今日も精神的抑圧についての人間心理のお話です。

抑圧を解放する時には「死と再生」が起きる、というお話をしてみましょう。

(2022年10月6日追記:図を分かりやすい版に置き換えました)

 

(注意事項)

なお、今回のお話は、「自分という人格の死」という、人によっては強烈な恐怖となる内容を扱います。

おそらくこのブログの中では、過去最大級の恐怖感を持つ内容になるかもしれません。

なので、気を確かに持って読み進めてください。

 

もちろん私の書く内容なので、最終的には「あれだけ恐怖を感じていたのに、現実はたったこれだけかよ! あの恐怖なんて、まやかしか!」というような結末です。

まぁ抑圧という内容そのものが、錯覚でしかありませんからね。

ただ、もし途中で強烈な恐怖を感じた場合、早めにこの記事は閉じるといいでしょう。

 

ちなみにここ最近はよく精神的抑圧について語っていますが、この夏ぐらいから続いたこの「夏の抑圧解放編」も、今回がおそらくクライマックスです。(最終回ではありません)

また、今日はかなりの長文なので、時間がある時にどうぞ。

 

抑圧を持つことで起きる「生き苦しさ」

昨日も触れましたが、私たちは幼い頃からの抑圧を持つことで、大人になってもいろんな不具合を持つものです。

「認められたい、評価されたい、愛されたい」、「完璧にできるようになりたい」、「自己否定をやめたい」、「自己肯定感を上げたい」、「フラッシュバックから解放されたい」みたいな。

 

ですがそれって、「自分の中にある、他者の価値観」がそれを求めているんですよね。

つまり、私たちの中には「自分本来の価値観」だけでなく、その中に「他者の価値観」が紛れ込んでいて、その「他者の価値観」が私たちを苦しめていると言えます。

 

本来なら、これは14歳ぐらいからの反抗期で、自然と不要になった「他者の価値観」を手放すものです。

ですが現代の社会システムではそれが難しいので、私たちは大人になっても「幼い頃からの抑圧」に縛られてしまいます。

だから、上記のような「自己否定をしてしまう。自己肯定感を上げたい」みたいな現象を持つことになります。

実際に自然の生き物でも、「自分の存在否定」をするのは不自然な状態だと分かります。

 

「抑圧を解放する」時には、強烈な恐怖を持つ

その場合、大人になってから抑圧を解放することで、つまり「自分の中にある、他者の価値観」を消すことで、私たちは自分の価値観で生きられるようになります。

ですが、この「抑圧を解放しよう」とすると、強烈な恐怖を持つものです。

他者目線で見れば「自然で正常な思考になる」というものなのに、主観視点で見ると「自分が死ぬ」という恐怖に感じます。

 

ならなぜそんな強烈な恐怖を持つのか、そして抑圧を解放する時にどういう感覚になるのか、今日は実際に主観目線で見てみることにしましょう。

 

それぞれの性格に、人格を与えると仮想する

この恐怖は、私たちが多重人格であることをイメージすると、分かりやすいでしょう。

私たちは、次図のような6つのポジションにおいて、人格を持つとします。

 

 

どういう風に区切ってもいいんですが、ここでは4つの人格があるとしましょう。

  • いつもの自分(他者の価値観ポジティブ): 最も「自分」を支配している人格。社交的で、ポジティブで前向きに価値を作ろうとしている「最も健康的で、あるべき姿」。
  • 快楽的な自分(代償欲求ポジティブ): 気分転換や憂さ晴らしが大好きな人格。意味のないこと、時に残虐や病的なことを楽しむ「止められない快楽主義者」。たまに出てきて遊ぶ。
  • 破滅的な自分(代償欲求ネガティブ): 自分を否定する、破滅的な人格。「お前は無価値だ」と、「いつもの自分」を最も攻撃する破壊者。最も排除したい人格。
  • 寄り添う人(自分の価値観のポジティブ&ネガティブ): 「いつもの自分」の最大の理解者。あまり口出ししないが、理解はある。自分からすると、よき仲間みたいな感覚。

 

「私」とはどういう人格か

私たちは、「私」であることで、自分を保っています

いやまぁこれは当然で、私でなくなると、自分が死んでしまいますからね(笑

私の中から「私の価値観」が死んでしまうと、この身体を別の意思が操ることになってしまって、私たちは自分が自分ではなくなってしまいます。

だから私たちは、「私が私であること」を大切にします。

 

ちなみに「いつもの私」とは、「他者の価値観のポジティブ」です。

ですが、時に「快楽的な自分」という人格が出てきて、憂さ晴らしをして遊んで、ストレスを発散させます。

それは無意味なことなんですが、その行動をやめさせることも難しいので、「いつもの私」は仕方なく受け入れている状態です。

 

ただし私たちは、自分の中にある「破滅的な自分(代償欲求ネガティブ)」を世界の中で最も嫌っています

その「破滅的な自分」はことあるごとに出てきて、「私」の存在を完全否定するからですね。

 

そうやって否定されるのが苦しいので、私たちはその「破滅的な自分」が大嫌いで、自分の中で押しつぶそうとしています。

ですが、つぶそうと否定すればするほど、その「破滅的な自分」は力をつけて、私たちを攻撃してしまいます

だから、私たちは「どうすればあの破滅的な自分を排除できるんだ」と悩んでいる状態です。

 

「普段の私たち」を作る3つの人格

つまり私たちは、次のような3つの人格がメインになっているわけです。

それが、「いつもの自分(他者の価値観ポジティブ)」と「快楽的な自分(代償欲求ポジティブ)」、「破滅的な自分(代償欲求ネガティブ)」の3つですね。

 

 

この3つが交互に出てきて、ポジティブになったり、自己否定を起こしたりします。

ちなみに自分の中には「寄り添う人(自分の価値観)」という人格もいるんですが、この人格は仲間みたいな温かい存在だけど、邪魔はしないのであまり気にしていません。

 

抑圧を解放する時に起きる恐怖

そしてそんな中で、「抑圧を解放すれば、『破滅的な自分』を消滅できる」と分かります。

原因は幼い頃からの抑圧を持っていることにあるんですから、その抑圧を解決できれば、私たちは楽になれます。

 

ですが、ちょっと考えてみましょう。

抑圧を持つ場合、その「いつもの私」というのは、「他者の価値観のポジティブ」という立ち位置になります。

だって、「私」は最も自分を支配している人格で、自分の人格の中では最も社交的で、ポジティブで、価値を作ろうと前向きに頑張って生きている存在なんですから。

 

抑圧を解放するというのは、「他者の価値観を手放すこと」です。

これは主観的に見ると、「他者の価値観を手放す」イコール「自分の死」になるわけです。

つまりそれは、「自分の中から、自分が死ぬ」ということを意味しているし、言い換えると「抑圧を消したければ、お前が死ねばいい」と言われているのと同義です。

そうすることで、「破滅的な自分」を消去できると。

 

でもこれって、自殺と何ら変わらない(ように感じる)ものです。

そんなの、絶対にできるわけがありませんよね。

だいたい自分が死んだら、意味ないんですから。

 

「自分という人格の死」という問題

だから、その「自分という人格の死への恐怖」が、抑圧をそのままにしている、最も大きな原因です。

実際に、「なんで一番頑張っていて、一番自分のために尽くしている『私』が死ななきゃいけないの!?」って感じますよね。

 

そしてそれこそが、錯覚なんだ、ということです。

ここまで来ると、「自分とは何か」という部分で、大いに恐怖を感じているかもしれませんが。

 

じゃあここから実際に、「自分という人格が死んで、新たな自分が生まれる」までの流れを、主観目線で追ってみることにしましょう。

すると、「自分が死ぬ恐怖」が錯覚で、「自分とは何か」が分かるかと思います。

 

反抗期を再現して、「他者の価値観」を殺す(自殺する)まで

昨日も触れたように、ここでは反抗期を再現して「他者の価値観を殺す(自殺する)」流れで見てみます。

「自然に触れつつ、すべてに対してネガティブになる」ことで、他者の価値観を殺すわけですね。

 

ところで上記では4つの人格に触れていましたが、1つだけ入っていない、すっぽり抜け落ちた価値観の人格があります。

それが、「他者の価値観のネガティブ側」です。

 

再度図を出すと、次図の「中央下側のネガティブ」です。

実際に多重人格者でも、この部分の人格はいないと思います。

 

「他者の価値観のネガティブ」という不可侵の聖域

それは抑圧を抱える場合、この部分だけは「不可侵の聖域」だと言えるからです。

というのも、その「他者の価値観のネガティブ側」に一歩でも足を踏み込んだら、「他者の価値観(いつもの私)」は消えてしまうからですね。

 

言うなれば、「他者の価値観のネガティブ」という人格は、「人格の大量殺戮スイッチ」だと言えるでしょう。

その人格に触れたら最後、「いつもの自分」と「快楽的な自分」、「破滅的な自分」が消滅するし、その大量殺戮者の人格そのものも瞬間的に死んでしまいます。

だから、自分の中にはそんな「他者の価値観のネガティブ」はいません。

 

反抗期は自殺とほぼ同じ

そして14歳ぐらいからの反抗期で「すべてに対してネガティブになる」というのは、言うなればその「他者の価値観のネガティブ」に踏み込むことと同じです。

つまり「反抗期の彼らは、(概念的に)自殺しているのとほぼ同じである」と言えます。

 

そもそも考えてもみてください。

その時期の反抗期では、「すべてに対してネガティブになる」という現象を抱えます。

 

すると、そんな「すべてに対してネガティブ(否定的)になる」というのは、反転させると「自分だけは、この世界には存在価値がない」と言えます。

「この世界はすべて無意味だ」という概念は、反転させると「私だけがこの世界で無意味な存在であり、それ以外は意味を持っている存在である。だから私がいなくなれば、世界はすべて整う」ことと同義です。

 

そして私たちの人格は、「価値観」だと言えます。

だから、「すべてに対してネガティブになる」イコール「(概念的に)自殺する」と同義だと言えます。

 

私が言っている「ネガティブな波に乗る」というのも、同じです。

それはある意味、「自分という価値観に反して、死に向かって歩く」ことと同義です。

 

「自殺」か「生きる」かの錯覚

だけどそこには、実は錯覚があります

それは論理的には「自殺」ですが、感覚的には「生きる」になるんですよ。

 

この違和感に気づけると、不思議な体験ができます。

そしてそれこそが、「抑圧を解放する」ということになります。

 

それでは実際に、ここからその「自分を死に向かって歩く、主観的な感覚」を説明してみましょう。

ここから実際に、私たちは「他者の価値観のネガティブ側」に踏み込みます

つまり、私たちは「自分という価値観の死」に足を踏み込みます。

 

もし途中で「やばい」と恐怖を感じたら、すぐに閉じてください。

 

それではここから、共に「他者の価値観のネガティブ」へと歩んでみましょう。

 

自分という価値観が死ぬ瞬間

自分という価値観が死ぬ瞬間、2つの「反転」があります。

1つめは、「他者の価値観のポジティブだった自分」が、「他者の価値観のネガティブ」に変化する瞬間の反転です。

2つめが、「他者の価値観だった自分」が「自分の価値観」に変化する反転です。

そしてこの2つは、ほぼ同時に起きます。

 

常識で考えると、私たちがすべてに対してネガティブになってゆくと、先述のように「自分だけがこの世界では必要ないと感じる」と予測するものです。

ですがそれは、「破滅的な自分(代償欲求ネガティブ)」が作っている「なじみのある感覚」でしかありません

言うなれば私たちは、「破滅的な自分」に慣れてしまっているから、それが「破滅的なものだ」と思い込んでいるわけです。

 

ですが実際に、自然に触れつつすべてに対してネガティブになると、不思議な感覚にとらわれます。

それが、「すべてを否定してネガティブになっているのに、私は受け入れられている」という実感です。

 

「否定をしているのに、受け入れられる」感覚

本来なら、その両者は成り立たないはずです。

「世の中のすべてを否定する行動」と、「私は受け入れられている感覚」という両者は、成り立つはずがありません。

だいたい、世の中では「否定したら、否定され返される」という理(ことわり)があるものです。

なのに、思考や論理では「私は世界に必要ない」となるはずなのに、実感や感覚では「私は心地よい。世界に受け入れられてゆく」と感じます

 

実際に、自然に触れている自分をイメージしてみるといいでしょう。

自然は私たちを、ありのままで受け入れてくれます。

例えば誰もいない夏の砂浜に座って海を眺めていると、イソシギも、カモメも、トンビも、魚たちも、ヤドカリも、精一杯生きていると分かります。

 

そんな中では、自己否定なんてありません。

私たちはネガティブになってすべてを否定しているのに、自然は大きく私たちを包み込んでくれています

自然に対して否定して、ののしって、どんなに悪態をついても、自然はすべての生命を受け入れています。

 

そこには、私たちが今まで知っている、「否定したら、否定され返される」という現象がありません。

確かに自然は、氷河や砂漠、火山など、厳しい側面もあります。

だけど目の前の自然だけは、どんなに否定をしても、私たち生命が生命として、生き生きと生きることを受け入れ続けます。

 

それに気がつくと、私たちは「自然」に対して、とても心地よい感覚を覚えます。

むしろ自己否定を起こしていたのは、「自然ではない何か」のように感じられてきます。

つまり私たちは、否定すればするほど、「それでも受け入れてくれる、心地よい自然」の方に歩いて行けるわけです。

だから私たちは心地よく、「どんどんネガティブになって、受け入れられる」ということができます。

 

私たちは、どちらを選ぶのか

言うなれば、これは論理と実感の対立です。

「私は世界に必要ない」となるはずの論理を重視するか、「私は心地よい。どんなに否定しても、自然だけは受け入れてくれる」という実感を重視するか、という対立です。

 

そこで私たちは、どちらを選ぶのか選択を迫られます

一つは、論理を重視して「元の世界に戻る」か。

もう一つは、「論理ではおかしいけど、実感や感覚でなぜか暖かさを感じる、その先の世界」に足を踏み込むか。

 

十分にネガティブになれていると、論理よりも、実感を信頼できます。

だって、「これだけネガティブになっているのに、受け入れてくれる存在」って、そりゃもう引き寄せられて当然でしょ。

 

その上、私たちは「死」に向かって歩いているはずなのに、身体の中からは不思議な「生」のエネルギーが出てくるんですから。

不思議とエネルギーが出てきて、その先には死があるはずなのに、深く生まれてくる「生」を感じます。

 

だから論理なんて関係なくなり、ふらふらとそちら側の世界に歩いて行くわけです。

 

こうして「反転」が起きる

すると、反転は突如として起こります

ある瞬間で、気がつくと私たちは「他者の価値観のネガティブ」に踏み込んでいるわけですね。

すべての価値観に否定的になれた時、おそらく一番最後に触れるのが、「他者の価値観のネガティブ」なんだろうと思います。

 

ちなみにその瞬間はいつになるのか、私たちには気づかないものです。

それは「寝る瞬間がいつなのか、分からない」というのと同じで、その絶対不可侵の領域に足を踏み込むのがいつになるのか、分かりません。

感覚的には、「心地よさに誘われて、歩いていたら、突如として反転した」というものになるでしょう。

 

次の瞬間、私たちの顔から、ぼとりと「仮面」が落ちます

その仮面が、「いつもの自分(他者の価値観ポジティブ)」の成り果てた姿です。

 

気がつくと、私たちはボロボロと涙を流しています。

涙をあふれさせて、「もう、自分を偽らなくていいんだ。もう、演技をしなくていいんだ」と分かります。

 

そして「これが私だ」と、今まで「寄り添う人」というポジションにいた自分が、本来の自分だったと気づくわけですね。

 

最初から「いつもの自分」なんて存在しなかった

つまり、最初から「いつもの自分」なんて存在しなかったんだと。

それは「私」が作り出した、仮面でしかありません。

 

だけど幼い頃にその仮面を必要として、それを外せなかったし、それを心から必要としました。

だから私たちは、「私はこれが私だ」と信じ込ませることで、今まで生き抜けたわけです。

 

でも、自然な感覚を取り戻した今、ようやくその仮面を外せたことになります。

それに気がついたとき、自分の中から「他者の価値観」と「代償欲求」は消えています

 

そして多重人格が解消されて、「私は私だ」と1つの人格に統合されるわけですね。

いやまぁ、「自分の価値観のポジティブ」と「自分の価値観のネガティブ」で2つの人格はあるかもしれませんが、それはあって自然なことです。

私たちだって、自分の中で「もっと遊びたい」、「でも眠い、限界、明日にしよう!」みたいな2つの価値観が対立することはありますからね。

だから、その2つはあっても大丈夫なものです。

 

そしてその2つはどちらも私たちを受け入れて、愛していて、自分自身を大切にしています。

自己否定なんて起こしません。

 

そしてようやく「死への恐怖」が錯覚だったと分かる

ここまでの流れを体験して、ようやく最初に感じていた「死への恐怖」が錯覚だったと分かります

そもそも、仮面をかぶって「これが私だ」とした瞬間に、こじれは始まっていたわけです。

それが、すべてのこじれを生む根源だった、ということですね。

 

そしてこれに気がついた瞬間、その仮面は「役割を果たした」と分かります。

だから、「今までありがとう」と、その価値観の死を受け入れられます。

 

確かにそれは、私たちを構成する一つの価値観でした。

だけど役割を失ったから、その価値観は死んだと言えます。

ある意味、「私」の中から一つの価値観が死んで、私たちの中で「本当の自分」が目を覚ました感覚です。

 

こうして抑圧の症状が消えている

こうして私たちは、抑圧の問題がすべて消えていることに気づきます。

ポジティブになる必要はなくなり、代償欲求を必要としなくなるし、自己否定をなくして、自分と他者の境界を理解できるようになっています。

 

また、言い換えるとそれは、「過去の損切りをした」とも言えるし、「自由(自分自身)を得た」、「もう頑張らなくていいと知った」とも言えます。

同時に、自分の中にある他者の価値観が消えているので、過去を思い出しても自分を責めることはなくなっています。

つまり、フラッシュバックも消えている、ということです。

 

もちろん、その「自分」は失敗もするし、失敗をすれば落ち込んだり、泣いたりすることもあります。

だけど、そこで自己否定は起こしません。

落ち込んで、泣いて、寝て、そして元気が出るという、自然なネガティブとポジティブのサイクルを回してゆけます。

 

すると、「落ち込まない、泣かない」とか、「完璧な自分になる」という必要はないと分かります。

自然でいい、ということですね。

抑圧を解放したら、「自己否定の逆の、完璧超人になる」のではなく、「自己否定をしないだけの、自然な状態になる」ということです。

 

これを理解できたら、きっと「自然に生きる」という意味が分かるかと思います。

 

まとめ

そんな風に、抑圧を解放する場合、ある種の「死と再生」が起きます。

その「死の恐怖」そのものが錯覚である、ということですね。

 

ネガティブに向かって歩く場合、本来なら自己否定しかないはずなのに、実際はある種の「自然には受け入れられている」という心地よさがあります。

そしてその心地よさを信頼するから、抑圧を解放できるように感じます。

言うなれば、「自然を信頼して、身をゆだねる」ということで、「偽りの恐怖」を手放すイメージです。

 

そして私自身、この夏にその流れを経験した、ということです。

 

私は、この体験を多くの人には広めようとは思いません。

だって常識で考えると、こんなの自殺と変わりませんからね。

特に論理が理解できない人ほど、嘘を紛れ込ませることで、結構簡単に自殺へと導けるでしょう。

また、少し間違えばどこからでも自殺につながるという、絶妙なバランス感覚を要求される道のりです。

 

だけどそれでも私は、私がたどった道を、ここに残しておこうかと思います。

世の中には、きっと私と同じように、抑圧やフラッシュバックで苦しんで、なんとかして解決したいと思っている人もいるかと思います。

 

そのわずかな人のために、この夏に私が経たこの道のりを、ここに残しておきます。

変わりたい人で、自分に合わせて工夫ができる人ならば、きっとこの地図を元に、うまく自分なりの道を作れるかと思います。

 

だからこの内容が、誰か一人にとっての未来につながれば、それで幸せです。

 

ということで今日は、抑圧を解放する時には「死と再生」が起きる、というお話でした。

もうちょいで、今回の「夏の抑圧解放編」は最終回です。

今日はここまで~。

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