今日は、豊かさを味わうことについてお話ししてみましょうか。
「与えることでも、豊かさを得られる」という考え方
少し前にいらないものを片付けていたら、使わなくなった切手とかはがきが結構あったんですよ。
私にとっては既に不要なものですし、捨てるのももったいないので、寄付するか~ってことで、ちょっとしたところに送ってみたり。
実は豊かさを味わう方法には2通りほどあって、一つは「欲しいものを得ること」ですね。
もう一つは、「自分よりも持たない人に与えること」があるんですよ。
与えることでも、豊かさを得られるんですよね。
最近になって私は、なぜマザーテレサが死にゆく人たちに寄り添ったのか、感覚として分かるようになってきました。
彼女は、それで豊かさを得ていたんですよね。
でも多くの人が、「お金や時間を人に差し出すなんてことをすると、それだけ豊かさが奪われる」と思っているんですよ。
もちろん、昔の私もそう思っていたんですが。
でも実際は、「豊かさ」なんてものは相対的なものでしかないんですよね。
自分よりも持っている人と比べれば自分は貧しくなるでしょうし、自分よりも持たない人と比べれば自分は豊かになる、ということです。
ただ単純に、どっちを見るかの違いでしかないと。
そして、お金をたくさん持っていたとしても、「もっと欲しい、損をしたくない」というのは、本当に豊かなんだろうか?と思うんですよ。
逆に、「十分にある」と分かっている人ほど、豊かなんじゃないかと思ったりもします。
「欲しい」という人には与えられずに、「十分にある」という人に与えられる
まあそれはさておき、そんな風に「私にとっては不要なもの」を与えると、上の写真みたいな受領証(兼感謝メッセージ)が届いたんですよ。
いやぁ、こういう風に感謝のメッセージを送ってもらえると、嬉しいものですよね。
私にとっては不要なものなので、感謝されるほどでもなくて、むしろ私の方が「引き取ってくださってありがとう」と言いたくなるほどなのに。
ちょっと驚いたのが、送った先から「純粋に感謝だけ」が届いたんですよ。
実はこういうのって、ちょっと珍しかったりします。
私は結構いろんなところに寄付をしていたりするんですが、中には豪華なフルカラーパンフレットと共に「毎月の定期引き落としが便利でお得です!」みたいな、なんかセールスみたいなものもあるですよ(笑
でも、今回のはそういう「継続寄付の願い」なんてものはなくて、純粋に感謝と、「こういうことのために使わせていただきます」という手書きのメッセージがあったんですよね。
こういうのを見ると、「渋いな!」と感じるんですよ。
同時に、「あ、ここは信頼できるな」みたいな。
こういうのは、「欲しい、欲しい。ください、ください」と言うほど、得られなくなるものなんですよね。
逆に、「与えてくれなくてもいいですよ。でも、もし私たちのことを気に入ったら、ご支援ください」っていうアプローチの方が、得られるんですよね。
例えば、「余ってるなら、お金をください」っていう物乞いがいたとしましょうか。
でも、そのお金で何をするのか、ということですよね。
「豪華なフランス料理を食べて、喜びます」とかいう場合、なんか与えても意味ないじゃないですか。
むしろ、相手に浪費癖を与えるぐらいなら、与えない方がいいわけです。
逆に、東南アジアとかアフリカで、「僕は将来医者になって、私の出身地である貧しい地域の人たちのためにも、患者を診ていきたい。そのために、学校に通うための学費が欲しい」とかいう子がいたらどうでしょう。
しかも、「僕は貴方の協力なしでも、なんとしてでもそれを成し遂げます。でも、もし協力してくれるなら、支援してください」って言うわけです。
そう言われると、そりゃもう、医者を目指す子に与えたくなりますよね。
というのも、その目指すビジョンがあって、その上で「協力なしでも自分は成し遂げる」という強い意志を持っている人ほど、魅力的に映るものなんですよね。
そして、豊かな人ほど、意志の強い人で、かつ夢を持つ人に与えたくなると。
寄付をしていると、そういう感覚になるものなんですよね。
だから、「欲しい、欲しい」という人ほど、得られないわけです。
逆に、「満たされている」という人ほど、どんどん得られると。
どこかの聖典に、「与えよ、さすれば与えられん」とかいう言葉がありましたが、それはまさにこの原理かなと思ったりもします。
よくあるでしょ。
Twitterでも、「これを買ってください」とか、「私にこれを与えてください」、「これを募集しています」みたいなメッセージを、何十回、何百回もリピートしているような人が。
そういう人ほど、得られないんですよ。
逆に、「自力でもやります。でも、もし貴方が私を応援したいなら、ご協力ください」みたいな人ほど、どんどん集まってくるわけです。
与えた時点で、豊かさは得られる
で、与えた時点で、豊かさは得られるんですよね。
だから、その先でどう使おうが、さして重要ではないと。
ヨーロッパのあるサッカークラブで、有名な選手がいたんですよ。
彼は、何かの特別な大会で活躍して、優秀賞を得て、結構な賞金を得たわけです。
で、その帰り際に、女が近づいてきて、「私の子どもがこういう重たい病気なんです。そのためには、これだけのお金が必要なんです」と、その選手に訴えたんですよ。
すると、その選手は、賞金の小切手をその場で全額渡したと。
男前でしょ(笑
で、そのすぐ後で、マスコミのレポーターから「あの女は詐欺師で有名なんだ。病気の子なんていない。あんたはだまされたんだよ」と、選手は言われます。
そのレポーターに、その選手はこう切り返すんですよ。
「今日は大会で活躍できて、賞金も得て、たくさんいいことがあった。でも、病気で苦しんでいる子がいないと分かった。それが一番喜ばしいニュースだ」と。
もう惚れてしまうほどの、男前でしょ(笑
これは、その選手は、小切手を与えた時点で、それ以上の豊かさを既に得ているわけです。
だから、マイナスにはなり得ないんですよ。
分かりますかね、この感覚が。
「もう十分にある」と感じるから、集まってくるんですよ。
集まってくるから、「十分にある」と感じるのではない、ということです。
まとめ
マザーテレサも、そのサッカー選手も、どちらも豊かさを持っていたということです。
そういう豊かさもある、ということですね。
まあ、これも世の中の大半の人には理解不能な感覚なんですよね。
世の中の大半の人が見たら、「あんた、だまされてるよ」とか、「あんた、馬鹿だなぁ」とか、「狂ってる」と感じるんじゃないかなと思います。
実際、多くの人が、マザーテレサみたいな人を「死にゆく人に時間をかけるなんて、馬鹿な奴だ」と思っているものですからね。
それと同じように、「自分よりも貧しい人に価値を与えるなんて、馬鹿がやることだ」、「自分の豊かさを誰かに与えるのは、愚かなことだ」と言う人も、実は結構多いんですよ。
「人から奪えば奪うほど、豊かになる」と思い込んでいるタイプの人ですね。
そういう人は、「欲しい、欲しい。ください、ください」とばかり言っているんですが。
でも、そういう人ほど、得られないものがある、ということです。
どんどん与えていくと、この感覚が分かってくるかなと思います。
すると、本当の豊かさとは何かが分かってくることでしょう。
私自身、どんどんものを捨てているのに、どんどん実感としては豊かになっていますからね。
「豊かさを得る」というのは、この矛盾しているように見えるカラクリに気づくことかな、とも思います。
ということで、今日は豊かさを味わうことについてお話ししてみました。
今日はここまで~。