今日はちょっと、「競争」と「寛容さ」についてお話でもしてみましょうか。

最近思うようになったのが、「競争そのものは悪くない」ということですね。
「競争で負けること」イコール「劣っている」と結びつけることが、心理的にまずいんだということで。

競争について語る時に、よく引き合いに出されるのが「運動会で、手をつないで徒競走をさせる」というのがありますよね。
まぁこれは、ごくごく一部の怪奇現象を挙げているだけだと思いますが、似たような「競争で負けて、敗者になる」ことを通して「自分は劣っている」と思い込んでしまう人は、多いと思うんですよ。
実際にこういう「競争に負ける」イコール「劣っている」と結びつけてしまう考え方は、日本人のメンタリティでは多いかなと思ったりもします。

 

差が少なければ少ないほど、違いに不寛容になる

ちなみに、「差が少なければ少ないほど、『違い』に不寛容になる」という傾向があります。

例えば私は、米軍基地がすぐ近くにあるエリアで育って、「アメリカ人でかっ、怖っ!」みたいに感じながら育ったわけで。
そして大学時代は神戸で、神戸はほんと外国人が多いんですよ。
そういう環境で育つと、「言葉が通じない」は当然のこととして、考え方も違うし服装も違うし、髪の色も肌の色も違って当然だと思うようになるわけです。

例えば、米軍兵の特に陸軍とか海兵隊員って、アメリカのスラムで学校にも行かずに育った人が、半ば国家にだまされたような形で無理矢理兵隊にさせられた、みたいなこともあるようで。
なので、大人なのに、かけ算とかできない人も普通にいるわけです。
かけ算をする時は、指で同じ回数だけ足すっていうぐらいに。いやほんと、これは実話で。

そういう「人は、これぐらい違う」という、そういう知っている「振れ幅」が大きければ大きいほど、小さな違いなんてどうでもよくなるものですよね。

 

日本人は、差に不寛容になりやすい環境にいる

でも、日本人は、ほぼ単一民族国家でしょ。
日本に住んでいる人は、ほぼ日本人で、髪の毛は黒で、しゃべる言葉は日本語で、言葉は通じるのが当たり前で、学校に行っているのも当たり前。
そして、勉強は同じ学年で一斉にして、同じ学年の子たちと友達になり、一緒に遊ぶと。

こういう風に「差が感じられない」と、「差」に対して不寛容になるわけですね。
そして、「差を作ることは、悪いことだ」みたいな錯覚を起こしてしまうと。

でも、実際のところは、「負ける」イコール「劣っている」と結びつけることの方が、まずいわけです。
私たちが感じられる「差」は、大きければ大きいほど、寛容になれるんですよね。
差をなくせばなくすほど、不寛容になっていくんだと。

 

寛容になるために、「差」をつけよう……という提案

そこで私が提案するのは、「異学年、異世代、無差別徒競走」みたいなのがいいんじゃないかなと思います。
つまり、逆に差をつけまくって、勝負させると。

異学年で走らせたら、年長者が勝って当たり前ですよね。
なら、例えばそこで、「智恵を使って勝つのもあり」とかで、さらに違いを作るわけです。
すると、小さな子は、自転車を使って勝負するとか、そういうのもアリで(笑
他にも、複数人でチームを組んで、他の走者を妨害して自分は勝つ、みたいな「邪道(=クリエイティビティーのある方法)」にもOKを出すと。

だったら、体力がない子でも、智恵で勝てるようになるわけで。
すると、面白くなりそうでしょ(笑
大きな子は、勝って当たり前。
でも、そんな中でも、小さい子が大逆転劇を生む可能性もあるゲームルールを用意するわけです。

こんな風に「差」を大きくすると、「勝者をたたえる」よりも、「弱者を応援する」ようになるものなんですよ。
つまりこれは、「競争で負けること」イコール「劣っていること」を克服している……と言えますよね。

 

実際にあった、中学での思い出話

これに似たようなことが私が中学の頃にあって、体育祭で「教師選抜 vs. 生徒選抜」みたいなリレーをやったんですよ。

このときに、生徒選抜チームで足の速い子がいて、その子がアンカーで、敵もアンカーの体育教師をぶち抜いて逆転勝利した時とか、もう学校中が大興奮で、エキサイトしましたから。
それぐらい、「負けて当たり前の力の弱い者が、勝つ可能性がある」という競争は、面白いもので。

 

勝ち続けて、初めて優しさが生まれる

実際のところ、例えば小学校でも、車椅子の子とかと一緒に徒競走をさせればいいと思うんですよ。
すると、いつも徒競走でビリな子でも、自分がどれだけ恵まれているのか感じられると思いますから。

そして、そういう「勝って当たり前」な環境で勝ち続けて、初めて優しさが生まれるわけです。
だって、自分はしっかり走れるわけで、でも他の子はみんな車椅子。
すると、勝ち続けることに意味なんか感じられなくなりますよね。

そうして「勝ち続けて」初めて、優しさが分かるんですよ。

 

私自身が「勝ち続けた」時のお話

例えば私の場合、FPSにはまっていた頃、ゲームの種類によっては私は結構強かったんですよ。
そして、サーバ内でいつも一位になるわけで。

すると、みんなが悔しがると。
だったら、だんだんと「勝ち続ける」ことに意味を見いだせなくなったんですよ。
だって、自分が勝っても、誰も喜ばない。それって哀しいですよね。

FPSではよく「ワンサイドゲーム」といって、一方が圧倒的に一方をたたきのめすようなゲームになりやすいんですよ。
特にそのゲームではなりやすかったんですが、そういう時、私はあえて負けているチームにつくようにしたんですよ。
そしてみんなと力を合わせて、劣勢から戦って、抵抗していくと。

もちろんワンサイドゲームを一人でひっくり返せることなんてまれなので、負けることがほとんどなんですが、たまに大逆転できると、もうみんな最高に喜ぶんですよ。
そして、私がいつも負けチームに移動していて、その中でチームを何とか立て直そうとしているわけで。

すると、以前は「Ayaemo, Fuck!」みたいな罵声が多かったのが、急にぱったりとなくなったんですよ。
そして、「Ayaemo, nice game!」みたいな、そういうメッセージが急に増えて。

私はFPSで圧倒的に勝ち続けたら、「勝つ」というむなしさに気がついたんですよね。
そして優しさに気がついて、それをゲームで発揮するようになったら、勝っているチームにいるのに、わざわざ私と一緒にチーム変更をして、いつも負けチームに来るようなプレイヤーまで出てきたり。
それぐらい、信頼されていたんだろうな……と思ったり。

 

勝ち続けて初めて、「負ける」イコール「劣っている」を克服できる

そうすると、「負ける」は「劣っている」ことではなくなるんですよ。
逆に、「負けているところから、みんなで力を合わせて、奇跡的に大逆転勝利をする」というのが、10回に1~2回はあって、それが最高にエキサイティングで興奮できることに変わるんですよね。

つまり、その1~2回のために、楽しめるようになるわけです。

それと同じように、例えば一人だけ走れて、他が全員車椅子でも、もしその一人が勝ち続ければ、必ず優しさが芽生えるものなんですよね。
すると、その一人も「自分も車椅子で勝負する」と言い出すかもしれません。

これは、差を知ったから、優しさが出たということなんですよね。
差を狭めることではなくて、差を作ったから、「自分も車椅子で勝負する」となるわけで。
すると、その子が車椅子勝負で負けたとしても、「劣っている」とは誰も思わないでしょ。

 

五体不満足だった、乙武さんの例

「五体不満足」で有名な乙武(おとたけ)洋匡さんは、小学校の時に「オトちゃんルール」という独自のルールがあったんですよ。
それは、例えばドッジボールでも、乙武さんには何メートル離れてなきゃ投げちゃいけないとか、ワンバウンドさせないといけないとか、そういう工夫をして遊んでいたわけです。

これも、周囲が乙武さんに「勝ち続ける」からこそ、優しさが生まれたと。

 

近所の鬼ごっこの例

私が少し前に散歩していたら、10人ぐらいの子どもたちが鬼ごっこをしていたんですよ。
それはすごく異学年で、上は小学校3~4年ぐらい、下はよちよち歩きの3~4歳ぐらいの子もいて。
でも、その小学生の男の子は、鬼になった3~4歳ぐらいの女の子の前にわざと出て、走っているように見せかけて、「うわーっ、捕まったーっ!」と鬼になるわけです。
その3~4歳の子は、もうキャッキャとはしゃいで、お姉ちゃんのところによたよたと走って逃げていったりしてたんですよ。

これが、本当の優しさですよね。
どう考えても、3~4歳の女の子が、一番年長の男の子に鬼ごっこでかなうわけがないんですから。
でも、年齢差があるからこそ、「絶対に勝てる」と知っているからこそ、一番年長の男の子が「優しさ」を知ったと。

 

私が描く、最高の徒競走

そういうこともあって、私が思い描く最高の徒競走というのは、 「異学年、異世代、無差別徒競走」みたいなものですね。
六人が走るとすると、小学校で一年生から六年生までを一人ずつ選んで走らせます。
すると、明らかに六年生が有利で「勝ち続ける」ので、そこで初めてその六人で話し合って、ルールやハンディキャップを決めるわけです。

例えば六年生は後ろ向きで走るとか、二人三脚をするとか。
そして五年生は、足にひもをくくりつけて、歩幅を小さくするとか。

そういう風にハンディキャップをつけることで、ゲームとして面白くすると。
同時に年長者は優しさを知り、そして「ハンディキャップが大きければ大きいほど、勝った時は嬉しい」ものなんですよ。
年少者は全力で挑めるし、ルール次第では工夫もできて「智恵」で勝負できるので、これも面白いと。
そして全員が、「競争に負ける」イコール「劣っている」から解放されて、同時に競争を楽しむことができると。

こうすれば、競争そのものが面白くなりますよね。
まさに、徒競走作りで「ゲーム作り」の面白さを味わえるわけです。

 

まとめ

そんな風に、競争そのものは悪くないと思うんですよ。
「差」がない状況での競争が、人を不寛容にさせて、「劣っている」と結びつけるようにするわけで。

ということもあって、もし「人生に対して不寛容になっているなぁ」と感じた場合、「こんな人生もアリなのか!?」みたいな人とか、いろんなタイプの人を知っておくと、いいかなと思います。
すると、「こういう生き方もあるんだ」と生き方に対して寛容になれて、「こうでなきゃダメだ」とかいう苦しみも減るんじゃないかなと思ったりもします。

だったら、より柔軟に、自分が生きたい人生を実現できるんじゃないかなと思います。

 

ってことで、今日は「競争」と「寛容さ」について語ってみました。

今日のお話はここまでっ。

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