんですから。

だから、自殺を真剣に考えたことがある貴方は、尊い人なんだ。

苦しい中、よく頑張った。

泣きたいのを我慢して、自分なりに努力して、それなのに人々の期待に応えられなかったこともあったでしょう。

きっと、辛かったことでしょう。

とても、辛かったことでしょう。

社会は矛盾だらけで、貴方の周囲にはひどい人たちばかりだったかもしれない。
そして同時に、貴方の周囲の人たちはみんなすごくて、「自分だけが特に劣った存在だ」と思っているかもしれない。
そして、貴方はそんな人たちのためになりたい。
周囲の人たちが、心から喜ぶことをしてあげたい。

だから死を選んででも、愛している人たちのためになろうとした。
それだけで、十分じゃないですか。

命をかけて、周囲のためになろうとした、その思いだけで十分尊いことなんですよ。

ただ、そのまま死んでしまうのは、ただの無駄死にでしかない。

なので、その犠牲を、別の形で表現してみるのもいいんじゃないでしょうか。

別の形で、別の人たちに、喜んでもらえるように試行錯誤して表現してみる……そこから判断してみても、いいんじゃないでしょうか。

死ななくても、人たちに喜んでもらえる方法は多くある。

それはただ、「生きるためのクリエイティビティー」を身につければいいだけなんです。

そういうクリエイティビティーを発揮してみると、世の中を見る目ががらりと変わるんじゃないかな……と、そう思います。

 

長くなりましたが、ブログ新設記念ということで、キャッチーなネタを書いてみました。

このブログでは、これからそういう「生きるためのクリエイティビティー」をいろいろ紹介してゆければと思っています。

これからも、このブログをよろしくお願いしますね。

ということで、今日のお話はここまで!

 

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