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今日は、思い込みについてお話ししてみましょうか。

「難しい」と思っているのは、思い込みかもしれない、というお話です。

 

大人が抱えている「思い込み」

とあるお医者さんの日記で、子どもへの教え方について、ちょっとした記事があったんですよ。

ちょっと長くなりますが、まるまる引用してご紹介してみましょう。

その幼稚園では漢字教育をしているそうで,個人の持ち物(バッグなど)を入れる棚,胸につける名札,教室の名前などは全て漢字で書き,ひらがなは極力使っていないという。

理由は単純明快で「漢字の方が子供が覚えやすいから。ひらがなは覚えにくいから」。
つまり「さくら」とひらがなで書くより「桜」と表記したほうが圧倒的に覚えやすく間違えにくいからだそうだ。

なぜかというと,漢字は画数が多くて色々な形をしているため形で覚えやすく,他の漢字と区別がつけやすく間違いにくいのだ。

逆に,ひらがなは画数が少なく似た形の文字が多い(例:[い]と[り],[め]と[ぬ]など)ため,全てのひらがなを正確に覚えないと正確に読めないし,表音文字のため,1字ずつ読んでつなげて音として脳内で変換し,自分が知っている単語の発音と照らし合わせて正解を導き出す,という何とも複雑な作業が必要となる。(中略)

それに比べたら[飯]と[主]という漢字を画像として処理した方がはるかに簡単なことがわかる。

大人はつい,「漢字は複雑で覚えにくい。ひらがなは簡単で覚えやすい」と考えてしまい,子供には最初にひらがな,その後に漢字を教えるが,これはどうやら「大人特有の先入観」なのかもしれない。

 

こういう思い込みって、よくありますよね。

私自身も長文癖なので、ツイッターに120文字以内でメッセージを書くよりも、このブログで長文を書く方が楽なこともありますし(笑

これはいわば、「短い文章を書く方が楽、長い文章を書く方が難しい」という先入観があった、ということですよね。

私の性質から言うと、実際では、「短い方が難しい、長い方が簡単」なわけです。

 

この例で、「学ぶ」ということは何なのか、って考えさせられるんですよ。

私たちはよく、「これだけ勉強してもできないんだから、難しい」とか思いがちですよね。

でも実は、そこに「感動」や「必要性」が加わると、次元が変わってくるんですよ。

昨日の記事の延長ということで、今日はそんな、「難しさ」という概念を消し去る方法についてお話ししてみましょう。

 

「学ぶ」というのは、「感動しながら日々行動すること」

私は「学ぶ」というのは、「感動しながら日々行動すること」だと思ってます。

感動しないものは学びではなくて、「行動が伴わない、脳へのインストール」も学びではないと。

 

実は、「感動すること」というのは、「自分にとって必要なこと」と同義になります。

「感動すること」というのは、人の成長にとって必要なことだ、ということですね。

生命は、自分にとってプラスになることを「心地よい」と感じて、マイナスになることを「苦しい」と感じるようにできています。

そういうメカニズムがあるから、生命は生き延びられたわけですね。

だから、「感動」というものは、基本的に「自分にとってプラスになることで、かつ必要なこと」なわけです。

 

「物語で感動する」というのも、心の抑圧を解き放つことで、精神的に自由になる、ということです。

成長を実感できたり、勉強でも理解が深まったり、アハ体験をしたときも感動しますよね。

自分の能力が上がったり、自発的に何かに気づいた時には、必ず感動を伴います。

「感動」というのは、「また味わいたい」と思うものです。

だから、感動に従って動いていると、どんどんその力を強化してゆくことができると。

 

だから、私は基本的に、「やりたいことがあったら、まずは飛びついてやってみる」、というスタイルでやってます。

で、見よう見まねでちょろっとでも実現できたら、「うわ、すごい! 自分にもできた!」と感動できるんですよ。

その感動が、「もっとできるようになりたい」という原動力を生み出すわけですね。

そして、私を学ぶことに向かわせると。

 

順番が、「学んで作る」じゃなくて、「やってみて感動して、学んで感動しながら作る」という流れですね。

学んでいる最中も、行動し続けるので、日々自分が成長していることを実感できるんですよ。

これがもう、嬉しくて嬉しくてたまらないわけです。

 

感動するから、学び続けられる

例えば、私は台湾の人と一緒に制作をするために、中国語を学んだときがあるんですよ。

メールでのやりとりだったんですが、最初はGoogleの翻訳とかを使って、日本語の漢字フォントも交えながらで。

今思えば、相当アホなコミュニケーションだったんですけどね。

でも、「うわ、会話できる!」という感動があって、それが私を学ぶことに向かわせたと。

 

で、メールのやりとりをしていくと、コミュニケーションできる領域が広がっているのが、日々実感できるんですよ。

「うわあ、こういうことも伝えられるようになった!」みたいな。

そういう興奮があるから、1ヶ月程度という短期間で、ゲーム制作のやりとりができるほどに中国語を身につけることができたと。

 

でも、もし私が「中国語を勉強しなきゃ」とか思って、メールも何もせずに勉強しようとしていても、全然身につかなかったことでしょう。

それはまさに、「学校で学ぶ英語」と同じですからね。

感動がないものは、身につかなくて当たり前なんですよ。

 

まとめ

だから、「学ぶ」イコール「感動しながら日々行動する」ことだということですね。

なぜ人が学ぶことを投げ出すのかというと、「面白くないから」ですよね。

学校の授業とか、超つまらなかったでしょ(笑

だから、「中学高校で6年も英語を学んでも、日常会話すら全然できない自分だから、英語なんてできるわけがない」とか思い込んでしまうと。

それだけでなくて、「勉強してもできないことは、自分にはできない」とか、「勉強もスポーツもできなかった自分は、劣った人間だ」とか思い込むと。

 

でも、面白いことなら、自発的に学んで、できるようになっちゃうんですよ。

その「感動」という部分ですよね。

「一緒にいたい人とコミュニケーションできた!」とか、「表現したいことを、今まで以上に表現できるようになった!」とか、内側から出てくるエネルギーを利用する、ということです。

すると、「勉強する」とか、「暗記力」、「記憶力」、「応用力」とは全く次元が違う、別の力が発揮されます。

この力を利用すれば、短期間で、結構何でもできるようになるんですよ。

 

私はこの心理効果を使っているから、ゲームでもアニメでも本でも理論作りでも英語でも中国語でも、何でも短期間で楽しく身につけられてきた、ということです。

「学ぶ」というのは、心理学だということですね。

 

ということで、今日は「難しい」と思っているのは、思い込みかもしれない、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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