今日は、人間の感情について語ってみましょう。
我慢ではなく、「自然な心地よさ」に従う方がうまくいく理由を説明してみましょう。
これは以前にも似たようなことを語った記憶があるんですが、今回はより分かりやすく説明してみることにしましょう。
「我慢をするほど、うまくいく」は本当なのか?
私たちって、「我慢をするほど、うまくいく」と思いやすいものです。
実際に我慢をするほど収入を得られたり、波風を立てずにすんだり、争いを避けられたりするものです。
だから高共感な人ほど、抑圧をしたり、感情を押し殺しやすかったりするんですが。
ただ、「自然な欲求」と「代償欲求」の違いが分かると、「自然な欲求は、思い切り感じて生きていい。むしろどんどん欲求や感情を方向性にすればいい」と分かります。
すると、今までどんなに頑張って苦しんでも得られなかったものが、楽に手に入るかもしれません。
「自然な欲求」と「代償欲求」
私たちには、「自然な欲求」と「代償欲求」があります。
そして結論から言うと、次のようになります。
- 代償欲求を得ようとする場合、我慢するほどうまくいきやすい
- 自然な欲求を満たそうとする場合、自然な心地よさに従うほどうまくいきやすい
そもそも快不快の感覚というのは、「どういう方向に進めばいいのか」を示す方位磁石のようなものです。
で、基本的に生命は、「喜びを感じる方向に進むと、生き生きとする。苦しさを感じる方向に進むと、生命力が落ちる」という性質を持ちます。
まぁこれは当然で、生命として生き生きとすることを「嬉しい、楽しい、心地よい」と感じるから、生命は必要なものを取り込めて、生きられるわけです。
もし「私は何も食べない方が心地よい」、「傷ついて血を流すのが心地よい」みたいな生命がいたら、すぐに絶滅してしまいますからね(笑
だから基本的に、生命は「喜びを増やして、苦しみを減らす」方が自然に元気に生きられます。
代償欲求を求めるから、我慢を求めてしまう
だけど多くの高共感な人が、この逆の「我慢をするほど生きられる」と誤解しているように思います。
それは、「本当に欲しいもの」ではなく、代償欲求を求めてしまっているからですね。
人はよく、「本当に欲しいもの」を忘れて、「代用品さえたくさんあれば、幸せになれるのに」と勘違いしてしまいます。
例えば本当は「嫌な人や会社に時間を費やしたくない」だったとすると、嫌な人や会社から離れる方向に動けば根本的な解決になりえます。
それなのに、「どんな厳しさにも耐えられる、強い心があれば」とか、「ずっとお酒を飲み続けられれば」みたいに、幸せの本質からはズレたものを欲してしまうわけです。
そして、「その代用品を得るために、厳しい修行をしよう。そうすれば、私は最強になれる」とか考えてしまうと。
これが、こじれている人の「頑張って、自分から苦しみを得て、いつまで経っても満たされない」思考ですよね。
どんなに代償欲求を得ても、満足できない
同時にそれが、「厳しくしないと、人は堕落する」とか、「(お酒やドラッグのように)心地よいものを際限なく取ると、身を滅ぼす」という現象を作ります。
というのも、そういう代償欲求は、根本問題が解決されない限り、際限なく得ようとしてしまいます。
だから、称賛や承認、お酒やドラッグ、お金や名誉など、「足るを知る」ことなく、永遠に欠けた状態で求めてしまうと。
そしてそれが永遠に満たせないからこそ、「少しでもネガティブ側を選ぶと、その誘惑に負けて、際限なく落ちてしまう」という恐怖が生まれます。
それは、根本問題を対処していないので、「我慢しなければ、永遠に減ってゆく」からです。
代償欲求は比較的手軽に手に入るし、少しの我慢ですぐに成果が出ます。
だからこそ、人は代償欲求に目が向きやすいし、それを先に得ようとします。
ただ、だからこそ、「代償欲求を満たすことがすべてだ」と思い込みやすいように思います。
「本当に欲しいもの」は、心地よさに従うと得られる
一方で、本質をとらえる人は、「本当に欲しいもの」を見据えて、感情をうまく使います。
それは、「心地よい」、「不快だ」という感情に従って、うまく自然に生きられる場所に向かう、ということです。
これは時間や労力はかかりますが、代償欲求とは違って、本当の意味で「満たされる」ことができます。
例えば「人間関係のいざこざや争いが苦手。自分は静かに何かを作っていたい」という場合、その「心地よさ」に従うわけです。
すると、田舎で暮らしたり、ゆったり制作をして暮らすこともできると分かります。
自然な欲求ほど「足るを知る」になる
そしてそれが代償欲求ではなく、自然な性質に根ざすものほど、「足るを知る」ことができます。
「もっと、もっと!」と中毒になることはなく、「これぐらいが心地よいな」と、生命として生き生きとする領域で生きられます。
自然の欲求を元に生きていれば、バランスは自然と取れます。
食事を食べれば満腹になるし、ぐっすり眠れば、翌朝にはすっきりして目覚めるものです。
「食べ始めたら際限なく食べてしまう」とか、「永遠に寝続ける」、「お酒におぼれる」、「一度堕落し始めると、際限なく堕落する」なんてことはないと分かります。
そういう代償欲求は、「いつまで経っても満たされない部分」があるから、生まれるものなんですから。
だから自然な欲求を元に生きる場合、「ポジティブじゃなきゃダメ。ネガティブはダメ」なんてする必要もありません。
逆に、「ネガティブを欲する時期になったら、ネガティブを十分にして満たせばいい。すると、ポジティブ側に戻る」と、未来を信頼できます。
人によっては、「自分の思いに従ってわがままをしたら、周囲の迷惑になる」と感じるかもしれません。
だけど高共感な人は、「人を傷つけて哀しませると、自分も傷つく」という性質を持ちます。
すると、周囲の迷惑になることが苦しくなるので、「自然な心地よさを目指す」をすると、結果としてうまくバランスを取れて、調和して生きられます。
共感性が低い人でも、周囲からの主張があることで、行動を修正してゆけます。
自然な立ち位置から見ることで、より本質から満たせる
ならば、自然な立ち位置から物事をとらえることで、より本質から満たせると分かります。
代償欲求を求めるのではなく、自然な欲求から得られるように、戦略を考え直しましょうよ、ということですね。
そして自然な立場から考えると、生命なんてどこで生きようが、心地よく生きられればそれで十分だと分かります。
「今生きている場所で成功する」という必要なんて、これっぽっちもありません。
また、「周囲が評価することを実現しなきゃ、生きる価値はない」なんてことも、これっぽっちもありません。
私からすると、個体が生き生きとして生きられれば、それが最高に自然で輝いているように感じます。
また、自然な心地よさに従うほど、うまく環境や周囲とも調和できるように思います。
むしろ代償欲求を求めるほど、無駄な浪費や消費をしてしまって、調和を外しやすいようにも思います。
自然な立ち位置から考えると、当たり前のことでしょ。
なのに、「今の場にいなきゃいけない」、「今の価値観で認められなきゃいけない」という意味不明な思い込みが、いろんな代償欲求に手を伸ばす原因になるわけです。
代償欲求には、「評価されたい」とか、「認められたい」という欲求も含まれます。
そしてその結果、「未練」みたいな迷いも生じてしまうと。
本当に欲しいものは、いったい何なのか
なので、「本当に欲しいものは、いったい何なのか」を考えてみることかな、と思います。
その場に居続けることなのか、それとも「自然に生きること」なのか。
で、自分にとっての「自然に生きる」とはどういうことなのかを、イメージしてみるのもいいでしょう。
生命は基本的に、「心地よく生きられる場所であれば、そこが理想の場」です。
もちろん、生命の種によっては、「こういう期間単位で旅をし続けること」とか、「変化を模索し続けること」、「新たなものに挑み続けること」みたいなことが、理想の生き方になることもあるでしょう。
その辺も、いろんなタイプがあっていいし、それもその人の「心地よさ」に従っていれば見えてくるものです。
まとめ
だから我慢しがちだったり、苦しみがちな人ほど、「自然な欲求」を指針にしてみるのもいいかと思います。
多くの人が、本当に欲しいものを忘れているか、目を向けることすらせずに、代償欲求ばかりを欲しているように思います。
「代償欲求」ではなく、「自然」の上に立つわけですね。
代償欲求は、欲するほど身を滅ぼすことが多いですが、自然な欲求はうまくバランスが取れます。
自然から見ると、人間同士の勝ち負けだとか、「評価される」なんてものは、ちっぽけな代償欲求に過ぎません。
一方で自然な欲求は、「足るを知る」ことができます。
この違いを理解することかなと。
そして自然な欲求を満たすには、さして多くのことは必要ありません。
自然に寝て、起きて、おいしく食べて、満足して、適度に運動して、価値観が分かる人たちとふれあって、喜び合って、それで幸せを味わえると分かります。
我慢して見返す必要もないし、誰よりも強くなる必要も、多くの人から称賛される必要もありません。
膨大な労力をかけて、社会でナンバーワンになる必要もありません。
すると、今までどんなに頑張って苦しんでも得られなかったものが、「自然な心地よさ」に従うことで、導かれるように簡単に得られるかもしれません。
私の中では、そういう感情システムも含めて、「天(自分軸)からの導き」のように感じています。
ということで今日は、我慢ではなく、「自然な心地よさ」に従う方がうまくいく理由を説明してみました。
今日はここまで~。