今日は、昨日のお話の続きというか、補足です。
「奪い合う人が、なぜ分かち合えるようになるのか」ということを、ちょっとお話ししてみましょうか。
なぜ私が分かち合えるようになったのか
私は、昔はノウハウとか自分に有利な点を、「他の人には教えたくない」というタイプの人でした。
いわゆる奪い合うタイプだったわけですね。
でも、今ではすんなりと技術とかノウハウを教えてますよね。
私は無理をして与えているわけではなくて、むしろ喜んでできるようになっているんですよ。
「なんでこんな変化が起きたのかな~」と思うと、やっぱり「場が変わった」ということがあるように思えます。
私自身は、さほど何も変わってないんですよ。
いや、まぁ去年の夏にいろいろありましたが、それとこれとはあんまり関係がないような気もしたり。
すなわち、私の本質は何も変わってないのに、場が変わっただけで、自分の行動が変わった、ということですね。
競争率が高いと、奪い合う
これをちょっと、たとえ話で説明してみましょう。
昨日も触れましたが、有利不利というのは、「競争率」で決まります。
例えば、山歩きで山頂に向かって歩いていたとしましょうか。
山頂には木の実がたくさんあるので、それを取りに行きたいとします。
これがすっごい何千人という数の人が、競争で山頂に向かっていたらどうでしょう。
もし近道を見つけたら、「絶対に人には教えない!」ですよね(笑
むしろ、「他の人には見つからないように、隠しておこう」と思うものです。
これは、木の実が何千人では足りなくなりそうだから、分かち合わなくなるんですよ。
そして、次第に強い人が「この木は俺のものだ」、「この土地は俺のものだ」と主張するようになります。
結果として、最も強い人が奪い、「自分のもの」と独占します。
分かち合えば全員に行き渡るとしても、分かち合うことはしなくなってしまいます。
目的が合うと、分かち合う
でも一方で、もし登っている人が一人二人の場合、協力し合うようになるんですよ。
というのも、一人二人で進む場合って、ほぼそこは未開の地なわけです。
「山頂には、木の実がたくさんある」という希望を持って進むことになります。
すると、道もできていなければ藪も多いので、一人よりも、協力し合うことでよりスムーズに進むことができます。
近道を見つけたりすると、相手に教えてあげます。
すると、相手は喜んでくれて、互いに協力し合って山頂に向かうことができます。
これは、「山頂にある木の実を取ろう」という同じ目的を持つから、分かち合うことができるわけです。
頂上で木の実があれば、共に喜びます。
たとえ木の実が少しだけだったとしても、相手のことを思いやれるので、分け合うことができますよね。
もしなかったとしても、苦楽を分かち合った仲間だから、共に哀しむことができると。
「分かち合う」っていうのは、そういう思いやりのような気がします。
で、競争の場から抜け出して、目的でつながることができる相手と一緒の場を過ごすと、分かち合えると。
まとめ
そんな風に、「人の多さ」、「成功者の多さ」、「成功の大きさ」に惑わされないことが大切なんじゃないかな、と思います。
競争を強くなるのではなく、「こっちに木の実がありそうだ」という嗅覚を身につける、そんな野性的な感覚ですかね。
私は分かち合うことができてますが、多分競争率の激しい場所に行くと、やっぱり急に「独占したい!」とエゴ丸出しになるでしょう。
私が分かち合っているのは、私の精神性が高いとか、立派だとか、そういうんじゃない、ということです(笑
ただ、場がいいだけなんですよね。
周囲にいい仲間がいたり、目的を持って動いている人たちが多いから、こうなれているんだと思います。
そう考えると、周囲のクリエイター仲間や、このブログを見てくださっている人には、本当に感謝なんですが。
おそらく誰でも、こういう場に移れば、分かち合って、信頼できる人と出会い、協力し合えるようになるでしょう。
自分の性格は、そのままでいいんですよ。
器も、許せる度合いも、そのままでいいと。
性格や内面を変える必要はありません。
性格を変えようとするのではなくて、場を移動するようにすると、自然と豊かさに囲まれて、分かち合うようになれるんじゃないかと思います。
ということで、今日は「奪い合う人が、なぜ分かち合えるようになるのか」ということをお話ししてみました。
今日はここまで~。