昨日の記事に引き続き、今日も哲学的なお話です。
なぜ環境団体の言う「地球に、すべての生命に優しく」が嘘っぽく聞こえるのか、というお話をしてみましょう。
環境団体の言う言葉は、なぜ嘘っぽいのか
最近は、環境目標とか、環境についていろいろ取り上げられているじゃないですか。
よくあるでしょ、「地球に優しく」とか、「すべての生命に優しく」、「私たちの環境を守ろう」みたいな言葉が。
いや、具体的なものを挙げると、クレームが来そうなので言いませんが(笑
とりあえず言っておくと、私はゴミを減らすのも好きだし、結構環境については考えるタイプだろうと思います。
実際、「自給自足生活をしてみたい」というぐらい、小さく暮らすのが好きですからね。
ただ、そういう私からすると、上記のような「地球に優しく」系のフレーズって、なんだかちょっと反発心がわいたり、嘘っぽく聞こえることがあるように思います。
というのも、その言葉には論理の破綻があって、「発言者は、自分のことしか考えていない嘘つきだ」と感じるからですね。
なので、今日はそういう「自然や環境のこと、すなわちみんなのためについて言っているのに、なぜ自分のことしか考えていないと感じるのか」という原理について、説明してみましょう。
これが分かると、そういう反発心や嘘っぽさに振り回されることがなくなるかな、と思います。
「絶対善」は存在するのか
この原理は簡単で、昨日説明した「絶対悪」の原理と同じです。
言うなれば、昨日は「絶対悪は存在するのか」という話でしたが、今回はそれを「絶対善は存在するのか」という内容に言い換えただけに過ぎません。
だから、昨日と同様に、「(神様とかは除いて、普通の人間レベルでは)そんなものないだろう」と言いたくなって、反発心とか、嘘っぽさを感じてしまうわけです。
例えば、「地球に優しく」とか言っても、本当に地球レベルで考えると、地球からすれば、小さな生命のことなんてどうでもいいものです。
だいたい、地球の寿命は何十億年とかあって、生命なんて地球の表面のわずかな層に、短期間にほんのちょろっと生まれた付着物でしかありません。
すなわち、本当は「自分たちのため」なのに、それを「地球のため」と「無言の権威者」を騙(かた)り、自分の我欲を正当化していることになります。
だから、私たちは反発心を持ったり、「嘘っぽい」と感じるわけですね。
そこには、2つの欺瞞(ぎまん)があります。
一つが、「すべてを満たすことなんてできないのに、『すべての人や生命のため』と偽っていること」です。
そしてもう一つが、「自分の好みや我欲の話なのに、それをより大きな権威者の望みであるように偽って見せていること」です。
以下で、それぞれ詳しく見てゆきましょう。
1つめの欺瞞:「すべての人や生命のため」という偽り
1つめの欺瞞が、「すべてを満たすことなんてできないのに、『すべての人や生命のため』と偽っていること」です。
例えば「すべての生命に優しく」とか言っても、私たちは毎日、何か生命を食べて生きていることになります。
なら、食べられる側にとっては、優しくないでしょ(笑
米とか小麦、豆や野菜側からすると、「優しくするなら、私を食べないでよ!」と言いたくなると(笑
すなわち、「すべての生命」には、「米とか小麦、豆や野菜」は含まれていないように感じると。
ある意味、私たちは、他の生命とか、誰かの犠牲、他者の苦しみがある上で生活を成り立たせているものです。
それは人間だけでなく、米とか小麦、野菜みたいな食べ物、そして伐採する木とか、そこに住んでいる動物を犠牲にして、私たちは道具や生活環境を得ているわけで。
なのに、「すべての生命に優しく」なんて、不可能なことだし、犠牲への感謝がないように感じるんですよね。
「優しくしたいけど、そうできない相手もいる」という現実を前にすると、違う考え方になるはずです。
すると、「できるだけ優しくして、だけど犠牲には感謝しよう」というのが、共感性のある感覚のように思います。
「相手のことを考えているようで、考えていない」姿勢
それだけでなく、「私たちの環境を守ろう」とか言いつつ、環境を汚す会社や団体とか、自然生命を殺す組織には、批判したり対抗をしていますよね。
すなわち、「私たちの環境を守ろう」と言いつつ、「環境を汚す会社に属する人たちや、その家族たちの生活環境は守らなくていい。考える必要すらない」と行動していることになります。
だから、「私たちの環境」とか言いつつ、その「私たち」には、「自分たちの思想に反する人たち」は含まれていないと。
これって、とても排他的で危険なもののように感じるわけです。
すなわち、「すべての人のことを考えている」ように見せかけて、実際は「反論する相手や、それで苦しむ側のことを、まったく考えていない」と言えるんですから。
言うなれば、反戦主義者が「戦争をしてはならない。戦争をする奴は許さない。そういう奴はぶっ殺す」と言っているのと同じです(笑
そこには、「相手のことを考える」という姿勢がないんだと。
「本当に相手のことを考えるのなら、相手に対して、否定や批判はしないんじゃないの?」
「本当に相手のことを考えるのなら、ただ相手の困難に寄り添って、解決策を出し続けるスタイルになるんじゃないの?」
工夫ができて、共感性がある人ほど、そういう感覚を得るわけです。
だから反発心を感じるし、嘘っぽく聞こえると。
これが、1つめの欺瞞です。
2つめの欺瞞:大きな権威者の皮を被って偽っていること
もう1つの欺瞞が、「自分の好みや我欲の話なのに、それをより大きな権威者の望みであるように偽って見せていること」です。
だいたい、「地球のため」、「人類のため」なんて言葉は、壮大な正義のように見えるじゃないですか。
でも私たちからすると、「お前は地球の代弁者か!」、「お前は人類の代弁者か!」とか言いたくなりますよね(笑
少なくとも、反発している人がいる中で、「人類のため」と言うのは少しおかしいと分かります。
言うなれば、「あなたの幸せは、これです。私が言うことをすれば、あなたは幸せになります。だからこうしなさい」と、命令しているようなものです。
そんな価値観の押しつけって、嫌でしょ。
「自分の幸せぐらい、自分で決めさせろや」みたいに感じるわけです。
「環境のため」ではなくて、すべて「自分のため」
ある意味、「環境のため」なんてものはなくて、すべて「自分のため」なんですよね。
「地球や生命のために、生命を絶滅させてはいけない」ではなくて、「自分のために、生命を絶滅させたくない」なんだと。
環境を考えること自体には、別に問題はないんですよ。
むしろ、私も環境を整えるのは大好きだし、浪費は避ける性質ですからね。
問題なのは、それを「自然のため」とか「人類のため」、「地球のため」と、威を張って言ってしまうことなんですよね。
だから、「お前は地球の代弁者か」と反発心を感じるし、「本当は自分のためでしょ」と嘘っぽく聞こえると。
「これは、私のためです」とはっきりと言えば、すがすがしいんですけどね。
ただ、そう言えないのは、「他者をコントロールしたい」、「自分が正しいと思いたい」という欲求が陰にあるからかなと思います。
だって、「環境に配慮するのは、私のためです」と言うと、他の人の「地球を汚す行動」も、「その人のためだから」と言われると、許す必要があります。
でも、そんな「地球を汚す他者」を許せないし、自分の損失になるから、「自然のため」、「地球のため」と言っているように感じます。
これが、2つめの欺瞞になります。
結局、環境問題は「一つの正義」でしかない
まぁ結局のところ、昨日も触れたように、「戦争とは、正義と悪が戦うのではなく、正義と正義が戦うもの」かなと思います。
すなわち、「環境をよくしよう」という動きは、一つの社会における、一つの正義でしかない、ということです。
その辺で嘘をつかない方が、私のような自由が好きな人で、自分軸を持つ人には、すっきりして受け入れやすいように思います。
無理に壮大に見せなくても、「これが私の好みだ」でいい、ということですね。
私の場合、そういう「飾らない、その人なりの姿勢や言葉」が好きだったりします。
「私は好きで、ゴミを減らしてます。だって、気持ちいいんだもん」
「私は趣味で、太陽光とか、風力発電を研究してます。だって、低コストになりそうだし、面白いでしょ」
こういう言葉って、すがすがしくて、すてきじゃないですか。
そしてそういうものほど信頼できるし、試したくなるものなんですよね。
まぁ、大多数の自分軸がない人には、「人類のため」とか、正義や正当性を語る方が効果があるものです。
なので、そういうアプローチにしているんだろうとは思います。
まとめ
なので、背後にそういう原理があると分かると、反発心や嘘っぽさを理解できるようになるかと思います。
「他の人や生命を犠牲にして生きつつ、『すべての生命に優しく』なんて、なんか嘘っぽいよね」
「地球や人類のためとか言いつつ、突き詰めて言うと、自分のためだよね」
これが、反発心や嘘っぽさの根源かなと。
で、これが分かると、「確かに政治的には、正義にする方が効果的だ」と分かって、違和感を取り除けそうに思います。
すると、反発心や嘘っぽさにイライラすることなく、「あれは政治的な活動だ」と割り切って、自分の好きなスタイルに集中できるように感じます。
ということで今日は、なぜ環境団体の言う「地球に、すべての生命に優しく」が嘘っぽく聞こえるのか、というお話をしてみました。
今日はここまで~。