今日は、孤独についてお話してみましょうか。
孤独とは、付き合い方次第
「寂しい」とか、「ひとりぼっち」って感じることって、ありますよね。
特に休日とかで、自分は特に用事がなくて一人なのに、周囲ではわいわい賑やかな集団を見たり、楽しく遊んでいる人たちを見ると、なんだかとても複雑な気分になったりするものです。
私も大学時代とか、楽しそうに騒いでいる人たちがいると、すっごいうらやましかったものです。
「あんな風に騒いでいたら、きっと楽しいんだろうな」って感じるものですよね。
でも、私が成長するにつれて、孤独とは付き合い方次第だなと思うようになりました。
騒ぐのも一つの楽しみですが、孤独も一つの楽しみ方、それは「楽しむもの」なんだ、ということです。
だいたい、「ひとりきりの時間」って、必要だと思うんですよ。
それはすなわち、自分の内面を見る時間ですね。
私は多くの時間、内面を見つめることに費やしてきましたが、それはやっぱり自分を知ることにつながりましたから。
外の世界や他の人と同じように、内なる世界も深くて、広いんですよ。
そしてその世界を知れば知るほど、味わいがあって、世界を知って、豊かになると。
例えば独りで海沿いに座って海を眺める時とか、そういう時間って大切だと思うんですよ。
そんな風に「自然と自分だけ」になると、余計な鎧というか、皮みたいなものが、ぽろり、ぽろりと一つずつ落ちてゆくわけです。
すると、ありのままの自分が出てくるんですよ。
「ああ、自分って、こういう状態だったんだ」みたいな。
そうして本当の自分に立ち戻って、自分を思い出し、自分らしくなれると。
それは、賑やかにしている時には得られないものなんですよね。
人は、社会の中よりも、自然の中で生きている
人は、人間社会で生きる前に、自然の中で生きていることを思い出す方がいいと思うんですよ。
そういう場合、「独りになる」って、とても大切なことなんですよね。
仕事に追われる。
人間関係に追われる。
将来のため、夢のため、生活のため……
いろんなものに追われている。
そんな忙しい毎日の中で、今日の青空に浮かんだ雲の形に気づくこともなく、足下の黒いアスファルトばかりを見ている。
人が作ったものばかりを見ている。
そんな中で生きていると、自分が誰なのかすら分からなくなってくるものです。
というか、それすら気づく余裕がなくなるんですよね。
「自分が生きている」ということすら気づかずに、毎日を送っていく。
心のどこかで、「生きている実感を味わいたい」という欲求を抑えつけて、いつしかそれすら忘れて、「やるべきこと」の波にのまれてゆく。
気がついたら老人になっていて、死を目前にして、ようやく自分が何をしていたのかに気づくんですよ。
多くの場合、それは後悔になるんじゃないかなと思います。
みんなと騒いでも、孤独は埋まらない
そして思うに、「寂しいことは悪いことだ」という解釈そのものが、おかしいんじゃないかなとも感じるようになります。
おそらく、「人が作ったもの」ばかりに囲まれていると、「寂しいのが悪い」と感じるようになるんじゃないかと。
だから、他の人が騒いでいるのをうらやんだり、そして「自分もみんなと騒げば、楽しくなる」と思ってしまうんじゃないかと思います。
でも、それって幻想なんですよね。
どんなに人と騒いでも、それは刹那的なもので、憂さ晴らしと大差ないんですよ。
私自身、過去に何度も何度もそうやって騒いで寂しさを埋めようとしたんですが、それでは孤独は埋まりませんでしたから。
本当に必要なのは、「人が作ったもの」の中から出ることかなと思います。
自然の中にいると、「寂しい」は悪い感情とは思えませんからね。
むしろ、「寂しい」は「暖かい」という感覚になります。
「優しくなれる感情」というものですかね。
「あの人に、もっと優しくしよう」と、そう思える感覚です。
そこには、負の感情は入ってこないんですよ。
まとめ
だから、孤独というのは、付き合い方次第かなと思います。
孤独になるなら、自然に触れてみましょうと。
すると、私が言っているこの感覚が分かるかなと思います。
田舎に住んでいる人なら、これ、よく分かるでしょ(笑
すると、「孤独って、悪いものじゃないんだな」と分かるようになります。
そして独りの時間も楽しめて、それがさらに、他の人と一緒にいる時間を充実させることにもなるんですよね。
そういう「孤独の味わい方」も、いいんじゃないでしょうか。
ということで、今日は孤独との付き合い方についてお話してみました。
今日はここまで~。