今日は心理のお話です。

「こじれる」とは「間違った手段を盲信してしまう」ということ、というお話をしてみましょう。

 

「こじれる」とは?

「こじれた人」っていますよね。

そういう人って、何でもないことから急に怒り出したり、意味を曲解して怒ったり恨んだりして、なんかやたら扱いが難しかったりするんですが。

じゃあなぜ、そんな風にこじれてしまうのか、というお話です。

 

これはとても簡単で、「こじれる」とは、「代替手段を絶対視してしまうことで、一番欲しかったものが見えなくなること」だと言えるでしょう。

例えば、とある子がいて、親からいつも「なんでこんなこともできないんだ。お前はダメな奴だ」と、批難されていたとしましょうか。

すると、その子は「他者から求められてできないことは、いけないことだ。人間としてあってはならないことだ」と学習します。

だから、その子は「求められたら、何でも完璧にできるようにならなきゃ」とか、「親を喜ばせなきゃいけない」とか思うわけです。

 

「本当に欲しいもの」が分かれば、最善の手段を模索できる

でも、実はその根底には、「できない自分でも、受け入れて欲しい」とか、「安心して生きたい」とか、そういう欲求があるんですよね。

すなわち、本当に欲しいものは、「すぐにできなくてもいい。少しずつできるようになればいい」という許しなんだと。

 

この「本当に欲しかったもの」が分かれば、「求められたら、完璧にできなければならない」、「親を喜ばせなきゃいけない」というのは、それを満たすための、一つの手段でしかないと分かります。

だいたい普通の人からすると、「人にはできないことがあるし、やりたくないこともある。だからできなくても当然だし、やらなくていいこともある」と思うものです。

なので、「本当に欲しいもの」が分かれば、「完璧にする」とか「親を喜ばせなきゃいけない」というのは、「最善の手段ではないかもしれない」と疑えます。

そして、別の手段を模索できます。

 

手段を絶対視すると、こじれが始まる

なのに、そういう「本当に欲しいもの」を忘れて、手段を絶対視してしまうわけです。

これが、こじれの始まりです。

 

例えば「完璧にできなければならない」という手段を絶対視してしまうと、「ミスをする人は許せない」とか、「求められているのに断る人は、許せない」とか思うようになってしまいます。

それは、「あってはならないこと」だからですね。

そうして、普通の人なら怒らないようなことでも、怒り出してしまうと。

すなわち、少しこじれてしまう、ということです。

 

こじれがこじれを生む

で、場合によっては、もっとこじれることもあります

例えば、自分が完璧にできないから、「これ以上失敗したくない」と、引きこもったとしましょうか。

何もしなければ、失敗することはありませんからね。

 

でも、何も挑戦しなければ、何も得ることもできません。

だから、「自分は、他の人のようにできない。親の願うような、社会で出世をしたり、活躍する人になれない」と感じて、罪悪感とか怒りを持つようになるものです。

 

こじれた手段を、さらに絶対視してしまうスパイラル

そして、その罪悪感を正当化するために、SNSで社会的な失敗をした人とか、社会的に不適切なことをした人に対して、嘲笑したり、批難して炎上させたりするわけです。

ここで欲しいものは、「一時的に、自分が持つ罪悪感や怒りを忘れさせて、憂さを晴らすこと」です。

 

ただ、もしここで「欲しいものは、一時的な憂さ晴らしだ」と分かれば、嘲笑や炎上への荷担は、一つの手段でしかないと分かります。

すると、「一時的な憂さ晴らしをしたければ、他にも手段はある」と理解できて、別の手段を模索できるでしょう。

実際、普通の人は、散歩をしたり、運動をしたり、何か趣味を持ったりして、憂さ晴らしをすることもできているんですから。

 

でも、「SNSで嘲笑したり、炎上への荷担する」という手段を絶対視してしまうと、「反論してくる人が許せない」、「自分を否定する人を許せない」みたいになります。

実は、根本的に最も欲しいものは、「できない自分でも、受け入れて欲しい」という思いです。

なのに、朝から晩までSNSで、反論してくる人とか、自分の意見に反論する意見をツイートしている人に、批判メッセージを書き込んでいると。

こうやって、こじれた上で、さらにこじれてしまうわけですね。

 

ここまで来ると、モグラたたき状態

ここまで来ると、もはやモグラたたき状態です。

目の前に次々と現れる「これを許せない」、「これを始末しなきゃ」という現象を、とにかく早くたたいて、落としてゆこうとします。

だけど、どんどんモグラは顔を出てくるし、たたき切れなくて。

 

それどころか、自分はどんどん疲弊していくし、周囲からの批判も増えてしまいます。

自分のミスも増えていくでしょう。

そんな「周囲からの批判や拒絶」によって、一番欲しかった「できない自分でも、受け入れて欲しい」という願いすら、失ってゆくわけです。

すなわち、目先の対処ばかりに忙殺されることで、一番欲しかったものすら得られなくなってしまうと。

 

どん底に落ちて、初めて気づく

で、さんざん周囲を嘲笑したり、炎上させているのに、一度自分が攻撃されると、自尊心は壊れてゆきます。

この段階になると、もはや論理なんてないし、今までの自分の行動なんて振り返ることもありません。

そして、「私は悪くない」と正当化するばかりです。

当然、今まで自分がした行動への報いは受けることになるので、何も持たない自分、何も行動できなくなっている自分に気づくし、すべてを奪われてしまって。

 

そうして最後には、泣きながら「できない自分でも、受け入れて欲しかっただけなのに」と言うと。

すなわち、どん底に落ちて初めて、本当に欲しかったものが見えるわけですね。

 

「結局、何が欲しいの?」という問いかけ

なのでどん底に落ちるのは悪くはないんですが、どん底に落ちる前から対処することはできるように思います。

それが、「結局、何が欲しいの? 何が実現できればいいの?」という問いかけを発することです。

 

すると、「実は受け入れられて生きたかったんだ」とか、「マイペースで、自分なりに成長しつつ、安心して生きたかったんだ」とか分かります。

なら、目の前の「これをしなきゃ」とか、「こうでなければならない」というのは、一つの手段でしかないと分かります。

だって、「許せないものをたたくことが、本当に自分の願いを実現することだろうか?」と再検討できますからね。

 

もし「受け入れられて生きたい」のならば、「周囲を嘲笑したり、炎上に荷担するのは、本当に最善の手段だろうか?」と考えられるものです。

もし「安心して生きたい」のならば、「目の前のモグラたたきに忙殺されることは、本当に最善の手段だろうか?」と疑えます。

 

「自分と向き合う」とは、「こじれを取り払うこと」

そうやって、こじれを取り払うことができて、より本質的に欲しいものを満たせます。

すると、無駄なモグラたたきから解放されて、少しの手間で、本当に欲しいものを得られます。

「こんなに頑張っているのに、報われない」という状態から抜け出して、「やればやるほど、豊かになるし、未来がよくなる」という状態になれます。

 

私の中では、「自分と向き合う」というのは、こういう「こじれを取り払うこと」だろうと思ってます。

すなわち、「結局、私は何が欲しいの?」と問いかけてゆくことかな、と。

 

まとめ

なので、より楽に、安心して生きたいのであれば、目先の「うわーっ、これをやらなきゃーっ!」というモグラたたきから、少し距離を取ってみるのもいいでしょう。

そして、「結局、何が欲しいの? 何が実現できればいいの?」と問いかけてみることですね。

 

こじれているほど、「自分はこんなモグラたたきに追われる生活をしたかったんじゃない」と感じるでしょう。

一方で、充実できているほど、「こういう毎日でもいい。このまま進んでいこう」と感じるんじゃないかと思います。

 

そして多くの人が、多かれ少なかれ、そういうこじれを持っているものです。

目の前の出来事に忙殺されている人ほど、本当に大切なことを見失いがちです。

 

なので目の前のことに忙しく生きている人ほど、時には忙しさから離れて、自然にでも触れてみて、考えるのもいいかもしれません。

そういう「自分と向き合う」という時間を取ってみるのも、人生には必要かな、と思ったりもします。

 

ということで今日は、「こじれる」とは「間違った手段を盲信してしまう」ということ、というお話でした。

今日はここまで~。

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