今日はちょっと、変なお話でもしてみましょうか。

題して「なぜ日本の妖怪は絶滅したのか」です。

もう日常的に「妖怪」とか言わなくなったですよね。
日常的に触れてるのは、妖怪の漫画を書いている漫画家さんぐらいのもので(笑

つまり、言い換えるとそれは「妖怪はほぼ絶滅した」と表現できるわけで。

なら、なぜ日本の妖怪は絶滅したのか、その歴史と理由を説明してみましょう。

 

ちょっと話は変わりますが、これは日本と世界的な「民主主義」のスタイルの違いによって起こっていると考えると分かりやすいかと思います。

民主主義ってのは、「みんなで話し合って決める」ということですね。

でも、この「みんなで話し合って決める」のは、欧米と日本とではスタイルが全く違うんですよ。

欧米の「みんなで話し合う」ってのは、元々は一神教的な考え方から来ています。
つまり、「世の中に究極の理論があり、それに近い方が正しい」という考え方ですね。
言い換えると、「議論を戦わせて、より普遍的などちらか一方を選ぶ」というスタイルです。

例えば古代ギリシャのアテネでは、弁論術が盛んでした。
これは、議論形式で意見を戦わせて、勝敗がつくものだったんですよ。
そして、例えばデモステネスみたく「弁論の英雄」まで出てくるような、「勝ち負けがはっきりつくもの」でした。

欧米は元々が狩猟民族なので、「勝ったもの(強い者)が奪い、支配する」というスタイルだったんですよね。
だから奴隷とかも当たり前のように使っていたわけで。

これを、別の言い方では「男性原理の社会」とも言えます。
勝った方が奪い、支配するとかいうのは、男性的な考え方ですよね。

 

でも一方で、日本は「女性原理の社会」と言えるでしょう。

日本は元々が八百万(やおよろず)の神々がいるわけです。
それは、世の中にはたくさん神様がいて、でも完全に正しい神様なんていない世界なんですよ。
間違える神様もいれば、しょーもない神様もいるわけで。

なので、日本の議論というのは、「みんなで相談し合って、全員が納得できるような妥協点を見いだす」というスタイルだったりします。
例えば私たちだって、「お前はこういうメリットがあるんだから、これぐらい我慢してくれよ」とか、「こちらはこれを譲歩しますから、こちらはちょっと何とかしてくださいよ」みたいな説得をすることがありますよね。

つまり、何か問題が起こったときとかは、日本的な話し合い方では「みんなが少しずつ、同じ量ぐらいに我慢を分け合って、みんなでうまくやっていこう」っていうスタイルなんですよ。

これは「誰が偉いわけでもない。みんな平等」という考え方で、勝ち負けを作らないわけです。
不満があっても、みんなが別々に我慢しているところがあって、似たような我慢量なら受け入れる、ということです。
だから、女性的でもあると言えるんですが。

例えば妖怪が里山に住んでいて、人間がブルドーザーとかで妖怪の領域まで侵入してきたとしましょうか。
そこに住んでいた妖怪たちは、住む場所を失ってしまったと。
すると、その領域をとりまとめている妖怪の村の村長にでもお願いして、話し合いの場を開いてもらうわけです。
「私たちはあの場所を失ってしまいました。何とかなりませんか」と。

すると、村にいる妖怪たちがわらわらと集まって、あーだこーだと話し合うわけですね。
「お前のあそこの土地が余ってただろ」とか、「もっと山側に未開の土地があったよな」とか。
で、「あの土地を切り開くとするか」と村でも一番立派な姿をした村長が言ったとすると、小さな妖怪が「だめです! あそこを追われたら、私たちが生きていけなくなります!」と言ったりするんですよ。

すると、村長は「そうか……むぅ」と考え込むわけです。

ここで大切なのが、村長はすっごい立派で、力もあって、知恵もある、そんな偉大な妖怪なんですよ。
で、「困ります!」と言った妖怪は小さくて、力もなくて、知恵もない、取るに足らない妖怪なんですよね。
村長が「うるさい」と言ってばちんと叩けば、その小さな妖怪なんて一瞬で死んでしまうぐらいの力量差もあるのに、ですよ。

それなのに、村長や他の妖怪たちは、その小さな妖怪の存在や意見をも尊重するわけです。
つまり、「村長と小さな妖怪の命は、同等のもの」、「大人も子どもも、同等の命」、「力の差があっても、命は同等」みたいな根底思想があるんですよ。
奴隷を平然と使いまくっていた西洋とは全然違う考え方でしょ。

で、「ならお前は、あの場所に移り住んでもらえないだろうか。その上で、その土地の持ち主には迷惑をかけるから、みんなで少しずつ彼にお供え物でもするってのはどうだろう?」という風になって、みんなが「異議なし」となるわけです。
そして、みんなが納得すると。

これは、「全員が少しずつ我慢する」というスタイルですよね。
というのも、実際は「里山を追われた妖怪」しか損を被っていないわけなんですが、その妖怪はコミュニティ内の人だから、その誰か一人が困ったら、みんなが損害を分かち合っているんですから。

元をたどれば、これは日本は島国で農耕民族だったからこうなったと言えるでしょう。
島国で農耕をやっていると、「奪ってくる相手」がいませんよね。
「全員が身内」という状況では戦っても発展はなくて、逆に「みんなが少しずつ我慢する」方が、戦わずに済んで、そして全員が納得できるわけです。

でも、中には「俺が俺が!」とか「損は嫌だ! 嫌だ!」と反論するばかりの人がいるんですよ。
そんな人がいれば議論は進まなくなりますよね。
なので、そういう場合は、「もう次から彼は議論の場に呼ばないようにしよう」となって、その人は村のコミュニティから外されるわけです。

これが、日本に元々ある「村八分」ですね。

そういうこともあって、日本スタイルの議論も、西洋の同等に完璧ではないわけです。
西洋の場合は、力のない者は支配される。
日本の場合は、協調性のない者は切り捨てられる……という犠牲があると。

 

まぁそういう違いや類似点があるとして、「なぜ日本の妖怪は絶滅したのか」という本題に戻りましょうか。

日本の議論形式を見ても分かるように、日本の妖怪は「戦わない」のが基本です。

問題が起きても、みんなで我慢をし合って、分かち合うと。
これは見方を変えると、「どんどん引きこもっていく」とも言えるでしょう。

日本の妖怪は、外敵が侵入してきたら、いたずらとか嫌がらせ程度はするでしょうが、「全面戦争」はしないわけです。
「もっと安全な場所や空間に逃げよう」となったりすると。

でも、逆に西洋の議論スタイルは「勝ち負け」「支配する・される」というスタイルで、どんどん広がってゆくものです。
いわば、「発展するには、次々と敵を必要とする」わけです。

なので、必然的に西洋的な民主主義は、世界に広がっていく傾向にあります。
逆に、日本的な民主主義は、次第に小さくなり、消滅してゆく傾向にあります。

今の世界的な民主主義というのは、西洋的な民主主義ですよね。
そしてこれがどんどん広がっているということです。

なので、日本の妖怪は、どんどん引きこもっていくと。
そして、いつしか居場所がなくなり、絶滅するわけです。

 

でも、だからこそ、これからの時代には日本的な民主主義の考え方が大切になると思うんですよ。

というのも、情報革命が起きて、これからますます世界は一つになっていくわけですよね。

となると、世界は「地球という一つの島国」になるわけです。
すると、西洋的な考え方だと「勝ち負けを決める相手」がいなくなるんですよ。

今、この地球に残っている「西洋的な思考の敵」は、ほぼイスラムだけです。
だからこそ、西洋対イスラムという世界的な対立が起こっていて、今はイスラエルや中東が「世界の火薬庫」になっているわけですが。

そういう状況だからこそ、世界が西洋的なものに染まったとき、西洋的な民主主義に根ざした多くのシステムが崩壊するでしょう。

議論を戦わせて、勝ち負けを決めて、他から奪ってくることで発展するような思考は、それが世界に完全勝利をした瞬間に、それは崩壊するのです。
その代表格が、利子や信用創造によって運営されている銀行システムでもあったりしますが。

そして、そうなって初めて日本的な民主主義が求められるようになるかと思います。

「日本の妖怪がなぜ絶滅したのか」と言っていますが、実は妖怪はまだ生きています。
私たちが日本的な考え方を持ち続ける限り、妖怪は生き続けるわけですね。

それまでは、しっかりとこの日本的な考え方を大切にしておいた方がいいかなと思います。
言い換えると、「妖怪を守っておく」ということですね。

まぁ、私の予想では、西洋的な民主主義が完全勝利した後には、マリア信仰のような形で、母性原理の思考がブームになるとは思いますが。
でも、そのときが日本的な八百万の考え方を世界に売り込むチャンスでもあります。

 

でもまぁ、それまでは日本人でも西洋的な考え方が必要になるものです。

その中でも、日本的な考え方は忘れない……それが未来のためになる、ということですね。

ってことで、「日本の妖怪がなぜ絶滅したのか」ということから壮大に話を広げてみました。

今日のお話はここまで!

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