今日は日記っぽい、人間心理のお話です。

思考と葛藤は違うこと、無我とはどういう状態かを説明してみることにしましょう。

 

無我とはどういう状態か

最近はいろいろと「抑圧を解放したら、どういう状態になるのか」を語っていますよね。

で、最近になって、いろいろと自分の状態を冷静に把握できてきたように思います。

まぁ実のところ、いまだに自分でも自分の状態が理解できていない部分も多いように思いますが(笑

 

で、最近は「ひょっとすると、こういう心理状態になれるのは、ちょっと珍しいことなのかもしれない」と思うようになりました。

なので、今までとの違いについては、気づいた時点でいろいろ書き残しておこうかと思います。

しばらくすると、この感覚が当たり前になって、何が変わったのかを忘れちゃいそうですからね(笑

 

それで今日は、「無我とはどういう状態か」と、「思考と葛藤は違うこと」についてお話ししてみましょう。

これが分かると、抑圧を解放した後にどういう感覚になるのか、分かるかもしれません。

 

いつもの4つの性質分類

で、今回も最初に4つの性質分類(外向型と、3つの内向型タイプ)を説明しておきましょう。

↑ この4つですね。

 

  • 外向型: 社会で生きられるので、社会的評価を追い求める方が、最も生き生きするタイプ。
  • 高共感タイプ: 社会で生きる部分では社会的評価は欲するが、高共感で弱者救済を好むため、「高い社会的評価は欲しないけど、最低限の評価は欲しくて気にする」というタイプ。
  • 境地開拓タイプ: 新境地開拓や社会変革を欲するので、「高い社会的評価を欲して、低い評価は気にしない」というタイプ。
  • HSPタイプ: 新境地開拓を好み、共感性も高いので、最も無我(社会的評価を手放す)状態が合うタイプ。

 

そして今回は、そういう「社会的評価を手放して、無我を得やすい」タイプである、右上の「HSPタイプ」に注目します。

 

「無我」とは「社会的評価を手放した状態」

仏教で「無我の境地」とか言うじゃないですか。

釈迦が言うのもそうだし、お坊さんが追い求めるのも、そういう状態だと思うんですが。

 

その「無我」というのは、言い換えると「社会的評価を手放した状態」かと思います。

より正確に言うと、「他者の価値観と、代償欲求、自己否定の葛藤がなくなった状態」だと言えるでしょう。

 

HSPタイプほど、無我の状態が合う

そしてHSPタイプほど、この無我の状態が性質に合うかと思います。

それは、あまり社会の競争だとか、いざこざには適応できない性質だからですね。

 

たまに言うことですが、私の中では、HSPタイプとは「社会が崩壊した時でも、社会から離れて、最後まで生き残る種」だと思ってます。

それは、社会にさほど頼らずとも工夫して生きられるし、共感性が高いので、長期的に計画や準備ができるからですね。

そして「長期的な計画や、内面的な要素(環境との調和)を必要とする新境地開拓」をすることで、生命を保ったり、生命を広げてゆく使命を持つように思います。

 

その場合、「既存の社会評価」はほとんど必要ないと分かります。

だって、新たな社会に出る場合、「今までの社会の評価」にこだわる必要はありませんからね。

むしろそういうものにこだわるほど、動けなくなって、苦しくなりやすいように思います。

 

そういう点からも、HSPタイプは「無我になる(社会的評価を手放す)」というのは、性質として合っているように思います。

 

外向型は、最も社会的評価を必要とする

ちなみに外向型は、最も社会的評価を必要とします

むしろ、「外向型から社会的評価を取ったら、何も残らない」というぐらい、外向型にとっては重要なものです(笑

そうすることで歯車を適切な人材に任せられて、安定して社会を維持できますからね。

 

HSPタイプ以外の他のタイプでも、ある程度の社会的評価は必要になります。

高共感タイプの場合、社会で生きるためには「最低限の評価」は欲します。

一方で境地開拓タイプの場合、社会を変えるのが使命なので、「高い評価さえあればいい。低い評価の背比べは必要ない」という性質です。

 

なのでHSPタイプが一番「社会的評価を必要としない。むしろない方が生き生きとできる」という性質かと思います。

実際にHSPタイプほど、人が少ない境地に出ると、社会的評価なんてどうでもよくなって、「工夫と優しさで、新たに作ろう」とできるかと思います。

そしてそういう状態の方が、評価を気にせずに、生き生きとできるかと思います。

 

「無我」には2種類ある

で、私たちが「無我になる」と言っても、その「無我」には2種類あります。

1つは「短期的な無我」で、もう1つが「長期的な無我」です。

まぁどっちも「瞑想しているかのような、心穏やかな状態」なんですが、短期か長期かで話が少し変わってきます。

 

「短期的な無我」というのは、私たちがよく実感できる、何かに集中している状態です。

制作に集中していると、無我の境地に入れますよね。

それとか私とかは、静かな海沿いの砂浜を歩いていたり、ウォーキングをしていても、無我の状態になれたりするんですが。

 

そういう無我の状態って、悩みが消えて心地いいじゃないですか。

このブログを読んでいる方でも、この状態は多く経験しているかと思います

 

なぜか日常で瞑想状態になってしまう現象

一方で、「長期的な無我」というものもあります。

これは、「そういう制作とかウォーキングをしなくても、なぜか日常的に瞑想状態に入ってしまう」という状態です。

料理や食事、買い物や雑用をしていても、なぜか瞑想状態に入ってしまうんですよね。

 

そしてこれが、抑圧を解放すると起きる現象のように思います。

 

これがまた、とても不思議な感覚なんですよ(笑

なんと言うか、「以前よりも、意識が薄れた」みたいな、表層意識が希薄になってしまったような実感です。

だけどだからといって苦しいわけではなく、むしろ落ち着いていて、静けさがあって、常に瞑想状態で心地よい、みたいな状態です。

 

そもそも瞑想状態というのは、「雑念がなく、ぼーっとしているけど、集中している」という状態です。

特にウォーキングとかストレッチで体験する瞑想状態って、まさにそんな感じでしょ。

「ぼーっとしているけど、集中している」なんて、まるで禅問答みたいですが(笑

 

そして抑圧を解放すると、特に何もしていなくても、勝手にそんな状態になっちゃうと(笑

 

「魔のトライアングル」から解放された状態

この不思議な感覚は、深層意識でイメージすると分かりやすいかもしれません。

 

私たちは普段、表層意識で葛藤を持っているものです。

それが、「社会的評価が欲しい、けど得られない。気晴らしをしたい、だけど資源がない。自己否定をしてしまう、だけど自己否定は嫌だ」という「魔のトライアングル」です。

もちろん社会生活を送る上では「完全に社会的評価を手放す」なんてできませんが、環境と生き方を変えることで、「ほとんど気にしなくなる」という状態にはなれます。

 

だけど抑圧を解放すると、この葛藤がなくなるわけです。

すると、その「魔のトライアングル」での葛藤がほとんどなくなるので、なんだか「普段から何も考えていない」みたいな状態になるわけです。

これが、「長期的な無我」かと思います。

 

だから「無我」と言うよりも、「無社会的評価」とか「無代償欲求」と呼ぶ方が適切かもしれません。

「我がなくなる」というと、なんだか怖いですよね。

でも実際は、「社会的評価や代償欲求を必要としなくなる」とか「葛藤がなくなる」という表現の方が、誤解がなくなりそうに感じます。

 

最近の私には、そういう「こんなに何も考えない状態って、あるんだ」という驚きがあったりします。

実際は「考えない」というのとは違って、「瞑想状態」というのがより正しいんですが、まぁ細かいことはいいかなと(笑

 

思考と葛藤の違い

で、この状態になれると、思考と葛藤の違いが理解できます。

私たちは普段からいろいろと考えていますが、それは「葛藤」であって、「思考」ではないんですよね。

 

葛藤と思考の違いは、次のようなものだと言えるでしょう。

  • 葛藤: 疲れる。ストレスを抱える。新たなアイデアは出てこない。「意識的に考えている」感覚が強い。
  • 思考: 疲れない。ストレスがない。新たなアイデアがつながってゆく。「意識的に考えている」感覚がほとんどない。

 

実際に、私たち(抑圧を抱えている状態)で普段考えていることを、改めて意識して見るといいでしょう。

それは、上で示した「魔のトライアングル」の中のどれかかと思います。

「社会的評価が欲しい、けど得られない。気晴らしをしたい、だけど資源がない。自己否定をしてしまう、だけど自己否定は嫌だ」の中のどれかですね。

 

もちろん「社会的評価を得られる希望」を持っている状態もありますが、それも「社会的評価が欲しい。得られるかも!」という、葛藤(魔のトライアングル)の一部です。

そして「境地に出る」というのは、そういう希望を持たずともできることのように感じます。

むしろそれは、そういう希望を手放す方向になりそうかなと。

 

葛藤ではなく、思考をしよう

だから私たちは、普段思考しているように感じるのは、実体はほとんどが「葛藤」なわけです。

外向型にとっては、そういう葛藤は「心地よい。これこそが生きるってことだ」という風に、生きている実感になるでしょう。

 

ですがHSPタイプにおいては、葛藤はストレスを生んで、疲れるし、新たなアイデアは出てこないものです。

なのでどんなに考えても、結果として現状維持ばかりを選ぶことになります。

 

一方で「思考」は、新たなアイデアがつながってゆくものです。

そしてそれは、昨日の記事でも触れましたが、「考えて得る」というよりも、「与えられる」という感覚に近いものです。

 

で、これは外向型に取っては「努力をしなくなる、人を堕落させるもの」となりますが、HSPタイプにとっては「天からの恵みだ」と、恩恵になります。

それは、努力ではなく、新たなアイデアが得られるからですね。

 

「思考」をしているときの感覚

ほら、私たちがウォーキングをしている時でも、「つらつらと考え事をしながら、心地よく瞑想状態で歩く」みたいな状態があるかと思います。

その状態が、「思考」です。

 

これは、「考えているようで、考えていない」という感覚になります。

心地よく歩きながら、だけど何かをいろいろ考えているけれども、意識的に何かの結論を出そうとしているのではなく、考えが流れてゆく、みたいな感覚です。

 

「いろいろ考えているけれども、意識的に考えてはいない」

「ぼーっとしているけど、集中している」

「心の中でいろいろBGMのように思考が流れているけれども、その思考にとらわれているわけではない」

「だけど思考やアイデアが発展してゆく」

 

そういう感覚ですね。

とても禅問答っぽいですが(笑

 

瞑想するから、アイデアが出る原理

だから「瞑想」というのは、「思考しない」という意味ではありません。

「思考をBGMのように流して、思考しているようで、意識的には思考していない」という状態です。

これが、瞑想をしつつアイデアを得る原理のように思います。

 

いやほんと、完全に禅問答としか言えませんが、ウォーキングとかストレッチで瞑想状態に入ると、そういう感覚になるでしょ(笑

そしてそれが、アイデアと結びつきやすい「深層意識での思考」だと分かります。

 

私の場合の「考えが連鎖する」流れ

私の場合、最初は「楽しかったことを思い出す」のが90%で、「新たにアイデアがつながる」のが10%ぐらいの割合で起きているように感じます。

心地よい瞑想状態になるほど、「あの文章、書いていて楽しかったな」と、自分が書いた文章が頭の中で再生されて、再び心地よさを味わいます。

 

で、その心地よさにひたっていると、他の「ああいう文章も、心地よかったな」と、別の心地よさも出てきます。

すると、その心地よさが連鎖して、もっと深まって考えてしまうんですよ。

なら、次第に「楽しかったことを思い出す」の比率が10%ぐらいに減って、「新たにアイデアがつながる」の比率が90%ぐらいに増えます。

 

例えば「4つの性質分類って、こういうところが面白いな」と心地よく味わっていると、「昨日はこれを書いたけど、これはもっとこう詳しく書けるな」とさらに楽しめます。

他の例だと、「人間の内部には、自分の価値観、他者の価値観、代償欲求がある」という心地よさを味わっていると、「断層的に見ると、もっと面白い」と楽しめます。

だから思考がどんどん発展していって、新たな概念がどんどんつながっていった、という流れです。

 

そして私は、それを「考えよう」、「導きだそう」として得たわけではありません。

「なんかぼーっと歩いて、思考をBGMのように流して心地よく歩いていたら、なんか深まった」という感覚です。

だから思考にはストレスがかからないし、心地よく発展してゆくわけです。

 

寝る直前の「思考が混濁し始める段階」に近い

少し別の例で言うと、この感覚は「寝る直前に起きる、思考が混濁し始める段階」に近いかもしれません。

私たちが寝るときって、部屋を暗くして目を閉じると、まずは目の前に「光の筋」が流れるかと思います。

私はそれを、「脳が記憶を整理している時に起きる、視覚現象じゃないか」と思ってるんですが。

 

で、もう少し意識が混濁してくると、何か堰(せき)を切ったかのように、わーっといろんな雑念とした思考があふれ出てきますよね。

以前に「低共感な人は、常に頭の中で、複数人が一気にしゃべっているのが普通」と言いましたが、それに近い感覚かもしれません。

まぁ、覚える間もなく寝ていることもありますが(笑

 

だけど、そういう「わーっといろんな脳内概念があふれ出てくる状態」には、論理も法則もなく、急に頭の中がにぎやかになったかのような状態です。

そしてその状態のボリュームを、心地よいように自由自在に調整できる、という感覚です。

 

そういう意識状態や感覚に似ているようにも思います。

いや、分かりにくいかもしれませんが(笑

 

まとめ

なので抑圧を解放すると、普段からそういう状態になれるように感じます。

「葛藤」の部分がすっぽり落ちて、「思考」の部分が出てくると。

そういう「普段から瞑想状態に入っている」ということですね。

 

いやもう、完全に禅問答でしかないんですが、こうとしか表現できないんですよ!(笑

でも、普段からウォーキングとかストレッチで瞑想状態に入れている人は、この感覚は分かるかと思います。

 

そしてそういう状態に入れる人ほど、抑圧源から離れてネガティブになると、抑圧を解放しやすいように思います。

それに思考ができると、どんどんアイデアがつながるので、アイデアの次元が変わります。

 

特にHSPタイプの場合、こういう方向性が合うように思います。

「禅問答」と言いますが、「天台問答」とか「真言問答」とは言わないところが、やはり「禅を好むHSPタイプ独自の感性だなぁ」と思ったりもします。

 

するとこの状態を楽しめるし、葛藤をなくして、楽しく思考も発展できるかもしれません。

 

ということで今日は、思考と葛藤は違うこと、無我とはどういう状態かを説明してみました。

今日はここまで~。

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