今日は、精神的なお話です。
なぜ「自分はゴミやクズだ。生きていてごめんなさい」と感じるようになるのか、というメカニズムのお話をしておきましょう。
前もって行っておくと、今日の記事はスペシャルです。
「私の中にある、長年の謎が解けた!」という、理屈としてはここ最近で一番の気づきだったりします。
そして、今日はこのブログ史上最長の長文記事なので、時間のあるときにどうぞ。
なぜ「自分はゴミやクズだ」と感じるようになるのか
よく、「自分はゴミやクズだ。生きていてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい」とか感じることって、ありますよね。
これは、内向的な人ほどそう感じることが多いように思うんですが。
特に、人の期待に応えられなかったり、十分に喜ばせることができなかった場合、そう感じるものです。
それとか、十分な成果を出せなかったり、落ちこぼれてしまった場合にも、そう感じることが多いですよね。
で、私はずっと、「なぜこんな現象が起こるんだろう?」と思っていたんですよ。
以前(2014年ぐらい)にもこれについてお話ししたことがあるんですが、当時は「劣等感があるから」とか、「愛情を受けられなかったから」としか答えられませんでした。
でも、「じゃあ、劣等感って何?」、「愛情って何?」とか言われると、やっぱりそれ以上は答えられなかったんですよ。
それで、当時は「セルフイメージを変えよう」という、なんか抽象的な解決策しか導き出せなかったわけですが。
だから、「セルフイメージ」という抽象的なもので理解が進まず、変化を起こせなくなります。
そして、同じような苦しみを続けてしまうと。
ですが、今回ようやく、このさらに本質的な心理メカニズムを理解できるようになりました。
ということで今日は、そういう「なぜ『自分はゴミやクズだ。生きていてごめんなさい』と感じるようになるのか」、というメカニズムを説明してみましょう。
今回はちょっとした心理トリックを説明しますが、これを見抜けるようになると、「ああ、自分は良心を利用されて、搾取されていただけなんだ」と分かります。
そして、「自分はゴミとかクズではなかった。むしろすっごい優しい人だった」と理解できるようになるでしょう。
良心を利用した、3つの巧妙な心理トリック
なら、なぜ「自分はゴミやクズだ。生きていてごめんなさい」と感じるようになるのか。
それは、生まれ育った環境で、自分よりも目上の人がいるかと思います。
ほとんどの場合、それは親になると思うんですが。
社会人になっても苦しんでいる場合、先輩とか上司がそれに該当することもあります。
で、いきなり結論から言うと、「彼ら目上の人から、奴隷のように搾取されている」と言えます。
それは、本当は相手が独りよがりな我欲を私たちに押しつけているのに、それがあたかも「私たちがその相手の我欲を満たせないのは、私たちが悪いからだ」と錯覚させているからですね。
この錯覚(トリック)が分かれば、「ああ、だから自分が悪いと錯覚させられていたんだ」と理解できます。
その「目上の人が、我欲を満たすために私たちを利用する」というのを正当化するために、次の3つの心理トリックを用います。
- 良心の呵責(かしゃく)トリック → 良心を利用することで、断れなくする
- 時間と作業量のトリック → 作業時間や作業量を細切れにすることで、限界まで搾取する
- 精神的限界のトリック → 我欲を持つ側ではなく、「実現できない側が悪い」と思い込ませる
相手(私たちよりも上の立場にいる相手)は、この錯覚を利用することで、私たちに「自分はゴミでクズだ」と感じさせながら、私たちを奴隷のように使うことができます。
裏を返すと、この心理トリックをうまく使えば、私たちは自分よりも立場の弱い人を奴隷にできます。
しかも、怒りの矛先を私たちではなく、相手自身に向けさせるという、ちょっと危険なロジックでもあります。
私がどうしてこの原理に気づくようになったのか
じゃあ詳しいロジック説明の前に、私の話をしてみましょう。
私はあんまり「愛情に恵まれた環境」だとは言えない場所で育ったんですが、応援してくださる皆さんのおかげで、今はほぼ自由に生きられるようになりました。
で、ありがたいことに今はほぼ年中自由にできる状態なんですが、1年に1度だけ、不本意なことをしないといけない日があります。
それが、親族の会合に出ないといけないことですね。
まぁ、これは1年に1度だけのことで、それ以上の利益があるし、「ここの出費は絞ろう」と自分が選んだ戦略なので、とりあえず受け入れてはいるんですが。
それでも、その場には当然私の母親もいると。
なので私としては、「戦略だと割り切っているとはいえ、いつものようにみんなの前で嘲笑されるのはしんどいな」と感じたりもします。
私の母親が使った「心理トリック」
で、先日その場があったんですが、そこで私の母親が、こう言ったんですよ。
「PCが止まって動かないの。調べ物とかできなくて、とっても苦しいの。あなた、パソコンに詳しいでしょう。だから少しだけ見てくれて、直してくれない?」と。
普通、このセリフを見ると、「なんだ、その程度か。なら簡単じゃない」とか思いますよね。
実際、私ならおそらく作業時間10分もあれば、解決できるでしょう。
でも実は、これで私は強烈な苦しみを得たわけです。
「そんなの、無理だ」みたいな。
そして、実は既にこのセリフに、私たちの良心を利用した、「良心の呵責トリック」と、「時間と作業量のトリック」、「精神的限界のトリック」という3つの巧妙な心理トリックと、罠が隠されています。
それによって、私たちは限界まで搾取された上で、さらに「自分はゴミやクズだ。生きていてごめんなさい」と感じるようになってしまうわけです。
良心を利用して自在に操るための、搾取トリック
じゃあここから、実際にこのトリックと、私たちに起こる心理現象を見てみることにしましょう。
本質から言うと、これは「良心を利用して自在に操るための、詐欺的搾取だ」と言えます。
私たちは、良心を持ちます。
良心とは、「相手が苦しんでいたら、助けてあげたい」と思う気持ちのことですね。
私たちは生命なので、自分にとって直接的な利害関係のない人が苦しんでいたら、助けてあげたくなるものなんですよ。
その方が、人間という種が発展するからですね。
そのために備わった生命のシステムが、良心です。
だから、「良心の呵責(かしゃく)」とか言って、良心に反することをすると苦しくなります。
それは、生命のシステムに反する行動だからですね。
良心が起こる前提は、「別にやらなくてもいいこと」
で、良心が起こる前提として、「相手にとって、それがなくて当たり前」、「私たちにとって、別にやらなくてもいいこと」という条件があります。
というのも、やらなきゃいけないことは、「良心」ではなく「義務や命令」になりますからね。
だから、本来「良心ですること」というのは、「やらなくても別に相手から恨まれないし、わざわざ自分がやる必要がないこと」です。
一方で、もし相手が「私にとって、それはあって当然だ」、「こいつは私に奉仕して当たり前だ」と思っていたらどうでしょう。
そんなの、良心が起こるはずがありませんよね。
言うなれば、「私は無償でPCを修理されて当たり前の存在だ。だからお前、修理しろ」とか言われるようなものです。
そういう言い回しでは良心なんて起きませんし、むしろイラッとして、「自分はあんたの奴隷ではない」と拒絶したくなります。
それは当然で、相手が「なくて当たり前」のものを、「あって当たり前」だと、勘違いしているだけですからね。
言うなれば、問題なのは私たちの行動ではなく、「相手が持つ、身の丈を越えた欲」ですよね。
勘違いした欲を持っている方がおかしいし、そちらを修正しないと、その人のためにもならないと分かります。
それに、そういう相手に尽くしたとしても、永遠に搾取されるのが目に見えています。
だって、どんどん要求はエスカレートしていくので、満足させようがないわけです。
1つめの「良心の呵責トリック」
でもここで、1つめのトリックである「良心の呵責トリック」が発動します。
もしこの相手にとっての「身の丈を越えた欲」を、私たちに「それがなくて当たり前だと感じている」と錯覚させることができたらどうでしょう。
すなわち、私たちの良心に訴えることができたら、いったいどうなるでしょう。
そのために、相手は私たちに「PCが止まって動かないの。調べ物とかできなくて、とっても苦しいの」と、あたかも「PCが動かなくて当然だ」と訴えます。
すると、良心が発動する条件が整うので、私たちは当然、「それなら自分の得意分野だし、助けてあげたい」と思いますよね。
そうやって、相手の善意(良心)を利用して、自分の思い通りに動かそうとします。
ちなみに、もしここで断ったらどうなるのか。
すると、相手は「ああ、私はこんなに困っているのに!」と嘆くことで、私たちに良心の呵責を引き起こします。
私たちからすると、本来それは「やらなくてもいいこと」(相手が我欲を満たしたいだけのこと)です。
なのに、いつの間にか「やらないと相手を不幸に陥れる」という風に、私たちが加害者だとされてしまっているわけです。
そして、罪悪感を持つことで、嫌々でもやらなくちゃいけなくなるわけです。
だから、良心が強い人ほど、断り切れなくなってしまうわけです。
すなわち、他人の良心を使って、我欲を満たそうとしているわけですね。
言い換えると、本来なら相手が悪いのに、論理をすり替えて、「私たちが悪い」と錯覚させているわけです。
この巧妙なすり替えトリック、分かりますかね?
これが、1つめの「良心の呵責トリック」です。
2つめの「時間と作業量のトリック」
次に、2つめのトリックである「時間と作業量のトリック」が発動します。
「PCを見て修理すること」は、まぁ10分でできることなので、すごく短時間でできて、簡単に見えますよね。
実は、これは10分では収まりません。
10分どころか、無限大の時間を搾取されます。
まあ、最初こそ10分助けたら、確かに相手は「やった、PCが動いた」と満足することでしょう。
ですが、根幹には相手の「私にとって、それはあって当然だ」、「こいつは私に奉仕して当たり前だ」と我欲があるわけです。
すると、相手は当然、「もっと便利なことが、私にあって当然だ」、「こいつは私に奉仕して当たり前だ」と思考をエスカレートさせます。
そして、次には「年賀状を作りたいのに、PCのこういうソフトが使えないの。大切な人に連絡できないと、苦しいの。あなたなら、30分もあればできるでしょ。だから少しだけやってくれない?」と、同じアプローチで攻めてきます。
こうして、さらに良心を利用して、少しずつ大きな作業負担を強いることになります。
10分の奉仕が30分になり、30分が1時間になり、1時間が1日になり、1日が1週間の奉仕となり……で、底なしに広がっていきます。
こうして「それをやらないと、相手を不幸に陥れる」と錯覚する
当然、私たちは相手の奴隷ではないので、全てを答えるわけにもいきません。
でも、断れば、1つめのトリックである「良心の呵責トリック」で、私たちに罪悪感を植え付けられます。
そして、相手は「ああ、なんて自分は不幸なんだ」と嘆けば嘆くほど、立場を強くできます。
一方で私たちは、それだけ「人を不幸にしている」という罪悪感に苦しんでしまうようになります。
すると、次には「なら、1日だけならいいでしょう?」とか、「1時間だけなら、30分だけなら、10分だけなら」という風に、時間を短縮して「これだけならいいでしょ」と、奉仕できるラインにまで落としてきます。
それで「仕方ない」とまた10分だけ助力したとしても、また直後に「ついでに30分、1時間、1日……」と要求してきます。
で、断れば「お前が私を不幸にしている!」と、良心の呵責を利用します。
この「たった10分に見せかけた、無限大の時間」、「少ない作業量に見せかけた、一生の奴隷」というトリック(相手を錯覚させること)で、他者を底なし沼に落とすわけですね。
これが、2つめのトリック「時間と作業量のトリック」です。
そしてこの「たった10分に見せかけること」が、次の3つめのトリックにつながってきます。
3つめの「精神的限界のトリック」
最後に、3つめの「精神的限界のトリック」が用いられます。
ここで問題なのが、相手は「たった10分でできること」という、短い時間や、少ない作業量で要求できることです。
すると、相手は「たった10分助けてくれるだけでいいのに、それをしてくれないなんて!」と、私たちを批難することができます。
でも、私たちには既に、「他者のために尽くせる時間と作業量の限界」を迎えています。
「その10分の我慢」が、既にできないんですよ。
だって、限界まで良心を発動させているんですから。
すなわち、私たちは10分ではなく、何時間、何日、時に何年、何十年という時間を費やして、限界点まで奉仕しています。
で、相手の言っていることは、実質「無限に奴隷として助けて欲しいのに、それをしてくれないなんて!」という内容です。
だけど、そこで「今まで何もしていなかったのに、その上でたった10分だけなのに、してくれない」と、精神的限界量を錯覚させています。
こうして「自分はゴミでクズだ」と思い込むようになる
だから、この錯覚にやられると、私たちは「たった10分のことも我慢できないなんて!」と思い込んでしまい、「自分はこんな10分も人のために割けない、ゴミでクズだ」と思うようになります。
でも、実際は違います。
限界点が1万時間だとすると、実際は「1万と10分も我慢できないなんて!」と言っていることになります。
「1万時間も我慢してるんだから、すごいやろ!」と言いたくなりますよね。
1万時間という積み重ねを、一気にゼロに感じさせてしてしまうのが、このトリックの恐ろしいところです。
私たちは、よくそういうことがあります。
「たった1年も会社を我慢できないなんて、自分はゴミでクズだ」
「たった1ヶ月も我慢してこの仕事をできないなんて、自分はゴミでクズだ」
「たった1日でも我慢して学校に行けないなんて、自分はゴミでクズだ」
たった1年、たった1ヶ月、たった1日しか我慢できないんじゃありません。
過去に10年、20年という膨大な奉仕を強いられてきて、その限界にいるから、10年と1日目、10年と1ヶ月目、10年ともう1年が我慢できなくなっただけです。
これって、超すごい我慢でしょ。
「自分はゴミでクズだ」と感じる錯覚
それに、「1日も我慢できないなんて、自分はゴミでクズだ」というのも、誤りです。
本当は、我慢する日は1日ではなく、「永遠に」です。
だって、1日我慢したとしても、その翌日には同じような日がまたあるんですから。
それは、エンドレスで続く搾取です。
この錯覚を外して適切な表現をすると、本当は「永遠に奴隷として生きられないなんて、自分はゴミでクズだ」と言っていることになります。
これが分かれば、「永遠に奴隷なんかやりたくないやろ!」、「永遠に奴隷になる方がおかしいやろ!」と言いたくなりますよね。
それだけ、私たちはトリックによって、感覚を狂わされているわけです。
その底知れぬ我慢と根気を、あたかも「今まで何もしてこなかった」と錯覚させること、そして「我慢ができないのは自分のせいだ」と思わせること、これが最後の「精神的限界のトリック」です。
本当は、相手の我欲が原因なのに。
それなのに、「悪いのは私たちだ」と錯覚させられてしまうわけです。
そして、「自分はゴミでクズだ」と思わされていることになります。
とんでもないトリック(精神的錯覚)でしょ。
まとめ
このトリックが分かれば、なぜ「自分はゴミやクズだ。生きていてごめんなさい」と感じるようになったのかが分かります。
「10分も我慢できない」って、普通に考えたら、やっぱり「そんな自分はダメな奴だ」と感じて当然です。
でもそこには、とんでもない錯覚を用いられて、搾取されているわけです。
「生きていてごめんなさい」、「生まれてきてごめんなさい」なんて、最高の良心の呵責ですよね。
良心が強いという優しさを持っているから、「生きていてごめんなさい」、「生まれてきてごめんなさい」感じるわけです。
そして相手はそれにつけ込んでいるんだと。
実のところ、「自分はゴミでクズだ」と感じる人は、限界まで奉仕してきている人たちです。
それほど人のために良心を持てる人が、ゴミやクズなわけないでしょう!
とても優しくて、素晴らしい人じゃないですか!
実際のところは、その良心を利用した、心理トリックに気づけなかっただけです。
ただ、だまされていただけなんだと。
これはトリックを3つも使っているという、超絶巧妙で、悪質な手口なので、うすうす「なんか変だ」と感じていても、論理で説明することはできなかったんじゃないかと思います。
でも、こういう風にトリックを明かすことができれば、その手口には引っかからなくなります。
だから、もう苦しむことはありません。
それは、相手が詐欺師だっただけです。
問題なのは、相手が「なくて当たり前」のものを、「あって当たり前」だと勘違いしている部分にあります。
私たちは、それを満たしてあげる必要はありません。
相手がどんなに嘆いても、「お前が私を不幸にしている」と良心を攻めても、このロジックが分かれば「相手が欲深いだけだった」、「詐欺だった」と理解できます。
すると、良心の呵責で苦しむこともなくなります。
このトリックを、是非理解してもらえればと思います。
これが分かれば、「自分は生きているだけで誰かを不幸にする存在だ」という劣等感が、「錯覚によって植え付けられた洗脳だった」と理解できるでしょう。
なら、「自分はゴミでもクズでもなかったんだ」と理解できるようになるんじゃないかと思います。
ということで今日は、なぜ「自分はゴミやクズだ。生きていてごめんなさい」と感じるようになるのか、というメカニズムのお話をしてみました。
できるだけ分かりやすくまとめたつもりですが、分かりにくかったら、また説明できればと思います。
長文になりましたが、最後まで読んでくださって感謝です!