最近、統合失調についてフォーカスを当てて考えています。

で、今日は、統合失調というメカニズムが、私たちから「今を生きる」ことを妨げて、苦しみを生み出している、というお話をしてみましょうか。

 

統合失調について、少しおさらいしておきましょう。

統合失調というものは、一言で言うと「非現実を現実だと錯覚する脳のメカニズム」のことです。

例えば小説を読んでハラハラドキドキしたりするものです。

他にも、「このまま売り上げが落ちたら、会社は破産して私は破滅だ」と感じると、動悸がしたり緊張から高血圧になったりと、体調に影響するものです。

これらは、今目の前に起こっていることでも何でもない、一種の妄想でしかないのに、それを「今起こってしまっている」と勘違いして、体に反応が起きてしまっていることになりますよね。

すなわち、統合失調とは、私たち人間は誰もが持っている脳の機能だと言えます。

 

私たちが苦しむ二大要素: 「未来への不安」と「過去への悔恨」

私たちが苦しむ二大要素として、「未来」と「過去」があります

「未来にこうなったらどうしよう」という不安と、「過去になんであんなことをしてしまったんだ」という悔恨、この二つですね。

でも、これって本来、「今起きていることではない」ことですよね。

すなわち、妄想でしかないわけです。

その妄想を「今、起こってしまっている」と勘違いして、ずーっと苦しんでいるわけです。

 

例えば「未来に無一文になったらどうしよう」っていう不安は、今無一文な状態ではないですよね。

冷静に考えると、もし万が一にも無一文になったら、そのときに対処すればいいものです。

そして今は落ち込むことよりも、それを回避する方向に動けばいいわけです。

それなのに、「ああ、無一文になったらどうしよう」と、その情景を妄想して、あたかも現実のように脳内で錯覚して、苦しんでいるわけです。

 

同じように、「過去にあんなことをしてしまった」という後悔は、今それをしたわけではないわけです。

もう誰も覚えていないようなことを、その情景をあたかも今、現実に起こっているかのように、再現してしまっているんですよ。

これらは全く無意味な行動ですよね。

すなわち、どちらも、統合失調が悪さをしていることになると。

 

こうして人は、「未来への準備」と「過去からの後悔」に生きるようになって、楽しめずにいるわけです。

「老後(未来)のために死にものぐるいで嫌なことを詰め込んで貯金して、いざ老後が来たら、健康も体力も何もなくて、死を目前にしていて、八十年の人生を無駄にしてしまった」

「十歳までに起こった出来事を悔やんでばかりいたら、八十年の人生を無駄にしてしまった」

そんなことになりかねないわけです。

 

統合失調とは、「時間の概念」の副作用

で、この統合失調というメカニズムは、5~15万年前ぐらいに始まったと言われています。

農耕が始まったのが1万年前からなので、狩猟採集をしていた頃に、人間は突如として「統合失調遺伝子」なるものを獲得しました。

それまでは、数百万年という間、進化もしない石器をずーっと使っていたのが、あるときを境にして、突如として人間の知性が花開きます。

突然人々は洞窟に絵を描くようになり、歌や踊りをするようになり、土器に模様をつけるようになりました。

同時に、人は死者を弔うようになりました。

 

私はその根本原因として、人間が「時間の概念」を得たからじゃないかと思っています。

統合失調というのは、「時間の概念」とは切っても切り離せない、副作用のようなものだと。

以下は私の仮説ですが、こう考えると人間の根本的な苦しみの要因が分かるんじゃないかと思います。

 

それまでは、人々は「今」しか生きていませんでした。

未来を不安に思うこともなく、過去に苦しむこともなく、獲物がいる方向に向かい、獲物が捕れなくなれば腹を空かせて死んでいったわけです。

そこには、未来への不安も過去への悔恨もありません。

ただ、動物と同じように、食べ物があれば生きて、食べ物がなければ探して、それでもなければ動けなくなって死ぬ、という状態でした。

 

ですが、時間の概念を得て、突如として変わりました。

時間とは連続していて、ずーっと過去があり、そして時間はずーっと未来へと続いている、そういう「今」は存在しないものを理解できるようになりました。

すると、まずは「人は死んだらどうなるのか」と考えるようになりました。

それまでは、人が死んだら、もちろん哀しんだでしょうが、遺体はその場に放置して移動していました。

それは、「動かなくなったもの」でしかないからですね。

ですが、「人が死んだ後にどうなるんだろう」という時間の概念を得ることで、「人は死んだらこうなる」という宗教的とも言える世界観を考えるようになりました。

そうして、「死後のため」に埋葬をするようになったわけです。

 

同時に、「自分が生まれる前はどうだったんだろう」と考えることで、世界創造みたいな物語ができたのでしょう。

いわゆる、宗教の先走りですね。

だから、原始的な宗教は、必ず「天地創造」と「死後の世界」の二つの世界観がセットになっているわけです。

 

で、人間が時間の概念を得たら、「未来」への不安を得るようになります。

同時に、未来のために、「過去」からのフィードバックを得るようにもなります。

だから、「起こってもいない妄想を現実だと錯覚する」ようにせざるを得なかったわけです。

というのも、「今」に喜びや悪い感情として感じなければ、「未来をよくしよう」なんて行動を起こしませんよね。

動機がなくなるわけですから。

だから、起きてもいないような妄想でも、「今」に不安や恐怖、希望や喜びという形でフィードバックをする必要があったわけです。

こうして、人類は統合失調を得るようになってしまったと。

 

実際、統合失調遺伝子は地域や人種にかかわらず、普遍的に持っている要素です。

それぐらい、人間の根幹に関わる性質なわけですね。

逆を言うと、時間の概念という知性を持つからこそ、副作用である統合失調を得たのだとも言えるでしょう。

 

「今」を生きれば、楽になれる

「真面目な人ほどうつになりやすい」って言いますよね。

で、真面目な人の「真面目」って何かと言うと、究極を言うと「統合失調」だと言えると思うんですよ。

すなわち、「真面目」イコール「統合失調の度合いが高い」人なんだと。

この裏を返すと、「真面目」イコール「時間の概念を強く持ちすぎている人」だということです。

「時間の概念」と「統合失調」は、表裏一体ですからね。

 

真面目な人って、「今」を生きていませんよね。

未来のために準備をしたり、過去を律儀に悔やんでいるわけです。

自然の生き物は、今「だけ」を生きるものなんですよ。

今を生きれば生きるほど、気楽に生きられるわけです。

ですが、その「今」を犠牲にして、まだ起きてもいない未来のことや、過去に起きたことばかりを脳内で妄想して生きるようになると、そりゃー苦しくなって当然ですよね。

だって、今を生きていないからですね。

それは、「不自然」なんですから。

 

じゃあ、それら「未来」と「過去」という二つの苦しみから解放されるには、どうすればいいのか。

今のところ言えるのは、「今」を生きる時間を増やしなさい、ということですね。

未来と過去に割く時間を少し減らしなさいと。

「~をしなきゃ」は未来のための言葉であるか、もしくは過去を引きずってる言葉ですよね。

逆に、「~したい」という言葉は、今の言葉ですよね。

 

だから、「~したい」ということをすればいいと。

すると、時系列という概念、しがらみから解放されます。

そうして、今を生きられるようになるわけですね。

そして、そんな「~したい」という領域を増やしていくと、より自然に生きられるようになるんじゃないかと思います。

 

「知性がある」ことが幸せとは限らない

そもそも、私は人生っていうのは、「今」、すなわち「自然な状態」をどれだけ生きられるかだと思ってるんですよ。

未来や過去に生きている人って、今を生きていませんよね。

先に触れたように、

「老後(未来)のために死にものぐるいで嫌なことを詰め込んで貯金して、いざ老後が来たら、健康も何もなくて、死を目前にしていて、八十年の人生を無駄にしてしまった」

「十歳までに起こった出来事を悔やんでばかりいたら、八十年の人生を無駄にしてしまった」

これらをしても、全く無意味なわけです。

少なくとも、「人生を生きた」とは言えないんじゃないかと思います。

 

なら、「今」を増やせばいいんですよ。

完全に「今」を生きている人は、早死にしたとしても、死ぬ時は動物と同じように、安らかに死ねます。

未来も過去もなければ、不安も後悔もありませんからね。

生きるときは生きて、病むときは病んで、死ぬ時は死ぬ、そういうあるがままの状態でいられるわけです。

ただ、100%今を生きるまでするのが不安でしょうから、「今」の比率を少し増やしましょうよ、というお話です。

 

新刊「お金は『最もやりたくないこと』から使いなさい」でも触れましたが、私たちにとっての「自然」というのは、狩猟採集時代の生き方なんですよ。

そういう風に、体が適応してしまっているわけです。

狩猟採集をしていたのは500万年で、時間の概念を得たのは5~15万年前です。

すなわち、私たちはあんまり「時間の概念」に適応できていないと。

だから、統合失調という苦しみが多くあるんじゃないかと思います。

 

ならば、「未来や過去を考えること」を最小限にして、「今を生きること」を最大限にすれば、それが生きる喜びを最大限にするんじゃないかと思っています。

すなわち「~しなきゃ」という行動を最小限にして、「~したい」という行動を最大化させるようにする、そういう考え方が、幸せを作り出すのではないかなと。

 

まとめ

統合失調の起源となる部分は私の仮説ですが、私はそうではないかと予想していたりします。

統合失調とは、時間の概念を得た人間の副作用なのだと。

 

そして、時間の概念を捨てれば捨てるほど、すなわち「~したい」という欲求で生きる比率を増やせば増やすほど、楽に生きられるようになるんじゃないかと思ったりもします。

 

とりあえず仮説の段階ですが、最近はこんな統合失調にフォーカスを当てて考えているところです。

また何か気がついたりまとまったら、書こうかと思います。

ってことで、今日は統合失調と時系列についてお話をしてみました。

今日はここまで~。

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