今日は、「他人の人生」を生きずに済んで、「自分の人生」を取り戻すための、一つの考え方を紹介してみましょうか。

今日の内容は、ちょっとスペシャルです。
何がスペシャルかというと、理論がスペシャルです。
久しぶりにいい論理で展開できたので、お楽しみくださいませ。(*´д`)

 

なぜ真面目な人は、自分の限界以上に無理をするのか

「真面目な人ほど、うつになりやすい」って言いますよね。
真面目な人は、「やりたくないな~」ということでも、「やらなきゃいけない」と思って実行します。
だから「頑張る」必要があって、「苦しいことでもしなきゃいけない」と思っていて、常に無理をしている状態です。

ひどい人になると、風邪を引いても「会社に行かなきゃ」とか「あれをしなきゃ」と思っているほどで。
これは、自分の命や健康よりも、経済活動や、他の作業の方を重視しているってことですよね。

でも、「いい加減」な人は、やりたくないことは、適度に手を抜くわけです。
嘘ついて有給取って遊んだりして、自分のストレス度を下げて、自分にとってのベストパフォーマンスの度合いが分かっているわけです。

なら、なぜ真面目な人は、自分の限界以上に無理をしてしまうのか。

 

真面目な人は、「他人の人生」を生きている

「常に無理をしてしまう」という人は、言い換えると、「他人の人生を生きている」と言えます。

先日も触れましたが、勝負所では「頑張る(=無理をする)」は、必要なことです。
でも、それ以上に頑張るのは、「自分の幸せをそっちのけで、他人の幸せのために生きている」と言えます。

こう言うと、「他人の幸せのために生きるのが、何が悪いの?」と思うことでしょう。
でも実は、ここに対する考え方で、大きな間違いがあるわけです。
そして、これは私たちに植え付けられた、一つの洗脳でもあるわけですね。

結論から言うと、「私たちは、他人を幸せにすることなどできない」ということです。

言い換えると、「私たちは、自分自身の幸せしか作れない」とも言えますし、「他人に幸せにしてもらうことなどできない」とも言えるでしょう。

このメカニズムを、今回は説明してみましょうか。

 

「自分が頑張れば、他人が幸せになる」という間違った思い込み

先に説明しましたが、真面目な人ほど、頑張って無理をします。
では、何のためかというと、他の人のためですよね。

例えば、親の期待があるかもしれません。
「よい大学に行って、よい会社に入って、安定した職業に就いて欲しい。だからいい成績を取って欲しい」みたいな期待があるわけです。
すると、真面目な子ほど、社会に出ても全く役に立たないような勉強で、しかも自分にとって大嫌いな勉強でも、「頑張って」勉強するようになるわけです。

それは、親を喜ばせたいからですよね。
親の期待に応えたいわけです。
そして、自分を受け入れて欲しいわけです。

同じように、家族や親類、会社やお客さんなど、周囲の人たちの期待もあるでしょう。
なぜ頑張るのかというと、みんなに喜んで欲しいから、頑張るわけですよね。

いい成績を取ったら喜んでもらえる。親の面倒を見たら、喜んでもらえる。会社でいい成果を出したら、上司も家族も喜んでもらえる。作品を多く出したら、お客さんに喜んでもらえる。
そういう風に、私たちは生まれてきてからずっと、「周囲の価値観」を植え付けられてきたわけです。

そこには、「自分が頑張ることで、他人を幸せにできる」という思い込みがあるわけですね。

そして、ここに最大の問題があるわけです。

 

自分の幸せは、自分で決められる

ここで、立場を逆にして見てみましょう。

私たちの両親が、頭ごなしに「貴方の幸せは、こういう形ですよ。貴方はこの小説を読んだり、この音楽を聴いて、このお遊戯で遊べば、幸せになれますよ。この学校に行きなさい。そしてこの人と結婚して、朝はこういう暮らしをして、昼はこう、夜はこうして生きていきなさい」とか言われたらどうでしょう。
そんなの、嫌ですよね。

「自分の幸せぐらい、自分で決めさせろや!」と言いたくなるものですよね。

親がどんなに「これが幸せ」と思っていても、子にとっての「幸せの形」というのは、全く違うものですよね。
そんな風に幸せを押しつけられても、面白くも何ともないですよね。

なら、視点をさらに反転して、元に戻してみましょう。

私たちが、「頑張って」いる、それは何のため?

他人に喜んでもらうこと、すなわち「他人を幸せにすること」ですよね。

それって、「貴方(親や周囲の人)が幸せになるのは、私がこうしたら幸せになりますよ。だから私が用意したこれを味わって、生きてゆきなさい」と言っているのと同じことになるわけです。

つまり、私たちが「頑張って誰かのためになる」というのは、「自分が勝手に思い込んでいる、相手にとっての幸せの形」を相手に押しつけているわけです。
相手にとっては、まさに「自分の幸せぐらい、自分で決めさせてよ!」と言いたくなるものですよね。

 

人は、誰でも自力で簡単に幸せになれる

そして、もう一つ重要なことがあります。
それが、「人は自力で幸せになれる」ということを知ることです。

貴方がその人のために尽くさなくても、その人は十分に自力で最高の幸せを得られる、ということです。

いつもの耳タコフレーズを使いますが、「幸せになるのは簡単で、あるものを数えればいい。不幸になるのは簡単で、ないものを数えればいい」わけです。

例えば、貴方の親が、貴方に「いい大学に行きなさい」とか、「こういう業種に就職しなさい」、「早く結婚しなさい」、「孫の顔を早く見せなさい」、「私たちの介護をしなさい」とか言ったとしましょう。

でも、期待に応えられず、相手を幸せにできなかった。
だから自分は、もっと頑張らなきゃいけない。

それこそが間違いの元だと気づくことです。

 

「自分がこうしなければ、親や周囲の人は幸せになれない」は錯覚

考えてもみてくださいよ。
幸せになるには、あるものを数えればいいだけなんですから。

例えば、今日食べるものがありますよね。
世の中には、北朝鮮みたいに、食べ物がろくにない場所だってあるんですから。
「今日食べ物がある」、これって最高に恵まれたことですよね。

他にも、アフリカ内陸国では、平均寿命が30代の国だってあるんですよ。
親が50歳以上生きることができた。それだけでとても恵まれていますよね。

日本は世界でもトップクラスの豊かな国で、安全な国なわけです。
アフリカのように内戦もなく、難民として逃げることもなく、安心して水を飲めて、食べられるわけで。
しかも、家に住んでいたり、両足が動いて歩くことだってできるわけです。
歩けなかったとしても、車椅子を買える豊かさがあるわけで。

世の中には、そういうのがない人は、数多いるわけです。
そういうのを数え上げていくだけで、人は簡単に幸せになれるんですよ。

つまり、貴方が親や周囲の人のために頑張らなくても、周囲の人たちは、自力で簡単に幸せになれるわけです。

「周囲の人は、自分が頑張らなくても、幸せになれるんだ」と許すことです。
「自分がこうしなければ、親や周囲の人は幸せになれない」というのは、完全な錯覚です

 

幸せかどうかは、その本人が選んでいる

でも私たちは、大学に落ちたり、いい成績が取れなかったり、周囲が認めるような、華々しい職種に就けなかったり、成果を残せなかったり、まだパートナーが見つからなかったり、介護とかできなかったりするわけです。
そして、親や周囲の期待に応えられずにいたとしましょう。

それで、親は「この親不孝者!」と言うかもしれません。

そうじゃないんですよ。
親は、自力で幸せになれるわけです。

だから、「親不孝者!」ではなくて、「親そのものが不幸者!」なわけです(笑

親は、自分で幸せか不幸かを選ぶ自由があります。
そして親は「自分の意志で」不幸であることを選んでいるわけです。

本人が不幸でいるのが、本人の希望であり、それが本人にとっての幸せなのです。
だから、貴方が無理にその人を変える必要もありませんし、変えようとすることは「幸せの押しつけ」ですし、実際に変えることなどできないと理解することです。

そして、貴方は「親や周囲の期待に応えられなかった」のではありません。
貴方は、「親や周囲からの『押しつけの幸せ』に応えられなかった」のです。
それのどこを恥じる必要があるでしょうか。

 

どんな状態でも、本人に意思があれば、幸せを感じられる

私の死んだばーちゃんは、死ぬ前によくこう言っていたんですよ。
「長生きさせてもらったけど、私の六人もいる子どもたちや、その孫たちは、誰一人として私より先に死ななかった。それだけで私は、最高の幸せ者」と。

まさに、これだけで「最高の幸せ」を味わえるんですから。
このばーちゃんは、「幸せ者」ですよね。

貴方が「世の中に認められる業績」なんか残さなくても、親は自力で最高の幸せを味わえます
「子どもを育てられてよかった」とか、「子どもを産めてよかった」とか、そういう次元でも十分に幸せを味わえます。

「家にいて寂しい」のであれば、親は自力で趣味の会とか開いて、近所のおじさんおばさんを集めて、面白いことをしたりできるわけです。
趣味や何かの集まりを通して、子どものことなんかさっぱり忘れて仲間内で大爆笑をすることだってできるんですから。
言葉がしゃべれなくても、文通とか、工夫次第でいろんな楽しみを味わえて、幸せを感じられるものです。

親や周囲の人は、自分の力で、十分に最高の幸せを味わえます。

 

私たちは、他人を幸せにすることなどできない

私たちが頑張れば、周囲の人を幸せにできるというのは、幻想です

というか、「私たちがこうすることで、他の人を幸せにできる」などというのは、思い上がりもいいところです。
それは、「幸せの押しつけ」でしかありません。

周囲の人は、「自分の幸せは、自分で決めることができる」こと、そして「自力で十分に幸せになれる」と認めてあげることです。
そして、自力で幸せに「させてあげる」のを、許してあげることです。
つまり、貴方が「他の人のために頑張らない」ことは、その人に「自力で幸せにさせてあげる自由を与える」ことにもなるわけです。

私たちにできることは、自分自身を精一杯幸せにすることだけです。

そして「自分にとって楽しい」ことを通して、「他の人に喜んでもらう」ようにすればいいわけです。

人は、自分らしく生きていれば、悪いことはしなくなります。
逆に、自分らしく生きれば生きるほど、人に喜んでもらう生き方ができます。
自分らしく生きないから、人から奪ったり、人を見下したりと、悪いことをするようになるわけです。(この原理は、またいつかお話します)

 

まとめ:「他人を幸せにする」という呪縛から解放されると、自由になれる

他人の人生を生きる必要はありません。

私たちは、自分の願いを最大限に生きていいんですよ。
自分のために、わがままに生きていいわけです。

だから、親や周囲の「押しつけの幸せ」に対して、頑張ったり、苦しむ必要はありません。
貴方は、自分のやりたいことを精一杯やって、お仕着せではなく、自分にとっての「最高の幸せ」を得ればいいんです。

そうすれば、「自分自身の人生」を取り戻すことができるでしょう。

 

ということで、今日は「自分の人生を取り戻す考え方」について説明してみました。

今日のお話はここまで!

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