今日は、心理学というか、心のメカニズムについてお話ししてみましょうか。

「完璧主義でいい」と思えるようになったこと、というお話です。

以前も似たような話をしましたが、ちょっと考え方の修正を加えたので、語り直しをしてみようかと(笑

 

完璧主義は、よくないことなの?

以前の私は、「あんまり完璧主義はよくない」と思ってたんですよ。

ほら、人は寛容な方がよさそうじゃないですか。

ガミガミと目くじらを立てる人よりも、ゆったりとしておおらかで、寛容な方が立派に見えますよね。

「許せる人」というのは、精神的にも立派なように見えるじゃないですか。

だから、私も「許せるようになりたい」とずっと思っていたわけです。

 

でも劣等感を解決したという出来事があってからか、最近の私は、「完璧主義でいいや」と思えるようになったんですよ(笑

「それが自分なら、この自分で生きればいいやん」みたいな。

 

例えば私は本を書いていますが、完璧主義だからこそ、しっかりとした理論を作れたり、誤字脱字を撃退することができるわけです。

でも、ここで寛容になっちゃったら、「別に少々ミスがあってもええやん」となりますよね。

いや、実際に世の中には、一度書き上げたら、一度もチェックもせずにリリースする人とかいるんですよ(笑

その「寛容さ」は、いい悪いというのではなくて、「場に合わない」というものですよね。

「作品をリリースする」という場に合わない態度である、ということです。

 

じゃあ、「完璧主義の人が力を大いに発揮できる場」と、「寛容な人が力を大いに発揮できる場」があると分かりますよね。

精密なことを要求される場では、完璧主義がいいと。

逆に、入り乱れてカオスな状態では、寛容な方がいいと。

ならば、「性格の問題ではなくて、それは場の問題である」、という考え方ができるわけです。

 

言うなれば、「自分の性格は悪くない。場が悪い」ということです(笑

 

「寛容さ」は、先天的なもの

実のところ、完璧主義とか寛容さとかは、ほぼ先天的に決まっています

この度合いは結局のところ、脳内でのドーパミン感受性によって決まってしまいます。

 

ドーパミンは脳内での興奮物質なんですが、その感受性が高い人ほど、刺激に敏感になります

例えば、読書とか脳内イメージみたいなものは、刺激は少ないものです。

刺激への感度が高い人ほど、そんな小さな刺激でも「心地よい」と感じられます。

一方で、ジェットコースターとかドロドロの人間関係とかには、刺激が強すぎて不快に感じてしまいます。

部屋の中でも、ゴミとか散らかっていると刺激になりやすくて、不快に感じやすいと。

こういうドーパミンの感受性が強い人は、文化的でおとなしい活動を好むようになり、内向的で、部屋も整っていて、細かいことにこだわる、完璧主義になりやすいわけです。

 

また、こういうタイプの人は、側頭葉(記憶を司る部分)が活発に動くために、過去の出来事をよく覚えています。

だから、トラウマを抱えがちで、過去に縛られやすい性質を持っています。

 

一方でドーパミンの感受性が弱い人ほど、刺激に鈍感になるという、いわゆる「ニブい人」になります

ちょっとやそっとのことでは興奮できないので、ジェットコースターや強い運動、野外活動やドロドロの人間関係などの、強い刺激を求めます。

普通の活動では刺激が味わえないために、タバコを吸うことで刺激を味わうことも多いものです。

刺激に対して鈍感なので、部屋が散らかっていても「別に気にしない」となります。

同時に、人に対しても寛容です。

こうして、体育会系で外向的で、刺激を強く求めて、タバコを吸って、部屋が汚いという、「刺激に寛容な(ニブい)人」になるということです。

 

こういうタイプの人は、頭頂葉(運動をする領域)や後頭葉(主に視覚的な処理をする領域)が活発になり、側頭葉(記憶を司る部分)はあまり動きません。

だから、過去のことをすぐに忘れたり、水に流すことができると。

 

繰り返しますが、このドーパミン感受性は「先天的なもの」です。

努力して感度を変えられるようなものではありません

 

すると、「許せない場合は、許しなさい」という教えは、ちょっとおかしいことが分かりますよね。

それは言うなれば、先天的に足が不自由な人に、「歩けない場合は、歩きなさい」と言っているようなものです。

言われた側の人は、「歩きたい。そして『歩きたい場合は歩け』と言われた。みんなも歩けている。でも私は歩けない。ああ、私はダメな奴だ」と思い込んでしまうわけです。

そうじゃないんだと。

完璧主義でよくて、人を許せなくていいんですよ。

努力して許せるものではない、ということです。

 

社会維持型と、境地開拓型

以前も触れましたが、私はこれを、「社会を維持するための人たち」と、「境地を開拓する人たち」という二種類がいることで、引き起こっていると予測しています。

種を広げるには、社会を維持するだけではなく、新たな場所に広がることが大切ですよね。

もし一ヶ所だけに固まっていたら、その場所に天災でも起こって生きられないようになれば、全滅ですからね。

だから、種の中でも、ある一定量の割合で、境地開拓に向いた性格になるような遺伝子が発動するわけです。

 

そういう境地開拓型の人(感受性が高い人)は、実際に境地開拓に向いているんですよ。

孤独に強くて、少数もしくは単独で行動しても、全く苦にはなりません。

目的を持った行動が好きで、無意味なことや、単調な作業は大嫌いです。

境地では小さなリスクが命取りの上に、生き延びられる保障がないので、リスクへの感度が高く、危険を察知しやすくて、リスクを恐れます。

でも、一つの方向に決めたら、その方向にまっしぐらに進んで、新たな領域を開拓することに幸せを感じるようにできてます。

教訓を得ることが重要なので、過去の記憶を強く呼び覚ます傾向にあります。

 

一方で社会維持型の人(感受性が鈍い人)は、「群れる」ことに向いています

みんなと群れるのが好きで、安心できて、お祭り騒ぎが好きで、一人になるだけでつまらなくなったり、ストレスを感じます。

基本的に「何をやっても退屈」なので、単調作業や同じ毎日の繰り返しでも、苦になりません。

集団でいるので、リスクを気にせずに、時に剛胆な性質になります。

でも、その剛胆さは「ニブい」の裏返しで、「社会から出て一人で境地に出向く」といった、生産的なものではありません。

「酒に強い」とか、「大食らい」、「早飯」、「我慢比べ」といった、意味や生産性が全くない鈍さになり、そんな無意味なことを誇るようになります。

 

ただ、その「鈍さ」が、「他の人を許せる」という裏返しだということですね。

 

なら、「社会」という場所においては、当然のごとく「社会維持型」の人が集まっているわけです。

だから、その場では、「許せる方がいい」、「完璧主義ほどダメ」、「ぼっちはダメなこと」、「周囲への根回しが大切」、「酒に強い方がいい」、「不健康自慢がいい」、「ジェットコースターやバンジージャンプを楽しめる方がいい」みたいな価値観になると。

 

でも一方で、「境地」という場所においては、当然のごとく「境地開拓型」の人が集まっています。

だから、この場では、「精密な方がいい」、「完璧に仕上げるほどいい」、「信頼できる少数の人とだけ付き合う方がいい」、「根回しよりも、単独もしくは少数の人で、積極的に動く方がいい」、「健康がいい」、「生産的な活動がいい」という価値観になるわけです。

 

性格が問題ではなくて、場が問題である、ということ

私たちは、そのどちらに属するかを選べる、ということですね。

性格が問題ではなくて、場が問題だということです。

 

境地開拓型の人が社会にいると、当然苦しくなるでしょう。

「許せないとダメなのに、私は許せない」、「私は一人が好きなのに、ぼっちだとあざけられる」、「好きなことがあるのに、やりたいことがあるのに、周囲が認めてくれない」となるわけです。

逆に、社会維持型の人が境地にいると、これも苦しいでしょう。

「もっと正確さを求められるのに、できない」、「みんな好きなことをしろというのに、自分には好きなことが分からない」、「自分で考えて動けと言われるが、一人では動き出せない」となると。

 

ほら、男女の恋愛関係でも、「捨てる側」と「捨てられる側」がいますよね。

「いつも捨てる側」と、「いつも捨てられる側」というのがいるものです。

これも、捨てる側は感受性が高いので、ちょっとの違和感で不快に感じて、相手を捨てることになるわけです。

逆に捨てられる側は感受性が鈍いので、自分は全くOKなのに、気づかずに相手を不快にさせてしまっていて、捨てられていくわけです。

 

鈍いタイプの人同士は、結構相性がいいんですよ。

だから、集団で社会を維持することに向いていると。

逆に感受性が高い人は、許せないんですよね。

だから、「維持する」のはストレスで、できるだけ少数の人たち、もしくは単独で「目指したい」になるわけです。

 

まとめ

そんな風に考えると、人の性質が分かりますよね。

「完璧主義」というのは、先天的なものなんだと。

そんな人が「社会の価値観」を持つか、「境地の価値観」を持つかで、苦しむか、楽しめるかが変わるということです。

 

だから私は最近、「許せない」でOKを出すようにしてます。

わざわざ許そうとしないわけですね(笑

すると、「他の人のことをとやかく言い続けていると、この境地では自分に跳ね返ってくるだけだ」って分かりますよね。

すると、相手のことを「あの人は社会の価値観でいる人だ、境地にいる人ではない」と意識から追い出せて、結果的に許せるようになるわけです。

 

境地と社会で区切ることで、ありのままの自分でいられて、ストレスなく生きられるようになると。

だから、「完璧主義でいいんだ」と思うようになった、ということです。

そして少数の信頼できる人と付き合い、クリエイティブなことをして、ストレスなく、楽しんで生きることができていると。

自分の性質に合った場にいることで、楽しく生きられる、ということですね。

 

「社会の外には、境地がある」ということです。

社会の中にいる人は、「境地に出たら、生きてゆけない」と言うでしょう。

それは正確に言うと、「社会維持型の人が、境地に出たら、生きてゆけない」ということです。

「境地開拓型の人が境地に出たら、信頼できる人と巡り会えて、最高に楽しくて幸せで、能力を発揮できて、人に喜んでもらえて、豊かに生きられるようになる」ということです。

 

もちろん、私のように、境地でもさらに誰も通ったことがないような場所にまで出る必要はありません。

境地でも、その中で少しだけ身を社会側に置いて、境地を開拓する人たちをサポートする、そういう立ち位置もあるでしょう。

そんな風に、「立ち位置の問題である」ということですね。

その位置が自分にとって絶妙な場所だと、一気に「ここが私の天職だ」と感じるようになるかと思います。

 

ここのブログを読んでいる人は、多くの人が、感受性が強いタイプだと思うんですよ。

こういう考え方をすると、楽になれるんじゃないかな、とも思います。

 

ということで、今日は「完璧主義でいい」というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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