今日は、お正月ということで、神道のお話でもしてみましょうか。

神道での、神様との付き合い方についてお話してみましょう。

去年も似たようなことを似たようなタイトルで語ってますが、まぁ気にしない!(笑

 

神道は、何をしてもOKな世界観

まぁこのページでも何度も触れていますが、神道は宗教に入れていいのかどうかで悩むところですよね。

というのも、神道にはこれといった教えや教義がないわけです。

宗教的なものと言えば、日本書紀と古事記ですが、これは宗教というよりかは「神話」ですからね。

神話は宗教なのかと言うと、微妙なところがありますよね。

それぐらい、神道って自由で、「これがいい」と決められないものなんですよ。

 

例えば神棚にしても、神棚って、どうセッティングしてもいいんですよ。

何を置けばいいのかとか、どこに置けばいいのかとか、全くの自由だったりします。

まぁ高い場所がいいとか、南向きがいいとかありますが、それは厳密に言うと風水的なことで、神道ではないと。

なので、基本は「お好きにどうぞ」の世界なんですよ。

 

そういうこともあって、二礼二拍手一礼とか、どうでもいいんですよ。

これは戦後すぐに、神社庁(神社を管理するお役所)が勝手に作ったことです。

そもそも、柏手(かしわで)っていうのは、邪気払いのためにするものですからね。

「パン」という手を叩いた音って、風鈴や鐘の音と同じで、凛とした空気が出ますよね。

それが、邪気を払うというイメージにつながっているわけです。

だから、神主さんが、白いわしゃわしゃ(なんと言うのか忘れましたが(笑))でお祓いをしてくれていれば、それで十分邪気が取れるから、どうでもいいんですよ。

 

春日大社ではいろんな儀式を大小含めて年がら年中やってますが、ほぼ全てにおいて、厳密な儀式の手順と、祝詞(のりと)の文言が決められています。

これはこれで、「その人たちがそうしたければ、そうしてもいい」ってことです。

その祝詞(のりと)っていうのは、まぁ言うなれば呪文のようなものですが、それらは全部「やまとことば」で言うんですよ。

「やまとことば」ってのは、中国大陸から漢字が入る前に日本で使われていた言葉ですね。

ほら、漢字でも、「木」は「き」と「モク」っていう読み方があるじゃないですか。

なんでわざわざ全く別の二種類があるのかというと、元々の日本の言葉と、中国大陸の言葉を合わせちゃったから、こんなことになったんですよ。

で、春日大社のような伝統的な神社では、古い神がいるので、まぁ古い言葉、古い伝統的な儀式を使いましょう……ってなノリなわけです。

でも、それらは神主たちが好きでそうやっているから、私たちはどうやっても別にいいわけです。

 

そんな風に、神道では自由に、自分の好きなようにお参りをすればいいんですよ。

まぁ、まつっている神様を敬う気持ちが大切なだけで。

 

神道の「神様」感

で、その神様っていうのも、様々ですよね。

由緒ある神社では、古事記や日本書紀に出てくるような神様をまつっていますが、小さい神社では、ほんとしょーもないものでも神様になるわけです。

まあ、八百万(やおよろず)なので、どんなものも神様になっちゃうわけです。

例えば私の近所には、牛岩神社と言って、「この石、牛の頭の形をしてるやん」っていうだけで、神社ができてますから(笑

「それだけかよ!」みたいなノリでしょ(笑

他にも、うちの近所には、菅原神社といって、菅原道真(すがわらのみちざね)が太宰府に行く途中に滞留したというので、「めでたい。神社を建てよう」となった神社がありますから。

これって、「出来事」に対して「ありがたい」と、神社を建ててるんですよ。

もう何でもありでしょ(笑

 

で、その根底にあるのは、「自分よりも大きな何か」を敬う気持ちなんですよね。

西洋風の考え方では、人間が万物の霊長ですよね。

でも、シャーマニックな世界では、人間は多くある生物のうちのひとつでしかないんですよ。

大きな滝とか、樹齢何百年と生きた木とか、静かな池とか、山とか、岩のような無機質ですら、「自分よりも大いなる何か」に含まれるわけです。

そういう「自分でもはかり知ることができない、大いなる世界」に触れた時に、人は自分の小ささを知って、「生かされている」ことを知るんですよ。

すると、「ありがたい」と自然と感じられますよね。

生きていることは当たり前ではなくて、とても貴重で、素晴らしいことなんだと。

 

八百万(やおよろず)の世界観では、そういう「調和」が重視されるんですよね。

西洋風の一神教の世界では、「神は、人間が全ての生命を支配するように作った」ですから。

全く発想が違うでしょ。

だから、八百万(やおよろず)の世界観では、小さな生命にも敬うことを忘れないわけです。

西洋だと簡単に奴隷にしちゃうところを、力のない子どもですら、一人の人間として大切に扱うと。

 

まとめ

そんな風に、そういういいものを、私たちは自然に持っている、ということですね。

世界中の人からは、こういう感覚は珍しがられるものですから。

だいぶそういう感覚は薄れてきてはいますが、お正月ぐらいには、そういうことに思いをはせてもいいんじゃないかなと思ったりもします。

 

ということで、今日はお正月ということで、今年も神道のお話でもしてみました。

今日はここまで~。

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