今日は、世の中の仕組みについてのお話です。
なぜ「世の中は結構うまく回っている」と感じるようになったのかを、語ってみることにしましょう。
「世の中は結構うまく動いている」という実感
SNSとかを見ると、もう世の中問題だらけのように見えるじゃないですか。
多くの人が「これが問題だ! これがおかしい! こんな世の中、間違っている!」と嘆き、叫んでいるものです。
でも私の中では、特に最近になって、「世の中はこう見えて、実は結構うまく動いている」と感じるようになったんですよ。
じゃあなぜそう感じるようになったのか、今日はそのお話をしてみましょう。
「分からない」に気づけると、問題の本質が見えてくる
結論から言うと、「私には分からない」という実感を得たからそう感じるようになった、ということです。
- 何がいいことなのか、分からない。
- そもそもその行動が、どういう結果につながるのか分からない。
- 価値観は人によって違うし、他者の(心の底での)価値観は分からない。
そういう「分からない部分」に気づけてそれを排除すると、「世の中が問題だらけ」ではなくて、「自分が問題を抱えていて、解決できていないだけだ」と分かります。
すると、「自分で解決してゆく問題を、社会のせいにして、嘆いていただけだ」と分かって、「世の中はこれでいい。自分の問題は、自分で解決してゆこう」とできるかと思います。
何が「いいこと」なのか
私には、何が「いいこと」なのか、分からないんですよ。
例えば私が、ろくな理論もなしに、株とか為替で奇跡的に当てて、巨額の利益を出せたとしましょうか。
でも、それが「いいこと」なのかは分かりませんよね。
そういう収入を継続的に得られないかもしれないし、浪費癖がつくかもしれないし、能力以上にお金を持ってしまって、お金のストレスを抱えるかもしれません。
同じように、私は過去には失敗したり、間違ったり、苦しんだり、落ち込んだこともありました。
でもそれが「完全に悪いことだったか」というと、そうではなくて、そういう失敗や間違いが私を成長させたこともあって。
他にも、「誰かを成功させる」というのも、私にはいいことなのかは分かりません。
「あえて失敗させる」、「自分で学んで、向上できるように支える」というのも、一つの優しさだし、価値になりうるわけじゃないですか。
結果が「いいこと」になるのかも、分からない
そもそも、私たちが「こうした方がいい」と行動したことが、結果として「いいこと」になるのかなんて、分からないものです。
だって、もし私たちが常に最善の判断をできているなら、今現在の私たちは「現状から出たい」なんて思いませんから(笑
そしてもしそれができていれば、私たちはとっくの昔に幸せで、何一つ問題のない大金持ちになっているはずです。
それに、もし第一志望に挫折してあきらめても、むしろそれがいい結果につながることも多くあるものです。
「これからの判断」も、どういう展開になるのかは分からない
なら、私たちがする「これからの判断」も、「目先の結末」も、未来にはどういう展開になるのかは分からないものです。
「最悪だ」と思ったことが最高になることもあるし、「最高だ」と思っていたことが、実はひどい展開をもたらすこともあるわけで。
そしてこういう「分からない」ことは、周囲に対しても言えます。
例えば「あの人には、こうすべきだ」という今までの習慣があったとして、それが相手にとって「いいこと」なのかは、分かりませんよね。
尽くすことがいいことなのか、見捨てて放置するのがいいことなのか、分からないものです。
人の価値観も、分からない
同時に、相手の価値観もよく分からないものです。
だいたい、人は「根本的な欲求」と、「こじれへの欲求」を持ちます。
そして多くの人が、根本的な欲求から目をそらして、こじれた欲求を求めています。
例えば多くの人が、「自分の無価値さに向き合い、根本から癒やす」ことを願うよりも、「嫌な奴をこの世から消し去りたい。そしてチヤホヤされたい」と思っているものです。
その上、本人自身ですら、自分が何を心から求めているのか分かっていないことが多くて。
私たちだって、自分に何を与えれば満たされるのか、なかなか分からないですよね。
「私や私の属する社会が、問題である」という実感
そしてそういう感覚で世の中を見てみると、「世の中全体が問題」というよりも、「私や私の属する社会が、問題である」と実感できるわけです。
例えば政治でも、「すべての人への悪法」なんてありえなくて、どんな法律でも、少なくともごく少数でも、それで利益を得られる人がいるものです。
例えば「政権がこういう悪法を作った」とかいう主張があったとしましょうか。
でもそれは、「政権支持側への優遇、不支持側への不遇」だったり、「利権側の優遇、一般側の不遇」でしかないんですよね。
なら、結局のところ「世の中全体が問題」ではなく、「他の社会がメリットを受ける中で、私や私の属する社会側が問題を抱える」というだけだと分かります。
他の例で言うと、例えば「オリンピック決勝で負けた。金メダルを届けられなくて、人々を喜ばせられなくて、申し訳ない」と謝っている選手がいたとしましょう。
でもその一方で、「自分が負けることで、優勝できた選手」がいるわけじゃないですか。
なら、その敗者の選手は、「自分が負けることで、別の国の人たちに金メダルを届けて、そこの人々を喜ばせた」とも言えると分かります。
すると、これも「世の中全体が問題」というよりも、「私や私の属する社会が、問題である」ということに過ぎないと分かります。
自然界全体から見てみると
ならここで、「私側」ではなく、より広い「世の中」側で見てみることにしましょう。
「世の中」を限りなく広く見てみると、それは「(宇宙を含めた)自然」と言えるでしょう。
ならば、そういう自然界全体から見てみると、「生命が発展、繁栄すること」がいいことなのかも分からないものです。
ただ、生命は着実に発展、繁栄しているし、順調に広がっていけているし、私はそれでいいと思うんですよ。
最初は深海だけだった生命の領域が、海全体に広がり、進化して地上に広がり、今ではいろんな進化を遂げて、いろんな場所で生きられるようになっていて。
ならば、「生命は発展、繁栄しつつある」という方向性が合っていれば、それでいいように思います。
全体を見られると、他のことは小さなことになる
そういう全体を見られると、他のことは小さなことになります。
例えば、歴史的に1つの国が滅亡したとしても、人類は生き残ってきましたよね。
なら、歴史的な長期目線で見ると、「国家の滅亡」という破滅的なものですら、人類にとってはさして大きな影響度ではないと分かります。
実際に私の場合、古代ローマ帝国や、中世の国々がことごとく滅んでいたからといって、「それが何か?」という感覚ですから(笑
ならば、国家の滅亡ですら、「自然(世の中)の問題ではなくて、自分個人か、個人が属する小さな社会での問題でしかない」と分かります。
「世界の問題」ではなく、「私側にとっての不利」である、ということです。
それは果たして、「世界の問題」なのか
そういう風に、「世界の問題」と言われていることに対して、「それは果たして本当に世界の問題なのか」と疑うことですね。
すると、「世の中は問題だらけだ」というその「問題」が、本当に問題なのかは分からなくなります。
スペインがアステカを制服して滅ぼしたのは、果たして「世界の問題」だったのか。
サメが、逃げ惑う小魚を追い回して食べている現実は、果たして「世界の問題」なのか。
「生命が他の生命を奪い、食べること」は、果たして「世界の問題」なのか。
他にも、いろんなことがあるでしょう。
人間が小麦を育てて食べること、ロシアがウクライナに侵攻したこと、中央銀行がお金を作りすぎてインフレが起きていること。
それらは、果たして「世界の問題」なのか。
ひょっとするとそれは、「世界の問題」ではなく、ただ単純に「私と、私の属する社会側にとっての不利」だけではないのか、ということです。
まとめ
そんな風に、「分からない部分」を排除すると、「世の中が問題だらけ」ではなくて、「自分が問題を抱えていて、解決できていないだけだ」と実感できます。
ただ単純に、多くの人が「大きな主語」を使って、「自分側の問題」を「世界側の問題」とすり替えているようにも感じます。
そういう感覚で世の中を見てみると、「世の中は結構うまく回っている」という感覚になってきます。
だって、生命は着実に広がっているし、地球の中で、環境変動に対応しつつ生きようとしているんですから。
そしてこういう感覚が得られると、国家の滅亡ですら、私たちはうまく対応することで、乗り越えられるような感覚になれますよね。
だって、1つの国家が滅亡したとしても、人々は生きられるんですから。
同じように、1つの会社が倒産したとしても、私たちは生き延びられます。
たとえ私たちが1つの家庭から離れることになっても、小さなコミュニティから距離を取ることになっても、大きな目線ではたいしたことではありません。
それでも私たちは生きて、問題に対応してゆけます。
こういう感覚が持てると、「世の中はこれでいい。自分の問題は、自分で解決してゆこう」とできて、より自由に動けるかもしれません。
ということで今日は、なぜ「世の中は結構うまく回っている」と感じるようになったのかを語ってみました。
今日はここまで~。