今日は生き方と心理のお話です。
「ほっとした時に、なぜだか急に泣きたくなる」という感覚を大切にしよう、というお話です。
おとといも似たようなことを話したんですが、私にとってはかなり大きな出来事だったので、少し視点を変えて改めて語ってみようかと思います。
「抑圧を洗い流す」という体験
この夏、私は心理的に結構大きな体験をしたんですよ。
それが、「今まで抱えていた心理的抑圧の多くを、洗い流せた」ということですね。
まぁ過去に何度もいろんなアプローチで抑圧を解決してきたので、当時のインパクトよりかは当然落ちるんですが。
でも、それでもまだ残っていて、今回はより心理的に分かりやすい解決方法にできたように思います。
「少しゆったり生きよう」という流れ
きっかけは、「少しゆったり生きよう」とし始めたことでした。
私は今年の頭から、以前から興味を持っていた金融業界に身を移しているんですが、おかげさまで理論構築もできて、検証段階に入れたわけです。
すると、後は成果を待つだけなので、さしてやることがなくなったんですよ(笑
同時に私は不労所得があるので、しばらくは何もしなくても生きられると。
それでこの初夏ぐらいから、「何をしよう?」と考えると、自然と「少しゆったり生きてみよう」という方向に進むようになりました。
今までずっと「価値を作ろう、生きた証を残そう」と戦ってばかりだったので、その反対方向の「くつろごう」という方向を試したくなったと。
私の好奇心が、そういう方向に動いたわけですね。
好奇心というよりも、「自分にはこれが必要だ」と静かに感じられた、と表現する方が適切かもしれません。
「自然に触れ続ける」という道
それで、この初夏から夏にかけて、「自分を満たすためのこと」以外はほぼ何もしませんでした。
主にやっていたのは、「自然に触れる」ということですね。
自転車で海まで出て、堤防を歩いて、誰もいないお気に入りの砂浜に立って、寄せては繰り返す波の音を聞きつつ、海を眺めて。
後は、趣味でこのブログを書いたり、いろんな場所をウォーキングをして楽しんだり、食事を作って、よくかんで時間をかけて味わったり。
そして夜も、変に活動せずに、夕食後は静かに窓から外の景色を眺める、みたいな。
そういう日々の繰り返しでした。
私にとっては、なぜこれが心地よく感じられるのか、なぜこれが必要なのか、さっぱり分からない状態です。
だけど私の中では、なぜか「これが自分を満たす」と分かっていたんですよね。
ある意味、私の魂が「そっちに行け」と叫んでいたと。
だから、「その先に何があるのか分からないけれども、進んでみよう」と、今までの生産性を高めることを手放して、未知なる方向に進んでみたわけです。
自然に触れ続けていると、気づいたこと
で、ある日、静かに海を眺めていると、ふいに気づいたことがあるんですよ。
それが、「何のために、ひたすら頑張ってきたのか」ということですね。
私の中では、それは「競争に勝ち続けるため」ではなくて、「落ち着いて、安らいで生きるため」でした。
「いつか安らいで、ゆったり生きたい」
だから、頑張って走り続けてきたんだと。
するとその瞬間、なぜだか分からないけれども、急に泣きたくなったわけです。
過去のいろんな苦しかった出来事が、抑圧していた感情がすぅっと胸の中から出てきて、それが涙として出てきたわけですね。
それはきっと、「こういう落ち着いた瞬間が欲しかったんだ」、「もう必死で戦わなくても大丈夫だ」と、心が分かったからじゃないかと思います。
心の底からリラックスすることで、「自分を守るための武器や戦い」は、必要ないと理解できたからじゃないかな、と。
もっと分かりやすい例で説明してみる
これは、こういう子を想定してみると分かりやすいかと思います。
幼い頃から虐待されて、「お前は必要ない」と思い込まされた人がいたとしましょう。
そして、「お前はこれをするぐらいしか価値はない。だからこれをしろ。そしてそれをさせてやる私に感謝しろ」と、相手を満たすことを強要されます。
本当は、それは親や支配者が「自分を満たしたいためだけに、子や弱者を無能扱いして判断力を失わせて、搾取している」という状態になります。
でも、幼い頃にこのような環境に触れてしまうほど、「それが搾取のためだ」とは気づけなくなります。
心の奥底では「何かがおかしい」と分かっているのに、何がおかしいのか、自分がおかしいのか、親や世の中がおかしいのか、分からなくなるわけですね。
それで、何を信じたらいいのか、どう生きればいいのか分からずに、痛みと混乱の中でもがくようになるんですが。
自分を守るための武装
でも、親が「お前は無能者だ」と扱って、行動を支配しようとすることには、抵抗する必要があります。
そのために、いろんな「自分を守るための武装」を持つ必要があります。
時には社会的に評価される能力を身につけて、社会から評価されることで、自分の価値を証明して「無能者ではない」と抵抗しようとしたり。
時には我慢をすることで、否定される苦しみや痛みをやり過ごそうとしたり。
時には必要以上に自己犠牲をすることで、「誰かのため」になろうとしてきたり、自分の無力感を満たそうとしたり。
でも、それらはすべて、「お前は無能者だ」という言葉を否定したいがために持った、「自分を守るための武装」でしかないわけです。
安らいで生きられる場所
ただ、その子が普通と違ったのは、「ここではないどこかに、安らいで生きられる場所があるんじゃないか」と考えて、その方向に進み始めたことですね。
その子は新しい価値観に触れるのが好きだったので、世の中の広さを求めたと。
そして世の中を知って、偶然にも、自分が好きでしていることを、心から喜んでくれる人たちに出会って。
それでもっと自分の好きなことをすると、相手からも好かれてしまったり、「あなたのファンです!」と言ってくれる人が出てきてくれたりして。
で、なんだか知らないけれども、無理をしなくても自分の存在で喜んでくれたり、楽しんでくれる人がいて。
すると、少しずつ無理を手放せて、自然体に戻れるんですよ。
「そこまで背伸びをする必要はない」とか、「無理をしなくても大丈夫だ」、「少し休んでから、マイペースで進んでも大丈夫だ」みたいに。
ある意味、「心の武装解除」をしてゆくわけですね。
大きなリラックスができる日
そしてどんどん安心してゆくと、ふいにある日、大きなリラックスができる日が来ます。
それは、思い切って長期休暇を取って、今までの「無理な価値作り、存在価値証明」をやめた時に起こります。
小高い丘に座って、自分を慕ってくれる人々が住んでいる場所を高い場所から眺めていると、「ここはいい場所だな」と分かります。
過去の「自分の価値証明をするために戦った日々」なんて、まるで嘘のような環境です。
そしてそんな環境のよさに改めて触れると、ぼとぼとっと「自分を守るための、多くの武装」を地面に落としていることに気づきます。
で、気がつくと涙が止まらないわけです。
それは、「もう、この武装で戦う必要はない。自分を守る必要はない」と実感で分かったからですね。
すると、今まで失ったもの、犠牲にしたこと、苦しいけど我慢したこと、泣きたかったけどその感情を押し殺したこと、そういうものがどっと出てくるんですよ。
で、「ここは、あの地獄ではない」と分かったとき、涙と共に、今まで抑圧していた感情をすべて出し切れるんだと。
まとめ
なので私の中では、抑圧を解放するのは、ポジティブさではないように感じます。
必要なのは、搾取される環境から出て、心の底からリラックスできる場に身を置けることですね。
「戦って勝つ」ではなくて、「悪魔から逃れて、落ち着ける場所で本当の意味で安らげた時に、戦う意味を失って抑圧を解放できる」ということです。
ある意味、「何のために頑張っているのか」ということです。
競争に勝ち続けるためなのか、それとも安らいで生きるためなのか。
そして、「価値を証明する」というのも、実のところ「自分を守る武器で戦っている」ということに過ぎません。
本当は、「安らいで生きたかっただけなんだ。武装解除をして、ありのままで生きたかったんだ」ということです。
そして自然に触れてリラックスできると、ようやく多くの「自分を守るための武装」を手放せたように思います。
同時に、抑圧も消えていたと。
そういう「ほっとした時に、なぜだか急に泣きたくなる」という感覚を大切にできると、幼い頃に背負ってしまった抑圧や思い込みを手放しやすくなるかもしれません。
ということで今日は、「ほっとした時に、なぜだか急に泣きたくなる」という感覚を大切にしよう、というお話でした。
今日はここまで~。