今日はちょっとだけ哲学的なお話でもしてみましょうか。
内容は、「『現実』を生きている人などいない」というお話です。
私たちは、「現実そのもの」は認識できない
よく、「現実を見ろ」とか、「現実的になれ」とか言いますよね。
「そんなことで、この世を生きていけると思うのか」みたいなニュアンスで言われるわけですが。
そういう「現実」を語る人には、夢を描かない人が多くて、批判的でネガティブで現状維持が大好きな人が多いんですが。
でも、その「現実」って何?ってことですね。
この世界に、「現実」なんてものは存在するのか。
こんなことを言うと、「え? 現実って存在しないの?」みたいに思うかもしれませんが。
そもそも「現実」っていうのは、私たちが共通して存在する厳然とした物質世界、いわゆる究極の「実在」的な意味合いで使われるわけです。
でも、実は私たちは、現実そのものを認識できているわけではないんですよ。
私たちは、目の前にあるものを、フィルターを通して見ることで、認識できるわけです。
よく言われるたとえ話が、物質を構成している原子って、原子核と電子でできてるじゃないですか。
でも、原子核と電子って、すっごい隙間だらけなんですよ。
原子核がピンポン球サイズだとすると、電子が回っているのは東京ドームサイズの場所になるって言うんですから。
いわば、この世界には「物質」なんてものはほとんどなくて、私たちの体でも、机でも、紙に書かれた文字でも、全てスッカスカの状態なわけです。
でも、私たちにはスカスカには見えませんよね。
それはただ単純に、光がその空間を通り抜けられないからなんですよ。
私たちの目は、網膜で光を受け取ることで、見ているんですから。
つまり、「本当はスカスカな世界」なのに、私たちの目には「ぎっしり詰まった世界」に見えてしまっているわけです。
人は、「違い」でしか「実在」を定義できない
これと同じで、「実在」っていうのは、ただの概念ですよね。
で、少し哲学的で抽象的な話になりますが、その概念というものは、「違い」から生み出されます。
というのも、「存在する」というのは、「存在しない」という対極の概念があるから、初めて生まれるわけです。
「同じもの」というのは、私たちの世界には存在しえないんですよ。
この辺の詳細は、「前向きスピリチュアル」に書いてますが、例えば、小石と人間しかいない世界があったとしましょう。
すると、その人にとっては、「小石は私ではない」と違いが生まれるから、「小石」と「私」という概念が生まれます。
そこに「鳥」が入ると、「小石は鳥ではない。鳥は私ではない。鳥は小石ではない」となって、「小石と私と鳥」という風に、「鳥」という概念が追加されます。
また、「鳥と私は動くが、小石は動かない」という風に、「生物と非生物」という概念も生まれるでしょう。
で、そこで鳥が死んだらどうでしょう。
「動いていた鳥が、動かなくなった」と、「動いていた時」と「動かなくなった時」という、二つの時間の状態が生まれます。
こんな風に、私たちは「違い」からしか概念を、すなわち実在を認識できないわけです。
すなわち、「違い」というフィルターを通さなければ、現実を認識できないんですよ。
「現実」なんてものは認識できない
じゃあ、「現実」なんてものは、私たちの世界からなくなってしまいますよね。
だって、私たち人間には、「フィルターを通して見えるもの」しか見えないので、誰も「現実そのもの」を知ることはできないわけですから。
「小石と人間」しかいない世界で、いきなり「小石は花崗岩でできている」とか、「私の体は細胞でできている」とかいうような、より詳細なレベルの概念を認識することはできませんよね。
これは言い換えると、「違いが認識できない、より詳細なレベルの実在は、私たちの世界(認識)には存在しない」わけです。
そして、人々が持つ「現実」、すなわち概念というのは、個人個人が勝手に作り出すものです。
その人が認識できる「違い」でしか、世界は見えないんですから。
だから、究極を言うと、「私たちは、誰も『本当の現実』なんか見えませんよ」ということです。
みんな、好き勝手にフィルターを通して、自分勝手に現実を認識しているだけです。
そのフィルターというのも、その人が勝手に作り出したフィルターでしかありません。
だから、「私は正しい」なんて人はこの世界にはいない、ということです。
名探偵コナンがアニメの冒頭で「真実はいつも一つ!」とか言いますが、それは実在論的にはおかしいですよと(笑
「真実」なんて、人の数、すなわちフィルターの数ほど存在する、ということです。
以前に統合失調のお話をしましたが、統合失調症の人には、霊が「見えている」んですよ。
じゃあ、10人の人がいて、その中の9人の統合失調症患者が、よどみのある場所を指して「そこに何かいる」と言ったとしましょうか。
そんなとき、正常な一人にとっては、自分が正常かどうかなんて分かりませんよね。
ひょっとすると、その正常な一人が「私には何も見えない。私がおかしいんだ」と、「異常」になる場合だってあるんですから。
同じように、周囲がイスラムの原理主義で、「自爆テロ最高!」っていう環境で、自分だけが「そんなのよくないよ」と思っていても、自分が異常だと感じてしまうと。
「醜いアヒルの子」では、アヒルの社会で生まれた白鳥の子は、「自分だけがダメな子だ」と感じてしまうわけです。
私たちの感じ方も、これと同じです。
それぐらい、私たちの世界というのは、あやふやな状態なわけです。
「正しい」とか「私たちから見た現実」というのは、いとも簡単にゆがめられてしまうものです。
つまり、私たちの世界はフィルターを通して形作られる、ということです。
「フィルター」を変えれば、世界が変わる
ですが、これは裏を返すと、私たちは、フィルター次第でいくらでも世界を変えられる、ということです。
「この世界は、お花畑だ」と思えば、お花畑のように見えます。
「この世界は、死と病と苦しみで満ちている」と思えば、死と病と苦しみが満ちているように見えます。
「現実を変える」とか、「世界を変える」、「革命を起こす」とか言いますが、そんな現実世界を変えるのは、簡単です。
自分のフィルターを変えればいいんですから。
それだけで、世界は簡単に変わります。
だから、何かに悩み苦しんでいたとしても、「それは現実ではありませんよ」ということです。
フィルターが、そう見せているだけです。
現実を見ている人など、誰一人いないんですから。
言うなれば、全ての人は、夢の中を生きているようなものです。
個人個人が勝手に夢を作り出して、夢の中で喜び、哀しみ、怒り、泣いていると。
そしてその「夢」というのは、私たちがいくらでも変えられるものです。
明晰夢みたいなもので、たまーに「自分で展開を作れるすっごいいい夢」とか「おいしい思いをする夢」とかありますよね(笑
自分で夢の内容を作れるんですから、起きてから「夢なら、なんであそこでああしなかったんだ!」と悔やむこととかあるでしょ(笑
私たちが意識しているこの世界でも、まさにそれと同じです。
世界は、いくらでも変えられるということです。
ただ単純に、フィルターを変えればいい、ということですね。
で、そのフィルターというのが、「自我」であり、「価値観」だということです。
まとめ
人間にとっての「現実」なんか存在しないので、「世界」とは、私たち一人一人が勝手に作り出しているものです。
で、価値観を変えれば、世界はいくらでも変わりますよと。
ってことで、今日はちょっと哲学的な、「現実」のお話をしてみました。
今日はここまで~。