今日は論理のお話です。
「悪いことの反対は、あればあるほどいい」という論理から離れよう、というお話です。
自己肯定感がある人は、どうとらえるのか
とあるところで、こういうツイートを見かけたんですよ。
「自己肯定感がない人は、『私はできない』と考える。
自己肯定感がある人は、『私はできる』と考える。
自己肯定感が突き抜けたバケモノは、やる前から『どうしよう、成功しちゃうよ俺! お金持ちで人気者で引っ張りだこになるなんて、もう困っちゃうなぁ!』と考える」みたいな。
これ、自己肯定感がある人からすると、「なんか違うなぁ」と感じるんじゃないかと思います。
というのも、自己肯定感があったとしても、難しいことに対しては「できるかどうかは分からない」と感じるものです。
それに、やる前から「どうしよう、成功しちゃうよ俺!」と言うのは、自己肯定感というよりも、「うぬぼれ」と表現する方が適切に感じるわけで。
なぜこんな誤解が生まれるのか
だから本当に自己肯定感がある人の場合、もっと違う反応をするように思います。
それは、「できる!」と結果を限定するのではなく、「できるかどうかは分からないけど、やってみよう」と行動できるのが、自己肯定感のある人かなと。
そして、たとえ失敗したとしても、「うーん、うまくいかなかったな。なら仕方ない」と、自分の存在価値とは結びつけないことかなと思います。
じゃあなぜこんな誤解が生まれてしまうのか、ということです。
その原因が、「悪いことの反対は、あればあるほどいい」という論理じゃないかと思います。
そしてこの論理が分かると、「お金はあればあるほどいい」、「人脈はあればあるほどいい」みたいな「あるほどいい」という罠から離れられるように思います。
「悪いことの反対は、あればあるほどいい」の罠
劣等感を持つ人ほど、「悪いことや苦しいことの反対は、あればあるほどいい」と思い込みやすいように感じます。
というのも、今までそれが決定的に足りなかったので、渇望しすぎて、それを神聖視しすぎてしまうと。
だから、過去にお金で苦しんだ人ほど「お金はあればあるほどいい」と感じるし、劣等感で苦しんだ人ほど「自己肯定感はあればあるほどいい」と思ってしまうように感じます。
でも実際のところは、適度にあれば十分なんですよね。
業界一とか、日本一、世界一にならなくても、十分に幸せを味わえるわけです。
だいたい、もしそういうトップレベルの人しか幸せを味わえないならば、世の中はほとんどの人が不幸になるはずです。
でも、資産額がほどほどの人でも十分に幸せなこともあるし、人生では困難でもがきながらも充実している人もいるわけで。
すると、「あればあるほどいいという論理は、劣等感の裏返しだった」と分かるんじゃないかと思います。
つまり、「あればあるほどいい」という言葉を使うこと自体が、劣等感を持っている証だということです。
「自己肯定感」という言葉自体がこじれている
実のところ、私は「自己肯定感」という言葉そのものがこじれているし、この言葉を使いたくないんですよ。
だって、「自己肯定感」って言葉が、まさにその「悪いことを基準にした、反対側の言葉」じゃないですか。
「自分を肯定できなくて苦しい」という現象があって、「その反対側になれば、きっと幸せになれるはずだ」と思い込んでいるわけです。
だから、「自己肯定感は、あればあるほどいい」と思い込んでしまうように思います。
でも実際は、因果関係が違うんですよね。
以前(「自己肯定感という概念自体がこじれている、というお話」)も触れましたが、「自分を肯定できない」のは「結果」であって、「苦しみを生む原因」ではないと。
結果に対して何かをしようとしても、うまくいかないのは当然です。
本当に対処する必要があるのは、原因側なんですから。
どういう姿が理想なのか
これをもっと分かりやすくするならば、「どういう姿が理想なのか」を考えてみるといいでしょう。
例えば自分を受け入れて生きたい場合、私なりの言葉で言うなら、「自己肯定感が高い人」ではなくて、「自然に生きられている人」と言うのが適切かな、と感じます。
自然に生きられている人は、「私はできる!」なんて言わずに、「できるかどうかは分からないけど、やってみよう」と行動できる人かと思います。
「自己肯定感が高いほどいい」とか「あればあるほどいい」は、劣等感を基準にして、論理で生まれた状態です。
一方で、「自然に生きる」は、自然を基準にした発想です。
これなら、「あればあるほどいい」と「自然に生きる」との感覚の違い、何がおかしいのが感覚的に分かるんじゃないかと思います。
この両者をごっちゃにしないことですね。
「劣等感の反対が素晴らしい」ではない、ということです。
自然を基準に見てみましょうよ、と。
「自己肯定感が高い人は落ち込まない」という間違い
これが分からないと、間違った解釈をしてしまいます。
例えば多くの人が「自己肯定感が高い人は、一切落ち込まない」みたいな論理を信じてしまうように思います。
それは、「自分は落ち込んでばかりだから、これ以上落ち込みたくない」と感じて、「一切落ち込まない人が素晴らしい」という論理を作ってしまうのでしょう。
でも実際は、自己肯定感が高く、自然に生きている人でも、ダメなら普通に落ち込みますからね(笑
ある意味、「ダメだったときに、素直に落ち込めるから心理的に健康」だと言えるでしょう。
そもそも、落ち込むことも、泣き笑いも、ただの「感情を用いた、ストレスの発散システム」でしかありません。
自分の中にあるストレスを発散するために、泣いたり笑ったり、落ち込んだりするわけです。
その感情システムに、いいも悪いもありません。
ネガティブ側を受け入れない弊害
なのに、「ネガティブは悪いことだ」することが、そういう思い込みを作ってしまうように思います。
例えば、「自己肯定感が高い人は、一切笑わない」と言われると、「なんかおかしい」と分かりますよね。
だって、「面白いことには笑っていいじゃない。笑わないのは、感情を閉ざしているだけじゃないの?」と感じるからです。
なのに、同じように「自己肯定感が高い人は、一切泣かない、落ち込まない」と言われると、それを信じてしまうわけです。
本来なら、泣き笑いも、落ち込みも喜びも、同じ感情のストレス解消システムでしかないのに。
本来なら、「感動映画で泣いてもいいじゃない。ダメなら落ち込んでいいし、うまくいけば喜んでいいじゃない。泣かなかったり落ち込まないのは、感情を閉ざしているだけじゃないの?」と感じるものなのに。
それはきっと、「泣く、落ち込む」が社会的なネガティブ側だからでしょう。
「ネガティブは悪いことだ」とすることで、「ネガティブな状態は、なければないほどいい。その反対は、あればあるほどいい」と思い込んでしまうと。
だから、「自己肯定感が高い人は、一切落ち込まない」みたいな不自然な論理を信じてしまうんじゃないかと思います。
実際は「ネガティブ側も受け入れられるから、健康」なのに、「ポジティブ側があればあるほどいい」と間違って思い込んでしまうわけですね。
まとめ
なので苦しい場合、「悪いことの反対は、あればあるほどいい」という論理から離れてみるのもいいように思います。
論理だけで考えるのではなく、自然な立ち位置から見てみることですね。
言い換えると、「因果関係を間違って理解しているから、いくら頑張っても解決できない」ということです。
もし正しい因果関係ならば、原因をしっかりと対処すれば、それなりの短期間で効果が出るし、満足が得られるものです。
裏を返すと、「効果のない場所ばかりに時間をかけるから、いつまで経っても満たされない」とも言えるでしょう。
そのために、私が最近よく言う、「ネガティブ側を受け入れてみましょう」ということです。
因果関係をとらえなおして、違うアプローチを試してみるわけですね。
ポジティブ側(今までの常識的発想)を強化するのではなく、ネガティブ側(今までとは反対側の発想)に原因があるのではないか、ということです。
すると「原因はこっちだったのか!」と目からウロコ体験ができて、根本問題が見えたり、解決できる道が見つかるかもしれません。
ということで今日は、「悪いことの反対は、あればあるほどいい」という論理から離れよう、というお話でした。
今日はここまで~。