今日は、精神的なことについてお話ししてみましょう。
「しんどくても、不幸とは限らない」、というお話です。
冬目景氏のエピソード
あー、昨日、漫画についていろいろ語ったんですが、私、一つすっごい誤解をしていたことが判明。
冬目景氏と、沙村広明氏(「無限の住人」の作者さん)を、盛大に勘違いしてました(笑
別に記事自体に問題はないんですが、「なんか変だな」と感じて調べてみたら、二人がごっちゃになっていたという(笑
で、冬目氏の経歴を見ていたら、興味深い内容があったのでご紹介。
この方、漫画を描き始めた頃にはすっごい貧しい状態で、冷蔵庫も風呂もエアコンもないような部屋で漫画を描いていた……という状態だったようで。
こういう「しんどい状態」って、自分の願いを実現しようとする過程では、よくあることですよね。
でも、おそらく冬目氏は、そんな環境は確かにしんどかったかもしれませんが、不幸ではなかったと思うんですよ。
というのも、希望を持っていて、それに進んでいる状態であれば、「今の苦しさ」はさほど関係なくなるんですよね。
希望っていうのは、それだけの忍耐力を与えてくれる、ということです。
というか、「忍耐している」というのも他者から見た感覚でしかなくて、本人にとっては「忍耐している」という感覚すらないでしょう。
動物園ではなく、サバンナで生きたかった、という私のお話
これを、私の経験からお話ししてみましょうか。
ちなみに私は会社勤めが嫌で、独立を決意して、運良くそれを果たすことができました。
独立しようともがいているとき、私には「大好きなゲーム制作を、思う存分やって生きる」という夢があって、「自分にも、それができる」という希望が見えていたんですよ。
当時の感覚で言うと、私は「動物園」の中で生きるようなタイプではありませんでした。
「サバンナで、のびのびと、自分の意志で生きたい」と思っていたわけです。
動物園にいれば、自由はありませんが、人の命令に従いさえすれば、毎日美味しい肉をもらえるわけです。
未来のことなんか考えなくてもいいですし、不安もなく、気楽に今を生きられると。
さらには、動物園内での人気競争に勝ち抜いて「スター動物」になれば、ゴージャスな部屋や地位を与えられて、ちやほやされて、安泰に生きられるわけです。
でも、どんなに大成功しても、動物園は動物園なんですよね。
そこには自由がなくて、どんなにスターになったとしても、結局それは「飼われている」ということです。
私は動物園ではなくて、サバンナで暮らしたかったと。
でも、それまでの私は、サバンナに出て生きていける方法も、自信もなかったんですよ。
サバンナでは自力で獲物を捕らないといけませんし、危険も多くて、誰も助けてくれないわけですから。
動物園では力がなくても自由を引き渡せば生きられますが、サバンナではそんなことはありませんからね。
そんなとき、以前も触れましたが、「ゲーム制作で、自力で稼げばいいんだ」とサバンナで生きられる力と可能性を見つけて、それに邁進したわけですね。
そのとき、私は毎日の生活全てを「独立する」ことに向けて集中させたんですよ。
睡眠時間や食事、人付き合い、お金や時間の使い方、それらを全て「独立するため」につぎ込むようになりました。
無駄な人付き合いや会社づきあいを全て蹴り飛ばして、移動時間や食事時間は勉強に充てて、学び、出社前の朝や会社帰りに制作をしたと。
当時は1年に5日も休まない、その5日も半日以上は休まない、という状態でした。
「2時間だけ休暇を取ろう」で、「今日は休んだ」と1日休みにカウントするぐらいですからね(笑
これは普通の人から見ると「すごい忍耐力だ」とか、「大変な作業量だ」とか感じるでしょう。
時間も全てつぎ込み、会社で稼いだお金も本や教材に費やして、ゲームの売り上げは全て制作費につぎ込んだわけです。
自分のために使うようなお金なんて、ほぼない状態です。
飲み会や外食なんてもってのほか、無駄な消費をせずに、エアコン代ですらケチって、全て制作費や勉強代に回していました。
でも当時の私は、しんどいとも大変だとも、さして感じてなかったんですよ。
それほどしんどい状態でも、自分が不幸だとか、貧しい状態だとも思っていませんでした。
ただただ無我夢中で、サバンナに向かって走り続けていた、みたいな。
そんなことを考える暇すらなかった、という方が正確かもしれません。
そしてそのときに、サバンナで生きる力を身につけたわけですね。
「不幸」とは、希望を持たない状態のこと
私はしんどい状態だからといって、不幸だとは思いません。
「不幸」というのは、希望を持たない状態のように思えます。
むしろ、どんなに大成功してエサが与えられる状態でも、自由のない「動物園」は、私にとっては不幸な場所だったことでしょう。
もちろん、動物園の方が合う人も多くいます。
それはそれでいいんですよ。
私はサバンナで、いつかのたれ死んでもいいから自由に生きたかった、ということですね。
サバンナでは、自然と本気になれるものです。
獲物が捕れなくて、死が背中に迫ってきているほど追い詰められたら、そりゃー誰だって無我夢中になりますから(笑
私は「大好きな制作ばかりをしていきたい」と思っていましたが、同時に「サバンナで生きるには、ビジネスについて知っておくことも絶対必要だ」と分かっていました。
だから、当然ビジネスについても学びました。
それが必要だと分かれば、興味が出てくるんですよね。
なので、希望を持って、そして追い詰められれば、人は何でも興味を持って学ぶんじゃないかと思います。
すると、冷蔵庫も風呂もエアコンもないような部屋で作ることも、受け入れられます。
不幸だとも、苦しいことだとも思いません。
だって、自分が選んだ道ですからね。
そして、そのときは無我夢中でやっているので、不幸だと感じる暇すらないと。
まとめ
希望を持っている人にとっては、どんなにしんどい状態でも、「不幸」なんてありえないんですよ。
きっと、トキワ荘の人たちも、明治維新の志士たちも、アフリカで危険を冒してまでも貧しい人たちに医療を施す医師団たちも、私の仲間であるクリエイターたちも、同じ気持ちでしょう。
自分で選んだ道だからこそ、苦しくても戦える、ということです。
そして泥まみれの姿でも、本気で戦っているからこそ、格好いい、ということですね。
そんな感じで、冬目氏のエピソードから、感じたことを語ってみました。
ってことで、「しんどくても、不幸とは限らない」、というお話でした。
今日はここまで~。