今日も人間心理のお話です。
苦しみへの意味や理由を求める時点でこじれている、というお話をしてみましょう。
昔、スタッフさんからの打ち明け話
もうだいぶ昔でうろ覚え状態なんですが、私がゲーム制作で独立して活動していた時期に、ちょっとしたことがあったんですよ。
私は学生時代に独立を目指すようになってから、人の夢や願望は否定せずに、受け入れるようにしていました。
まぁ私自身が、自分の夢や願望を実現したかったし、否定されたくなかった、ということもあるでしょう。
そういう風に他者の夢や願望を全肯定していると、たまにスタッフさんから打ち明けごととか、相談をされることがあるんですよ。
で、私はどう答えたらいいのか分からないながらも、「どう答えればいいんだろう」と頭をひねりながら答えていたんですが(笑
うまく励ませたこともあれば、うまく元気を与えられなかったこともあって、まぁいろいろありました。
そしてそれは、手伝ってくれたクリエイターさんから、ちょっとした相談というか、問いかけのメールをもらったことでした。
その人の内容によると、そのクリエイターさんは、過去に家族からひどい虐待を受けていたようで。
もう細かい内容は忘れましたが、もう私がびっくりするほどの、殴られるし蹴られるし言葉の暴力もあるしで、過酷な状況だったようで。
「どうしてこんなに苦しんでいるのに、うまくいかないんでしょうか?」
それで、私に問いかけるわけです。
「どうして私はこんなに苦しんでいるのに、うまくいかないんでしょうか?」みたいな。
小説とかイラストでも売れないし、精神的にも壊されているし、ちゃんとした仕事もできず、バイトも苦しいだけで。
内容としては、こんな感じだったように思います。
「私と同年代の人が、作家としてデビューして、売れて輝いている。どうしてあの人は、親から殴られもしないのに、苦しまないのに、うまくいっているんでしょうか?」
「どうして私はこんなにも苦しんで、痛めつけられなきゃいけないんでしょうか?」
「どうして苦しまない人があんなに豊かになって、苦しんでいる私がずっと苦しみ続けなきゃいけないんでしょうか?」
それはもう、「この世界には、神も仏もいない」と信じて当然の状況のように思います。
だって、毎晩殴られて蹴られて、自尊心も粉々に打ち砕かれていて、そこからなんとか作った物ですら壊されて、不安と恐怖で毎日おびえて、小さな希望ですら得られないんですから。
そんな中で、苦しまずに輝いている人を見ると、そりゃもう「神も仏もいない」と感じて当然のように思います。
私はどう答えたのか
そして私からすると、「こんなの答えようがないやん!」とツッコミを入れたくなるんですよ(笑
いや、こんなの答えられないでしょ!(笑
「苦しんでいる人が苦しんで、苦しまない人が豊かになる、その理由は何か」と問われても、私には分からないわけです。
それに、私よりもはるかに過酷な状況にいるんですから、私には安易に「分かる」とも言えないし、そもそも私の理解を越えた状況ですからね。
だから私は、こういう時は、こう伝えるようにしています。
「きっと哀しいだろうな、と思います」みたいな。
するとその方はその言葉に触れて、「ボロボロと涙が止まらなくなった」と言うわけです。
「ああ、私は哀しかったんだ」と気づいて、それで感情があふれ出てきて、その場で大泣きをしてしまったと。
きっと、「哀しい」という言葉に触れて、「あ、自分は哀しかったんだ」と気づいたんだろうと思います。
それで、私の言葉が「哀しんでいい」という許しになって、思い切り泣けたと。
で、「泣いたら少しすっきりしました」みたいに言って、少し元気になって、落ち着いていたんですが。
そして私自身も、珍しくいい回答になったようで、ほっとしたり。
意味や理由を求める時点で、こじれている
でも、こういうところに真実があるように思います。
それが今日の本題でもある、「苦しみへの意味や理由を求める時点で、こじれている」ということですね。
本当のところは、「私は哀しい。哀しかった。私は泣きたい」だと思うんですよ。
抑圧なんて、どれもそうですよね。
「本当は哀しくて泣きたかったけれども、泣けなくて胸の内に押し込めてしまった」というのが抑圧です。
だけど人は抑圧すると、そのために意味や理由を求めるようになるんですよ。
というのも、何らかの意味や理由、つまり「未来の利益」があることで、感情を我慢できるからですね。
例えば、「苦しいことがあれば、それだけ未来にいいことがある」とか、「苦しむほど人は成長する」、「それがいつか糧になる」、「それだけ優しい人になれる」みたいな。
そういう「未来の利益」と引き替えに、我慢をするようになるわけです。
それは「感情を我慢するための理由付け」でしかない
でも実のところ、それは「感情を我慢するための理由付け」でしかありません。
「未来にこういうメリットがあるから、今のこの感情を押し殺そう」という、我慢の正当化でしかない、ということです。
そして「未来にこういうメリットがある」と体系的に信じるほど、我慢に我慢を重ねていられると。
ただ、それは何も根本原因を解決していません。
我慢をしても、その後には今までの現状維持をすることがほとんどです。
そして人は、どんどん我慢をするために、「苦しさを正当化する思想体系」を作ってしまいます。
ある意味これは、代償欲求という奴です。
どんなにそれを得ても、満たされないものですね。
「泣く」と「思想を強化すること」どちらが効果的なのか
でも、ちょっと考えてみましょう。
本当のところは、根源は「私は泣きたい」だけなんですよ。
思い切り泣ければ感情がすっきりするし、抑圧も解決できます。
ある意味、とてもシンプルな解決策です。
じゃあ、「泣く方向性にうながすこと」と、「苦しさを正当化する思想体系をより強化して、より我慢させること」は、どちらが楽で効果的なのか、ということです。
すると、シンプルに「泣く」という方が、実は効果的なんじゃないかな、と思ったりもします。
逆に、「未来に得るかもしれない、幻想のメリット」をどんどん積み重ねても、何も解決しないし、我慢をさせるだけにしかなりません。
こじれとは、「我慢するための論理体系」
だから私の中では、「こじれ」とは「我慢するための論理体系」、「その場しのぎの思想体系」だと言えるように思います。
その場しのぎを続けることで、「苦しんで努力すれば、きっと未来にこう報われる」みたいに、「現実とは違う、不自然な原理」を作ります。
それが願望となり、「頑張れば報われる」と現実をゆがませて見せているように思います。
そしてこのこじれから、いろんな「不自然な教え」ができるように思います。
「無理にでも笑顔を作れば、セロトニンが出て幸せな気分になれますよ」と言って、笑顔を作って、自分から苦しい毎日に飛び込んだり。
「プラスの言葉を使えば、気分が上向きますよ。プラス言葉を使いましょう!」と言って、泣きたい気持ちを殺し続けたり。
「ポジティブでなきゃ! 絶対ポジティブ!」として、自分の気持ちを完全無視したり。
本当は泣きたいだけなのに、その根本原因から目をそらすことで、「どんなに実現しても満足しない欲求」が生まれると。
「ポジティブ」なんて、「どんなに実現しても満たされないもの」の象徴みたいなものです。
他にも、アルコールやドラッグ、依存症など、「足るを知らない」という依存的なものは多くあるものです。
まとめ
なので、苦しみへの意味や理由を求める時点で、「それは代償欲求を満たそうとしているだけなんだ」と知ることかなと思います。
実のところは、「私は泣きたい」だけだったりすると。
冒頭のクリエイターさんでも同じで、欲しいのは「苦しんだ人ほど、未来にうまくいく理由や確証」ではなく、「泣いてもいい許可」なのかなと。
なら、(14歳ぐらいの)反抗期以降の年齢の場合、抑圧を続ける意味はないように思います。
その「我慢するための思想体系」(=こじれ)は、持ち続ける必要はないものですよ、ということですね。
もちろん社会では、その場では泣けないことはあるでしょう。
でも、「家に帰って泣きわめいて、憂さ晴らしに枕を殴り飛ばす」ぐらいでちょうどいいわけです(笑
それを翌日以降にまで抑圧させることに、意味はないかなと。
それが、健康的で自然な行動のようにも思います。
で、その最初の「泣く」を実現するために、中期か長期でネガティブ側にゆっくり落とすのもいいように思います。
私がよく言う、ネガティブ側の波に乗る、ということですね。
「中~長期的な反抗期に入る」と言ってもいいでしょう(笑
するとネガティブ側に倒すほど、リラックスしてくるので、無駄なものを手放せます。
代償欲求のポジティブを求める必要もなくなるので、依存的なものや関係も手放せて、健康的になれます。
「ネガティブに入ると害になる」という錯覚が壊れて、「ネガティブに入ると自分を大切にして、健康的になる」という常識に変わります。
そして「長期的なリラックス度」がある程度以上になると、抑圧が出てきたときに素直に泣けるようになります。
なのである日、自然と「ふいに、なぜだか急に涙が止まらなくなる」みたいな現象を得ます。
そうやって抑圧を手放せると、自然に立脚した、健康的な状態を得られるようにも思います。
このメカニズムが分かると、ムダな「ポジティブ一辺倒の、現状維持をするだけの教え」を手放せて、泣くことで根本問題を解決できるかもしれません。
ということで今日は、苦しみへの意味や理由を求める時点でこじれている、というお話でした。
今日はここまで~。