今日は、「あこがれ」についてお話してみましょうか。
「あこがれる人」のようになろうとしなくていい、というお話です。
「あこがれ」はなるものではない
あこがれる人って、いますよね。
私も結構いるものです。
私があこがれる人というのは、例えばライフスタイルで言うと高城剛氏であったり、お金だと斉藤一人氏だったり、かっこよさでは中谷彰宏氏だったり、まぁいろいろいるものですが。
で、大抵、そういう「あこがれる人のあこがれる部分」っていうのは、自分自身がこれっぽっちも持っていない要素だったりするんですよ(笑
というか、むしろ正反対だったりするものです。
だからこそあこがれるのかもしれませんが。
で、「あこがれ」っていうのは、「なる」ものではないと思うんですよ。
その魅力は、「パートナーにしたい」という引力だと思うんですよね。
というのも、自分に持っていないものを持っている人だからこそ、自分を補完してくれそうじゃないですか。
「同類」ってのは、仲間的な引力ですよね。
それは一緒に行動をしたり、喜びや悲しみを共有してくれる、「守り」的な存在じゃないですか。
でも、「補完」っていうのは、足りない部分を補って、目的を達成しようとする「攻め」的な存在ですよね。
そういう違いがあると思うんですよ。
そして、正反対の要素を身につけようとすると、長所が失われてしまうことが多いんですよね。
例えば私は心の内面を見つめるのが得意で、世界中を見るのはそれほど好きではないんですよ。
いわば、私は、心という「最も距離的に近い部分」に詳しいわけです。
でも、あこがれの高城剛氏は、世界中を飛び回って、世界を何十周、何百周として、世界の様子を見ていると。
これは、私とは正反対の、「最も距離的に遠い部分」に詳しいと言えるわけで。
私がそんな「距離の遠い部分」を自分でやろうとすると、内面がおろそかになって、いい点が失われそうですよね。
「あこがれ」はループする
それに、「あこがれ」って、ループするんですよ。
つまり、あこがれになったとしても、さらに次のあこがれが出てくるわけです。
例えば、古代ギリシアに、アレクサンダー大王というすっごい権力者がいたんですよ。
当時の最大勢力を持つ王様っていう、最高の権力を持っていたわけですが、ある日、ディオゲネスという有名な浮浪者(というか哲学者)に出会います。
このディオゲネスって人は、まぁ日本で言う一休宗純(一休さんのモデル)みたいな人で、やりたい放題やるタイプの人だと思えばいいでしょう(笑
で、大王が「望みがあれば言うといい」と言うと、ディオゲネスは「ちょっとそこどいて。ひなたぼっこしとんねん。あんた邪魔」と言ったわけです。
そして大王は、「私は王でなければ、ディオゲネスになりたい」と言うんですよ。
つまり、あこがれがループしちゃってるわけです。
最高権力者は、最も何も持たない浮浪者にあこがれると。
すると、あこがれになっても、次なるあこがれが出てきて、永遠に満たされることはないわけです。
だったら、今の自分を認めましょうよ、ということですね。
今の自分でも、誰かから見ると、あこがれの対象なんだと。
すると、自分のことを受け入れられるんじゃないかなと思ったりもします。
まとめ
そんな風に、「あこがれ」は、適切に使うといいかなと思います。
だいたいあこがれって、ただ単純に、自分が持たないような社会的な評価があるからうらやましく感じる……ってことも多いですし。
自分を否定するためではなくて、受け入れるための、あこがれにするということですね。
ってことで、今日は「あこがれ」になろうとしなくていい、というお話をしてみました。
今日はここまで~。