今日は精神的なお話です。
自己肯定感という概念自体がこじれている、というお話をしてみましょう。
あー、今日はだいぶ過激なことというか、異端視されるようなことを言いますので、ご注意ください。
自己肯定感が大好きな人は、この記事を読まない方がいいかと思います。
自己肯定感は、高めようとしなくていい
ちょっとした記事があったので、ご紹介。
「自己肯定感」をムリヤリ高めても「悩み」は消えない!心理カウンセラーが説く“大きな誤解”(マネー現代)
記事の内容は、「自己肯定感は高めようとしなくていい」という内容です。
「どちらがいい」ではなくて、「どちらでもいいよね」と言えるようになると、自然な状態に立ち返れる、というものです。
そういう「上昇がすべて」ではなくて、「上昇も下落も、ポジティブもネガティブも、陰も陽も認めると、自然でいられる」ということですね。
「自己肯定感」という概念自体がこじれている
まさにこれだと思うんですよ。
私たちは、「生き苦しい」と感じることがよくありますよね。
だから、今はやりの「自己肯定感を高めよう」ということをしてしまいがちなんですが。
でも、私の中では、そもそも「自己肯定感」という概念自体がこじれているように思います。
そしてこれが分かると、「自己肯定感を高めるのではなく、場を変える。もしくは認知に目を向ける」という発想ができて、別の解決手段が得られるように思います。
なぜ自己肯定感を高めても、根本的解決にならないのか
ちなみに「こじれ」というのは、私の中では「それを行っても根本的な解決にならないことを、根本原因だと思い込んで集中的に取り組んでしまうこと」だと定義しています。
なので、私の中では、「自己肯定感を高めようとしても、根本的な解決にはならない」ということです。
じゃあなぜ自己肯定感を高めても、根本的な解決にならないのか。
それが、「自己肯定感は、環境からの影響によって生まれるから」ですね。
考えてみると当然ですが、自己肯定感は自分の内側だけで完結するものではありません。
「周囲から受け入れられているか」という風に、「周囲」という外部要素があります。
すなわち、「周囲との関係や影響」を含めて考えないと、片手落ちなんですよね。
周囲から嫌われている場合、自己肯定感を高めても無意味
で、簡単に言うと、周囲から愛情を持たれて、接して欲しいように接してもらえていれば、「自己肯定感を上げよう」なんて考える必要はないんですよ。
周囲から好かれて、愛されていて、それが実感できれば、自己肯定感なんて自然に上がるんですから。
とても簡単な話ですよね(笑
裏を返すと、周囲から嫌われているのに、「自己肯定感を上げよう」なんて思うのは、ちょっとおかしいと分かります。
だって、好かれていないし、周囲への価値も作れていないのに、「私は好かれている」とか「私は価値がある」と思おうとしているんですから。
これって、とてもこじれている解決策ですよね。
「場を変える」というアプローチ
その場合、「場を変える」というアプローチが重要になると分かります。
例えばペンギンが熱帯地域で、どんなに「私は受け入れられている」と言っても、無理なんですよ。
だって、周囲から「お前は邪魔だ! お前みたいな贅肉で飛べない野郎は、無意味だ」と、排除されるし、実際に熱帯では苦しいだけです。
でも、ペンギンが南極大陸に移れば、そこでは「仲間だ! ようこそ南極へ!」と、喜ばれると。
そして、その「太って飛べない」という性質を、「太っているから冬でも暖かい、飛べないから魚を捕れる」と、利点として生かせると分かります。
すると、ペンギンが熱帯地域に居続けて、「私は好かれていると思う」なんて、アホらしいですよね。
熱帯地域で「自分を認めよう。自分に価値を感じよう。自分を信頼しよう」なんて言っても、無意味な努力になります。
周囲から好かれている場合、認知の問題になる
一方で、もし周囲から好かれているのに、それが実感できないという場合、それは認知の問題になります。
すなわち、問題は「相手の好意を、敵意や嫌悪だとゆがんでとらえる思考プロセス」が問題になります。
もしくは、「本当は好意でも何でもないことを、相手や周囲から『好意だと思わなきゃいけない』と誤認させられていること」が問題なわけです。
だから、「受け入れられているはずなのに、苦しい」みたいなことが起きると。
そしてそれは認知のゆがみが問題であって、私たちの自己肯定感が問題なのではありません。
私たちは、過去に何か出来事があることで、事実を別の形で認知するようになってしまったわけです。
認知がずれている例
例えば、「あなた、絵を描くのが好きだよね」と人から事実を指摘されると、青ざめる人がいます。
相手にとっては、「絵が好きなんだね、よかったね」と、「絵を楽しんでいること」を祝福しているわけです。
なのに、幼い頃から、親に「絵なんて描いてはならない。そんなことをするぐらいなら、こうしなさい」と、価値観を押しつけられたとしましょうか。
そして親に従わなければ、愛情を奪われたり、「もう育てない」と脅されたとします。
すると、大人になって「あなた、絵を描くのが好きだよね」と言われると、幼い頃からの習慣で勘違いしてしまうんですよ。
「それを続けると、お前を嫌いになる」というメッセージだと受け取ってしまうわけですね。
他の例で言うと、「私は頑張って成果を出さなきゃ、生きている価値はない」とか、「迷惑をかけてはいけない」なんてのも、明かな認知のゆがみです。
これも、幼い頃に親から脅迫されて、そう思い込むようになったんだろうと思います。
それは認知行動療法の領域になる
なら、それは「なぜそんな風に、曲解するようになったのか」という問題であって、「自己肯定感を高めれば解決する」という問題ではないと分かります。
自己肯定感のために、「自分を認めよう。自分に価値を感じよう。自分を信頼しよう」なーんて言っても、何も根本問題を解決しません。
だって、そんなことをしても、永遠に誤認は続くんですから。
それは、認知行動療法の領域です。
過去とか、自分の内面に目を向けて、「あ、こういう事実の誤認がある。これがきっかけで、こういう曲解をするようになったんだ」とすることで、解決できます。
なら、周囲から好かれている場合でも、本当に嫌われている場合でも、「自己肯定感を高めよう」というのは、解決策としてずれていると分かります。
嫌われている場合は場を変える必要があし、周囲から好かれている場合は認知の問題に手を入れればいいと。
だから、「自己肯定感という概念自体がこじれている」ということです。
まとめ
そんな風に、生き苦しさを持つ場合、「自己肯定感を高めよう」というのはあまり意味がないように思います。
もちろんそれは、短期的には効果があるでしょう。
ですが、それは短期を乗り切るためのものであって、長期的に解決したいなら、別の手段がいいかと思います。
で、その長期的な手段というのが、「場を変える」か「認知のゆがみを正す」ですね。
じゃあなぜそんな風に、「自己肯定感を高めよう」なんて概念が流行したのか、その理由もあるんですよ。
ただ、それを語ると長くなるので、それはまた後日にでも。
ということで今日は、自己肯定感という概念自体がこじれている、というお話でした。
今日はここまで~。