今日も、精神的なお話です。
「自分のためと他者のため、結局どっちのために生きればいいの!?」と思った場合、どう考えればいいのか、そんなお話をしてみましょう。
「自分のためか、他人のためか」という問題
世の中にはよく、相反する教えがあるじゃないですか。
その一つに、「自分のために生きればいいのか、他人のために生きればいいのか」という相反する教えがあるように思います。
実際に、「他人よりも、自分のために生きなさい」と言っている人もいれば、「他人のためになれば、自然と自分の利益になるよ」と言っている人もいて。
いやまぁ、このブログでも、どちらにも触れているんですが(笑
ただ、行き詰まっている人からすると、「じゃあ結局、どっちがいいの!?」と感じるんじゃないかと思います。
自分のために生きれば周囲からの圧力があって苦しくなるし、他人のために生きようとすれば自分が犠牲になって苦しいしで。
それで結局、「どうすれば未来が開けるのか、分からない」、「どうすれば状況を打破できるのか、分からない」と感じて、頭を抱えているように感じます。
一番いいのは「自分のためにもなって、他人のためにもなる」
まぁ、シンプルに言うと、一番いいのは「自分のためにもなって、他人のためにもなる」という、重なり合う部分ですよね。
自分が好きでできることとか、喜んでできることをして、それで他人も喜ぶと、それがシンプルに素晴らしいと。
実際に、「他人のためになる」というのは、相手が喜ぶことで、こちらの利益にもなるものです。
「相手を喜ばせていれば、お金は後からついてくる」というのは、かなりの部分で当てはまる法則のように感じます。
でも、「自分のためにこうしよう」もしくは「他人のためにこうしよう」として、それで苦しいことがあるわけです。
じゃあこういう場合、どう考えればいいのか、ということですね。
で、結論から言うと、「その行動が本当に、自分のため、もしくは他人のためになっていることなのか」を考えてみましょうよ、ということです。
すなわち、「自分のために生きるか、他人のために生きるか」ではなくて、「その行動は、本当にためになっている行動なのか」という部分を、一度深く考えてみることです。
すると、「あ、そもそも自分のためとか他人のためとか言っていたけど、全然ためになっていなかった。だから迷っていたんだ」と分かるかな、と思います。
「ためになる」って、どういうこと?
そもそも、「自分や他人のためになる」というのは、どういうことでしょうか?
例えば「失敗しないこと」が自分や他人のためになると思っていた場合、本当に失敗しないことが自分や他人のためになるのか、ということです。
以前も触れましたが、ハイハイから立ち上がろうとした赤ん坊がこけた場合、「その赤ん坊にとってためになる行動」とは何なのか、ということです。
事業に失敗して落ち込んでいる人とか、失恋して哀しんでいる人に対して、「その人にとってためになる行動」とは何なのか。
「お金を与えること」、「他の人を紹介すること」、「忘れさせること」、「次は失敗しないように手助けすること」、それらの行動が、本当にその人のためになるのか。
自分にとっても同じで、「お金を減らさないこと」、「人から嘲笑されないこと」、「安全を選ぶこと」、「我慢すること」、それらが本当に、自分のためになることなのか。
こういうことを考えると、「意外と何が正解で、何が不正解か、単純には言い切れないことが多い」と分かるかと思います。
まぁ一撃死になるような危機は避ける方がいいでしょうが、短期的な生命の危機から離れるほど、正解と不正解が分かりにくくなるように思います。
例えば事業に失敗して落ち込んでいる人でも、落ち込んだことがきっかけで新たなビジネスを思いついたり、新たな生き方に気づいたり、自分らしく生きられるようになったりするわけです。
失恋したとしても、それで合わない人と離れられて、より自分に合う人と出会えたり。
悪い出来事が、将来にも悪いことになるとは限らない
すると、「悪い出来事が、将来にもずっと永続的に悪いことになるとは限らない」と分かります。
同じように、「よいと思ってやったことが、本当に相手の未来にとっても、永続的によいことになるとは限らない」とも分かります。
なら、「自分のためにする」、「他人のためにする」という「そのため」とは、本当にためになる行動なのか、よく分からなくなります。
で、私自身は、「正解なんて分からなくていい」と思うんですよ。
だって、それが未来にどうつながるかなんて、分からないんですから。
すると、「自分や他人のために、これをしよう」とか言っていたけど、「そもそもその行動に縛られる必要はないんだ」と分かります。
ある意味、「自分には何が幸せにつながるか分からないし、相手にとってもそれは同じ」ということです。
これが分かれば、「自分のため」とか「他人のため」という思考の制限から解き放たれて、より自由な行動ができるかと思います。
強迫観念を持つことほど、他人のためになっていない
だいたい、「他人のためにしなきゃ」とか強迫観念を持つことほど、他人のためになっていないものなんですよ。
本当に相手が喜ぶことなら、相手は大いに喜ぶし、感謝もしてくれたり、ビジネスなら喜んで対価を支払ってくれます。
相手が喜ばないことをしているから、苦しくなるし、感謝もないし、対価も得られないわけです。
ほら、よくいるでしょ、「これはあなたのためよ」とか言いつつ、自分の我欲を満たしたいがために、他者をコントロールしているような人が。
本当は、未来には何がいいことで、何が悪いことになるのかは明快には分からないのに、そんな風に「お前はこれが幸せだ」と、幸せの形を押しつけるわけです。
幸せの形なんて人それぞれだし、個性の強い人ほど、「自分の幸せぐらい、自分で決めさせろよ!」と言いたくなるかと思うんですが。
でも、それが分からずに、そういう「周囲の言う幸せが、自分の幸せになる」と信じてしまうと、苦しむことが多くなりそうに思います。
それは、「これが自分のためになる」、「これが他人のためになる」というその行動そのものが、間違っているからですね。
すなわち、私たちはそういう「これはあなたのためよ」という言葉に縛られてしまって、それで間違った行動をしてしまう、ということです。
「これはあなたのためよ」が本当にためになるのかの判断基準
で、そういう「これはあなたのためよ」という言葉が、本当に自分のためになるのかどうか、一つ分かりやすい判断基準があります。
それが、「その相手の言葉に従うのをやめると、相手が不平を言うか」ということですね。
相手が不平を言えば、それは「あなたのためよ」という衣を着た、「相手本人のため」であり、我欲で他者をコントロールするための嘘だと分かります
逆に、相手が不平を言わなければ、それは嘘ではない、相手の個性や経験に基づく判断だと分かります。
で、相手が不平を言わなければ、私たちは自分なりに行動できるので、苦しくはなりません。
相手が不平を言ったり、私たちの幸せに干渉してくるから、苦しくなるわけですよね。
すなわち、そういう「相手が我欲から私たちをコントロールしようとする嘘」が、私たちを苦しめているわけです。
単純に考えてみると、本当に「自分のためになる」もしくは「他人のためになる」ものなら、どちらを選んでも同様に、それをすれば心地よくなれるものです。
それは当然で、相手が本当に私たちのためになるものが分かっていれば、その「自分のため」は「他人のためにもなる」ものだと言えて、自分も他人も喜べるものになるんですから。
その逆の「他人のためになる」も同じで、本当に私たちが「自分の個性に合わせた他人のためになること」を教えられていれば、私たちは苦しむことなく、自分も他人も喜べることができます。
「ためになる」という嘘があるから、「それをしても、なぜか幸せを実感できない。むしろ苦しい」という現象を生むわけです。
だから、「他人のためにしなきゃ」と言いつつ、それで相手も自分も喜べない場合、それは他人のためになっていないと言えるわけです。
同様に、「自分のために」と言いつつ、相手も自分も喜べない場合も同じです。
そういう「○○のために」というのは、どちらを選べばいいのではなくて、どちらを選んでも苦しいなら、どちらも「よい手段ではない」と言えます。
まとめ
そんな風に、「自分のためと他者のため、結局どっちのために生きればいいの!?」と思った場合、「それが本当に、その人にとってためになっていることなのか」を考えてみるのもいいでしょう。
その「ためになる」という部分の哲学ですよね。
すると、「何がその人のためになるのかは、一概には言えない」と分かって、いろんな方向性を試せるでしょう。
そして、「○○のため」ではなくて、「こうすれば、うまくいくかも」と仮説検証をして、うまく満たされる行動を模索できるかもしれません。
だいたい、自分の幸せは、自分で決めればいいものですからね。
「自分の幸せは、自分で決めていい」と分かると、「相手や周囲の幸せも、相手に決めさせればいい」と分かります。
すると、他者の意見を尊重しつつ手放せて、いろんな方向性を含めて「自分は自分で、こうしてみよう」と試行錯誤できるかと思います。
ということで今日は、「自分のためと他者のため、結局どっちのために生きればいいの!?」と思った場合、どう考えればいいのか、というお話でした。
今日はここまで~。