さて、今日はクリスマスということで、何かキリスト教っぽいお説教でもしてみますかね。

今日は、「神は愛なり」というお話をしてみましょうか。
時々耳にする「神は愛なり」って、何やねん……みたいな。

 

その前に、「神」とは何かを知っておく必要があるでしょう。

日本人の場合、「神」は八百万の神々を指しますよね。
八百万の神様でも、悩んだり考えたり、間違ったりするわけです。

でも西洋で言う「神」は、「この世界で唯一の絶対法則」みたいな感じだと思えばいいでしょう。

こんな言い方が分かりやすいかもしれません。

例えば「この世界に最も大きなもの」があったとしましょう。
私たちの体よりも大きくて、地球よりも、太陽系よりも、宇宙よりもさらに大きい、「何か分からないけど最も大きな、たった一つの存在」があると仮定します。

それは、「この世界で唯一の絶対法則」ですよね。
だって、世界が全てその一つのものだと言えるんですから。

同じように、「この世界で最も小さなもの」を仮定してみましょう。
細胞よりも、分子よりも、原子よりも、クオークよりも小さい、「何か分からないけど最も小さな、たった一つの究極の素粒子」があったとします。

それも、「この世界で唯一の絶対法則」ですよね。
というのも、全てのものは、そのたった一つの素粒子で構成されているわけですから。

すると、世界で最も大きなものと、世界で最も小さなものは、同一のものになりますよね。
それらは共に「この世界で唯一の絶対法則」なんですから。

ではここで、それを「神」と呼びましょう……ということです。

つまり、私たちの体も神の一部で構成されていますし、地球も、宇宙も、何もかもが「神」で構成されているんだと。

言い換えると、「宇宙」と言ってもいいでしょう。

私たちの体も、宇宙の一部ですよね。

もちろん、「この世界で唯一の絶対法則」とも言えます。
私たちの体は、「この世界で唯一の絶対法則の一部で構成されている」と。

同じように、「愛」と表現してもいい……ということです。

私たちは全て、愛で構成されているんだと。

だから、神は愛であり、愛は神であるということです。

 

余談ですが、なぜ多くの原始的な宗教が偶像崇拝を否定するのかというと、偶像を作ってしまうと、「私たち自身が神で構成されている」ということが伝わらなくなるからですね。
仏教学者の梅原猛氏の表現を借りて言うと、「何か他の偶像に祈ってしまうと、『彼』に祈ってしまい、『私たち』に祈ることではなくなってしまう」、「それは私たち自身が神と同一であることを否定してしまうこと」になるわけです。

本当に重要なのは、「私たち自身が既に神を内包しているんだ」と気づくことなんですよね。

それではキリスト教のお話に戻りましょう。

なぜ私たちの中に神があるのに、人は迷い、悩み、苦しむのか。

それは、人のちっぽけな評価基準で物事を考えているから……ということになります。

私たち一人一人の中に、神であり愛である、最高の法則があるわけです。
それに全てを委ねてしまいなさい……ということですね。

法則から外れた時に、苦しみが生まれるわけです。

簡単に言うと、「もうどうにでもなーれ」の境地になりなさい、ということです(笑

生きるだけ生きればいいわけです。
それ以上生きられないのに生き続けようとするから悩み、苦しむわけです。

死ぬときは死ねばいいんです。
それなのに「死にたくない」と思うから、悩み、苦しむわけです。

病むときは病めばいいんです。
それなのに「元気でいたい」と思うから、悩み、苦しむわけです。

その手綱を手放して、全て神に任せなさいということですね。

だから、「神よ、貴方の御心のままになさってください」と祈るわけです。

自分が人生を設計したとしても、「生死は与えられるもの」であるということです。
どんなに生きることを設計しようが、死ぬときは死ぬわけですね。

もちろん、自分でできることは、自分が最大限力を尽くして生きようとすることが大切でしょう。

でも、悩みの本質というのは、「自力ではどうしようもできないから悩んでいる」んですよね。
だって、自力で変えられることであれば、悩まず実行してますよね(笑
それが、「悩み苦しむ」の本質なわけです。

私が好きな言葉に、「人事を尽くして天命を待つ」というのがありますが、まさにそれと同じことです。

やれることをやったら、後は天命を待ちなさい……ということですね。

 

生死というものは、私たちが理解しうる以上のものです。

同時に、「世界の唯一の法則」というのも、私たちが理解しうる以上のものなわけです。

「唯一の絶対法則があるなら、なぜ私たちは幸せではないの?」と思う人もいるかもしれません。
その場合は、「唯一の絶対法則があったとして、なぜ貴方をわざわざ幸せにしなければならないの?」と思うといいでしょう。

法則は法則であって、「幸せ」は浅はかな人間が作り出したレベルの小さな概念であるということです。

ただあるのは、「法則に従えば楽に(幸せに)なり、法則に外れれば苦しみが来る」ということですね。

だから、「祈る人だけ助けるとか、ちっちゃい神様だな。だから俺はそんな神は信じない」とか言う人がいますが、神はそういうものなんですよ。
神は、祈って法則に乗る人だけに安らぎを与える存在です。
そして祈らずに法則に外れるから、苦しむわけです。

そういう「神」であり「愛」である存在によって、祈る人も祈らない人も含めて、私たちが構成されている……ということですね。

幸せになりたいのであれば、法則に従えばいいわけです。
幸せになりたくないのであれば、法則から外れればいいわけです。
どちらを選ぶのかは、おのおの個人の手に委ねられているわけですね。
それが「法則」の一つなわけです。

だから、「私たちは既に神に愛されている、それに気づくことが大切なんだ」とも表現されますし、「祈りましょう。全てを神の手に委ねましょう」とも表現されると。

 

そう考えると、「神様がいるのなら、なぜこの世界は、私は不幸なのか」とか「神様がいるのなら、なぜ苦しみがあるのか」という一見矛盾のように見えるものも、すっきり解決できますよね。

そして、神と愛とを認識して、それに委ねることで、私たちは心の平安を得る……ということです。

安らぎが欲しいのに苦しんでいる場合、「自分がわざわざ苦しい方を選んでいる」からです。
それに気がつくことです。
そして、今までのやり方を変えて、法則に従うような行動をすればよいわけです。

苦しんでいる場合、「もうどうにでもなーれ!」と叫んでみるといいでしょう。

すると、実は多くの場合、「どうにでもなってしまう」ものなんですよね。

学校に行きたくない、会社に行きたくない、あの人と会いたくない……なら「どうにでもなーれ」と唱えるわけです。
すると、「自分の責任」を手放して、「神の責任」にできて、責任をなすりつけられるわけです。

ここは重要なので繰り返しますが、「自分の責任を捨てて、神の責任にしなさい」ということです。

「自己責任を捨てたら無責任になって、自暴自棄になったり、反社会的になってやりたい放題するんじゃないの?」と思う人もいるかもしれませんが、それも大丈夫です。

——なぜなら、私たち自身が神で構成されているから。

「神に責任をなすりつける」ということは、「神の存在を受け入れている」ということでもあるのですから。

すなわち、私たちの内側にある「神」を信じなさい……それは、「私たち自身を信じなさい」と同義なのです。

 

だからこそ、神に任せることが大切になるわけですね。

責任をなすりつけたら、自由に行動できるようになりますよね。

それが究極的に言う「自由」であり、巡って人間レベルの概念で言う「自己責任」になるわけです。

神を受け入れることは、自由意志を手に入れることでもあり、完全なる自己責任を受け入れることでもあるのです。

そうすることで、悩みや苦しみを捨てて、自由意志で生きながら、幸せに生きることができるようになる……ということです。

 

私たちの中に、神であり愛であるものがあるんだと。

そして、この世界で命を与えられていることを、「祝福されている」と言います。

私たちは、この世界にいることを許されているのだと。

人や社会、周囲の人たちが何を言おうとも、生きていることを許されている……その許しを、祝福を、この日に感じましょうということです。

自分の小さな器で支えきれない悩みや苦しみは、神の手に委ねなさい……そうすることで、安らぎも平穏も、幸せも、そして自由も自己責任も受け入れられるということです。

では、聖なる日に、祝福を味わいましょう。
そして、せめてこの日だけは、安らかなる一日を過ごしましょう。

メリークリスマス。(*´ω`)ノ

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