今日は、自分軸についてお話ししてみましょうか。
「みんながそう言っている」ということは、当てにならない、というお話です。
自分を持っていない「奴隷型人間」という生き物
終戦の日が近づいてきてますよね。
古い人から話に聞いたことがある人もいるかと思いますが、戦争の前後で、多くの人が社会に対する不信感を持つようになったんですよ。
というのも、それまでは「鬼畜米英」とか言っていたのが、いきなり「同盟国」とか言い始めたんですから。
それまで教わった価値観や常識というのが、終戦で一気に吹っ飛んで、人々はいきなり手のひらを返したかのような態度を取り始めたんですよ。
こういう場合、「自分の軸」を持っている人ほど、混乱することになります。
人間には、「自分の価値観をしっかりと持っている人(こだわり型人間)」と、「自分の価値観を持たない人(同調型人間)」の二種類がいます。
そして、その比率は2:8とか3:7とか、それぐらいです。
ほとんどの人は、あまり自分の評価軸なんか持っておらずに、「みんながそう言っているから」、「みんながやっているから」で動いているものなんですよ。
私は、こういう「自分を持っていない人」でも、さらに重度な人を、「奴隷型人間」と呼んでいます。
こういう人は、「年収が高いほどいい」、「身長が高いほどいい」、「美男美女であるほどいい」、「競争に打ち勝ってスターになるほどいい」みたいな、画一的な価値観を持つものです。
同時に、それらはマスコミなどのマスメディアによって作られるものなので、マスコミによって簡単に動かされる人たちになるわけですが。
自分なりの軸を持たないことで、上(親や上司、国、マスコミ、専門家などの権威ある人)の言葉を鵜呑みにする人たちですね。
実は、こういう奴隷型人間が多い方が、いい時代があるんですよ。
それが、安定した時代ですね。
社会的に安定している時は、何も考えない奴隷は多ければ多いほど、意志を一つにして働いてくれますからね。
同時に、社会ではやっぱり、そういう人が求められているものです。
上司にたてつくよりも、何も考えずに奴隷のように動く兵隊の方が好かれるのは、当然とも言えるでしょう。
奴隷型人間の言葉を鵜呑みにしない方がいい
逆に不安定な時代ほど、奴隷型人間の考えは頼りにならないものです。
特に、自分軸を持つ人は、奴隷型人間の言葉には気をつける方がいいでしょう。
クリエイターの人とか、このブログを見ている人は、ほぼ間違いなく「自分軸を持つ人」だと思うんですよ。
このブログはそういう人しか見ないような構成にしている、ということもありますが。
その場合、奴隷型人間の言うこととか、価値観には気をつけた方がいいかと思います。
簡単に言うと、「奴隷型人間の価値観には、惑わされないようにしましょう」ということです。
確か書道家の相田みつをさんだと思うんですが、この人が戦時中と戦後で味わった体験のエピソードがあるんですよ。
相田さんが従軍していた頃に、軍では上官の部下に対するすごい暴力が吹き荒れていたわけです。
「上官の言葉は天皇陛下の言葉だ」とか言って、部下には殴る蹴るとか日常茶飯事で。
相田さんは、ある特定の上官から暴行を受けていて、本気で殺されそうになるほどで。
で、終戦を迎えて数年が経って、相田さんはその元上官が生き延びていることを知るんですよ。
あれだけ「天皇陛下のおんために」、「天皇陛下のために死ね」とか言って、それができない人を徹底的に痛めつけていたんだから、普通は筋を通して殉死しているとか思うでしょ。
でも相田さんが「私のことを覚えているか」とその人の前に姿を現すと、実際のその人は、普通に家族を持って、こじゃれた西洋風な洋服なんか着ているわけです。
「日本魂」なんて、すっかり消えてしまっているんですよ。
そしてその元上官が相田さんに気づくと、複雑な表情で苦笑いをして、過去には何もなかったかのようにごまかすわけです。
そこで相田さんは、「あれだけ殴る蹴るをやっておきながら、人はこうも簡単に変わり身をするのか」と、ある種のやりきれない哀しみ、ぶつけられない怒りを味わうことになるんですが。
こういう「態度の豹変」というのを、奴隷型人間はよくやるわけです。
これは、「自分なりの軸」を持たないから、こういうことができるんですよね。
国も、人を助けはしない
私たちは、「国は国民を守ってくれる」とか思いますよね。
それは、安定した時代での理屈なんですよね。
実際のところは、国はいくらでも国民から巻き上げるものです。
「痛くない注射針」で有名な、岡野工業の岡野雅行さんの父親も、同じような体験をしているんですよ。
ここでも触れているので、引用でご紹介。
(岡野さんの父親は)年を取ってから住もうと買った土地も、不在地主だからと、ただ同然で(国に)取られた。
保険も、火事になったとき、柱が1本残っているからと、何割かしか払ってくれなかった。
だから「国や金融機関は金輪際、信用しない」と強い不信感を持った。
当然だと思う。
当然、その前後にある預金封鎖と新円切り替えで、国民からもお金を無条件で巻き上げる、みたいなことをするわけです。
国は、土地や金を巻き上げることなんか、当たり前のようにしますし、難なくできるものです。
私が住んでいる近所には、民間と軍での共用の空港(山口県の岩国基地)がありますが、その土地も、元々人が住んでいたのに、「強引に奪われたみたいな形で追い出された」、って感じですからね。
今でも、艦載機の移転問題でいろいろもめているですが、国はいともたやすく実力行使できていますからね。
それぐらい、彼らは筋なんて通さずにできるし、実際にやるわけです。
国ですらそうなんですから、「社会の言うこと」なんてものも、当然いとも簡単に変わる、ということです。
そして、そういう環境に「自分軸を持つ人」が入ってしまうと、苦しむことになりがちです。
特に上司や親などで、奴隷型人間がいると、自分軸を持つ人は苦しみがちです。
「変人が集まる場所」の方が、居心地がいい
そういう環境で苦しんでいる場合、早めに「境地」へと脱出する方がいいんじゃないかと思います。
境地とは、こぢんまりとした組織で、何かしらの専門的なことをしている場所になるでしょう。
メジャーに頼らずに、独立独歩で進めようとする、小さな集団になります。
彼らは「既存の社会と戦うこと」は選ばずに、普通の人からすると「ちょっとした僻地」で、「新たな心地よい居場所」を作り出そうと工夫しているような人たちです。
それは、「変人」が集まるような場所と言えるかもしれません(笑
私たちはつい、「変人ばっかりよりも、普通の人が多い方がいい」とか思いがちですよね。
でも実は、「普通の人」ばかりだと、少し違っているだけで、「出る杭を打たれる」状態になるんですよ。
逆に変人ばかりだと、自分が少々変でも違和感ないから、周囲を気にせずに自由にできると(笑
ほら、日本にいると、服装とか髪型とか、「周囲に合わせなきゃ」、「あんまり変にしちゃいけない」とか考えますよね。
今ではなくなりましたが、昔は若者が髪を染めているだけで、「けしからん」とか言う人がいたものです。
でも、人種のるつぼのような多国籍な場所にいくと、どれほど自分が「日本」という社会的な価値観に縛られていたかが分かるんですよ。
私は大学時代に神戸にいましたが、そこではいろんな国籍の人が、いろんな服装、いろんな髪型、いろんな宗教でいるわけです。
そういう人たちに囲まれていたら、「何だってアリだな」とか感じるんですよね。
すると、「それなら、思い切り自分を表現したい」という方向に動き出せるわけです。
私は立場的に、クリエイターの人と、特にシナリオライターの人と多く付き合ってきましたが、シナリオライターって奇人変人ばっかりですからね(笑
「普通の人」がシナリオライターになるとか、ありえませんから(笑
でも、ぶっ飛んだ人たちに囲まれていると、自分もぶっ飛んだことをできるようになるんですよ。
「あ、自分もぶっ飛んでいいんだ」みたいな。
彼らは奇人変人でぶっ飛んでいても、「これをやりたい」というものを中心にして、筋を通しているんですよ。
だから、好き嫌いがはっきりしているので、分かりやすいと。
その好き嫌いが分かりさえすれば、奇人変人の方が、「普通の人」よりも付き合いやすいと分かるでしょう。
単純ですからね(笑
まとめ
奴隷型人間は、基本的に「何も考えていない」と考えるぐらいでいいんじゃないかなと思います。
彼らは、自分の地位と現状維持をするために生きているようなものです。
安定期なら、まあ筋が通る場合もあるでしょう。
でも、不安定な時期に、彼らに自分軸や筋の通ったことを求めるのが、どだい無理なことなんだと。
そういう性質を先天的に持たない人たちだということですね。
上記の相田さんの上官のような「理解しがたい狂った人」というのはどの世界にもいるものですが、私はどちらかというと、「普通の人」がいる社会の方が、そういう狂った人が多いような気がします。
変人たちは、自分たちが変わっていることを自覚していますからね。
自分がおかしいとは気づかずに、「自分は正しい」と信じ込んでいる人ほど、恐ろしい人はいないようにも思えます。
まあ、見方を変えると私の方が明らかにマイナーな考え方なので、普通の社会から見れば「私の方が狂っている」と言えるかもしれませんが(笑
「筋がない」というのは、奴隷型人間だけでなく、国も同じです。
不安定な時に、「筋の通ったこと」を、彼らや国に求めるのは、無意味だと。
だから、今のような変化の激しい時代に、「みんながそう言っている」ことなんて、当てにならない、ということです。
そういう風に、自分軸を持つ人ほど、「普通の社会的価値観」には苦しむことも多いんじゃないかと思います。
逆に、ぶっ飛んだ変人たちの集まる境地で、新たなことを自由に開拓できる環境の方が、やりがいもあって、楽しくて、「違うからこそ理解し合える」んじゃないかな、と思います。
そこでは、いろんな人が、「自分なりの幸せの軸」を持って動いてますからね。
「年収が高いほどいい」、「勝つことの方がいい」とかいう画一的な考えを持つ人は、むしろ少数派です。
そういう場所にいれば、「自分なりの幸せ」を素直に実現できるんじゃないかな、と思います。
ってことで、今日は「みんながそう言っている」ということは、当てにならない、というお話をしてみました。
今日はここまで~。