今日は久しぶりに、思いっきり精神的なお話です。
「私」と「学習」を区別できるようになると、精神的に楽になれそう、というお話です。
今日は精神的な、新たなコンセプトをご紹介してみましょう。
自分で自分を責め続けてしまう苦しみ
「私はなんてダメな奴なんだ」とか、「もっと頑張らなきゃいけないのに、これ以上頑張れない」、「誰か、こんなに頑張っている私を認めて」という気持ちを抱えた人は多いんじゃないかと思います。
自分で自分を認めることができずに、人に認めて欲しくて、褒めて欲しくて、だからみんなのために頑張ったり。
でも、いつでも周囲の期待に応えることなんてできなくて。
そして深く落ち込んだり、自分を罰したりしてしまうものです。
そういう生き方って、苦しいですよね。
自分を認められずに、ずっと自分で自分を責め続けてしまうわけですから。
どうしたらありのままの自分を受け入れられるようになるのか
じゃあ、どうしたらありのままの自分を受け入れられるようになるのか、という一つのコンセプトを思いついたので説明してみましょう。
それが、「私」と「学習」を区別できるようにする、ということですね。
これは、図で見てみると分かりやすいので、図で見てみましょう。
自分を責めて苦しむ人というのは、次の図のように「私」の中に「学習」があります。
「私」と「学習」の区別をつけることができるようになると、自分を責めることがなくなる
「学習」というのは、幼い頃から今まで、いろいろと学習してきたことです。
「こうしたら周囲からこういう反応があった。だからこうするようになった」という、行動の最適化ですね。
「幼い頃に、宿題をせずに遊びに出たら、親から激しく怒られた。だから勉強をするようになった」とか、「絵を描いて見せたら、激しくけなされた。だから絵を描くことを恐れるようになった」とか。
そういう「学習」は、「自分本来の価値観」とは全く異なる別のものです。
「自分本来の価値観」は、ある程度先天的に決まっているもので、変わらないものです。
一方で「学習」は、周囲の人や社会と調和するために、後天的に身についたものです。
なぜ、私たちは「他人の価値観」を取り込むのか
で、言うなれば、「学習」は「他人の価値観(周囲や社会の価値観)」だと言えます。
他人の価値観を取り込んで従うことで、周囲との関係をうまく成り立たせるわけですね。
私たちは、そういう他人の価値観を取り込む必要があります。
というのも、学習をせずに本当に本能のままに生きると、社会では生きていけなくなります。
例えば「欲しいから」という理由だけでスーパーの棚から商品をお金も払わずに取ったり、「嫌いだから」で人を殺すと逮捕されちゃうわけで。
「ありのままに生きよう」とか言いますが、私たちは周囲との関係から学習して(他人の価値観を取り込んで)、時と状況に応じてある程度自分の欲求を制限しなければ、生きていけないんですよね。
「私」の中に「学習」があると思うから、苦しみが生まれる
で、自分を責めて苦しむ人というのは、「私」の中に「学習」があると思っているんですよ。
すなわち、「自分の中にある他人の価値観も、自分だ」と思い込んでいるわけです。
自分本来の価値観と、他人の価値観との間に、境界線をつけられていない状態ですね。
これはおそらく、幼い頃に「自力ではできないこと」を責められたことで、そう感じるようになったんだろうと思います。
例えば親から「どうしてそんなこともできないのか」と怒られて、できなければ親から見捨てられるかもしれない状況が多くあったとしましょうか。
すると、生き延びるために「親の価値観」を自分の中に取り込まなきゃいけなくて。
だから、生き延びるために、自分でも分からなくなるほど価値観をすり替える必要があったんじゃないかと思います。
「私」の中に「学習」があると思うと、自分が分からなくなる
こういう状態になると、「自分」がよく分からなくなってしまいます。
だって、自分の中に相反する矛盾した感情が常に起きるようになるからですね。
「勉強しなさい」という他人の価値観と、「遊びたい」という自分本来の価値観が同居します。
「我慢しなきゃ」という他人の価値観と、「好きなことをしたい」という自分本来の価値観が同居します。
「私」には、どちらが自分本来の価値観なのか、分かりません。
こうして、「私」に対する混乱が始まり、「どっちも私」と認識せざるを得なくなります。
こうして人は、精神的に疲弊してゆく
こういう状態だと、「学習したこと」も「私」と認識しているので、常に「自分本来の価値観」に苦しむことになります。
「自分本来の価値観」は、実は自分自身にとっては喜びや元気を与えてくれる価値観です。
でも、「学習」がそれを覆い隠すようにして存在して、「そんなことしちゃダメだ!」と抵抗するわけですね。
自分本来の価値観が「遊びたい」と思っても、学習が「勉強しなきゃ」と反対すると。
こうして相反する欲求が自分の中にあって、激しい綱引き(葛藤)が行われて、精神的に疲弊していくことになります。
で、自制心が強い人(学習の量が多い人)ほど、ほとんどの場合で「学習」が勝ちます。
そして自分が本当にしたいことができずに、元気もエネルギーも失われていくと。
すると、「自分本来の価値観」の欲求を満たすことができないので、その代わりに「他人の価値観」を満たすことで、自分を満たそうとします。
これが、「もっと頑張って他人から認められたい」、「頑張っている自分を認めて欲しい」、「頑張りを褒めて欲しい」という気持ちになるわけですね。
それでも認めてもらえなかった場合、「私はダメな奴なんだ」と落ち込んだり、時々暴発して、周囲との関係を壊してしまったりするようになります。
これらは全て、「学習」を「私」だと思い込んでいるから起こります。
健康な人は、「私」と「学習」を区別して考える
じゃあ健康な状態の人はどういう状態かというと、「私」と「学習」を明快に区別しているわけですね。
で、「私とは自分本来の価値観である」と認識します。
そして、「学習は、本来の自分ではないもの」と理解していることになります。
「いらない学習は、捨てていい」という感覚
すると、「学習は私ではない」と分かると、学習を取捨選択できるようになります。
「いらない学習は、捨てていいんだ」と分かるわけですね。
だって、本来の自分ではないものだから、手放すことができると。
この「いらなくなった古い学習を捨てること」が、「自由になる」ということです。
逆に「私の中に学習がある」と思っている不健康な人の場合、この「いらなくなった古い学習」を捨てられないんですよね。
というのも、それを捨てるのは、「自分を否定することになる」と感じるからです。
でも、実はそれを捨てても自分を否定しないんですよ。
だって、「自分」を勘違いしているだけですからね。
学習を捨てても、自分は否定されない
学習を捨てても、自分は否定されません。
例えば幼い頃に、「我慢しなきゃ、親から見捨てられて生きていけなくなる」と学習したとしましょうか。
私の場合、母親から毎日のように「お前(子ども)の未熟さが、私(母親)を苦しめている」というメッセージを受け取って学習してきたわけです。
すると、「我慢しなきゃ、生きていけない」、「何でも完璧にできなきゃいけない」という強烈な学習が自分の中にできます。
で、大人になった今なら、少々我慢せずに生きても、完璧にできなくても、大丈夫なんですよ。
ちゃんと自力で生きていけるようになっているんですから。
なら、その「我慢しなきゃ」とか「完璧にできなきゃ」という学習は、なくてもいいものです。
でも、「私の中に学習がある」と思っていたら、「自分」を否定することになります。
だから不健康な人は、その価値観を捨てられないと。
精神的に自由な人は、こういう感覚で生きている
じゃあ、この「私」と「学習」に境界線をつけられたら、どういう感覚で生きられるのかを説明してみましょう。
これは、次のようなイメージをしてみるといいでしょう。
私たちの前にはテーブルがあり、トランプのようなカード(切り札)がいくつも伏せられて並んでいます。
で、そのカードの向こうに、他人がいたり、社会があります。
そんな風に、「私」と「他人」の間にはカードの数々があり、明快に区切られています。
このカードの数々が、「学習」です。
他人から「こうしなさい」とか「こうしなきゃダメ」と言われた場合、私たちはこのカード(切り札)を切ることで、対応します。
そのカードには、「我慢して対応する」とか、「やらない」とか、「笑ってごまかす」、「怒って威嚇する」、「困った風に見せる」みたいな、いろんな反応が書かれています。
私たちはそのカードの中から「今回はこの切り札を切る」と決めることで、自分の欲求を最大限に満たそうとするわけですね。
で、実はカードの種類は無限にあります。
「相手に、どういう風に反応を返すか」は、無限の方法がありますからね。
すると、私たちは「どういうカードを切れば、この状況で最も自分の欲求を満たせるか」ということに考えを集中し始めます。
これが、「ありのままの自分でいられる」という感覚
ここで、改めてこの状況を見てみましょう。
ここでの「私」は、「私はなんてダメな奴なんだ」とか、「もっと頑張らなきゃいけないのに、これ以上頑張れない」とか、「誰か、こんなに頑張っている私を認めて」などという思考とは無縁な状態だと分かります。
というのも、「自分がカードを選べる」と分かっているからですね。
言うなれば、「どのカードが一番いいだろう?」と、ゲーム感覚で対応しているのと同じです。
これが、健康な状態の人が日常的に感じている感覚です。
常に、無限の選択肢(無限の切り札)は自分の目の前にあって、「自分の選択で相手の反応を決められる」という感覚です。
この状態なら、「私」は完全にありのままでいられて、なおかつ数々の「学習(カード・切り札)」によって守られていますよね。
で、失敗しても、自分を責めることはありません。
だって、「適切なカードを選ぶのを間違えた」という手段が問題だったのであって、「自分の価値」はそれとは関係ないからですね。
これが、「ありのままの自分でいられる」という感覚です。
自分が自分の人生をコントロールできれば、幸せが得られる
幸せというのは、ある意味「自分が自分の人生をコントロールできる」という実感だと言えます。
裏を返すと、苦しみというのは、「自分が自分の人生をコントロールできない」という実感によって起こります。
「私はなんてダメな奴なんだ」とか、「もっと頑張らなきゃいけないのに、これ以上頑張れない」、「誰か、こんなに頑張っている私を認めて」という感覚は、「私にはこのカードしかない」、「このカードを持つからこそ私は私」と思っているから起こるんだと。
こうして、「私は自分の人生を、これ以上自分ではコントロールできない」と感じるようになり、苦しむわけですね。
なら、「私」と「学習(カード)」を切り離して考えることで、「私は学習(カード)を選択できるんだ」と分かります。
そして、無限のカード(選択肢)があると分かり、どんなときでもカードを選ぶ余地が生まれます。
すると、自然と「できるだけ自分本来の価値観を満たすには、どういうカードを切ればいいだろう」と思うようになると。
すなわちこれは、「私」が「自分本来の価値観」になっている、ということです。
いつでもありのままの自分でいられる、ということですね。
まとめ
そんな風に、「私」と「学習」を区別できるようになることで、自分を責めることをなくせるんじゃないかな、と思います。
学習(他人の価値観であり、切り札でもあるもの)は、「私」ではありませんよと。
「今まで学習して身につけてきた、後天的な価値観」は、「私が取り得る選択肢(切り札)」として、自分と切り離してイメージするわけです。
すると、ありのままの自分が守られる上に、最適な切り札を切ることができるようになる、ということですね。
その選択肢は、自分の手の中にある、ということです。
これがイメージできるようになると、おそらく多くの人が、「今までずっと、ワンパターンな切り札(学習してきた経験則)を切っていた」と気づくんじゃないかと思います。
この実感があれば、自分を責めることがなくなり、試行錯誤ができて、失敗を受け入れられるようになって、なおかつ自分の欲求を満たしてゆけるようになるんじゃないかと思います。
最近こういうコンセプトを思いついたのでご紹介してみましたが、いかがでしょ。
うーん、ちょっと分かりにくいですかね。
もっとうまく組み上げられないか、いろいろ考えているところです。
ということで、今日は「私」と「学習」を区別できるようになると、精神的に楽になれそう、というお話をしてみました。
今日はここまで~。