今日は作業も早めに一段落したことですし、久しぶりにちょっとしたお話でもしますかね~。

ある社会心理学者の本を読んでいて、ふと面白いお話があるのを思い出したので、そのお話です。

 

「一は全、全は一」とは何か

今回は、「一は全、全は一」について、説明してみましょう。

キリスト教みたいな一神教では、「一は全、全は一」という考え方があります。

漫画「鋼の錬金術師」でモチーフにもされていましたので、知ってる人もいるかもしれません。

 

これって、一神教的な「神」と同じ事になるんですよ。

つまり、この奥義を知ることが、神を知ることでもある……みたいな感じなわけです。

これってどういうことなのか、その解説でもしてみましょう。

 

さて、「一は全、全は一」とはどういうことなのか、その説明ですね。

ちょっと抽象的な話になりますが、これは「世界の法則をどのように見るか」という話になります。

 

そのためにも、まず最初に「この世界で最も大きなもの」を考えてみましょう。

「この世界で最も大きなもの」って何でしょう?

この世界には原子があって、分子がありますよね。

もっと大きくなると細胞があって、さらに大きくなると人間とかあって、もっと大きくすると地球とか、太陽とか宇宙とか、どんどん大きなものがありますよね。

 

で、宇宙よりもさらに大きなもので、究極まで達した一つのものがあると想定しましょう。

すると、その「最も大きなもの」というのは、たった一つだけあることになります。

 

ここで、一神教的な考え方が入ります。

この世界に、「世界を支配する一つの法則」があるとします。

この世界は、何か分からないけど、究極的には一つの絶対的な法則で動いているという考え方ですね。
重力も一つの法則ですし、量子力学とかも法則ですよね。

そういうそれぞれの法則を生み出す、「究極の法則」があると考えます。

 

すると、「この世界で最も大きな一つのもの」というのは、すなわち「究極の法則」そのものですよね。

「一つのもの」なんですから。

だから、「この世界で最も大きなもの」というのは、「世界を支配する一つの法則」になるわけです。

 

一方で、「この世界で最も小さなもの」を考えてみましょう。

私たちの体は分子や原子でできてるわけですが、これら分子、原子、クオークよりもさらに小さな「一つのもの」があるとします。

すると、この世界のありとあらゆるものは、その最も小さな「一つのもの」で構成されていることになります。
すなわち、「最も小さな一つのもの」というのは、「世界を支配する一つの法則」ですよね。

一つのものが世界を動かしてるんですから。

 

こんな風に、「最も大きなもの」と「最も小さなもの」というのは、究極的には全く同じものを指すことになるんですよ。

これがつまり、「全(最も大きなもの)」と「一(最も小さなもの)」が同一である、という意味になります。

 

そして、その「世界を支配する一つの法則」を「神」と呼ぶことにしましょう。

つまり、神というのは、この世界の最も大きなものであり、最も小さなものであるということですね。

つまり、私たちの体も神で構成されているということですし、世界は全て神なわけです。

仏教的には、この「神」を「仏」と呼びますが、「仏」の意味合いもこれと同一です。

 

これが、すなわち「一は全、全は一」ということなんですよ。

「私たちは既に神(仏)であり、世界は神(仏)であることを知る」というのがそういう意味合いになったりします。

だから、「一は全、全は一」であることを知るというのは、「神と同化する」という宗教的な奥義を得る、というモチーフにもなったりします。

物語では、これを知ると、神の力を得たりしますよね。

 

身近にある「一は全、全は一」のモチーフ

こういうのは、キリスト教みたいな一神教の宗教観によく出てくるものです。

日本みたいに八百万(やおよろず)といった、神様がいっぱいいるような場所ではあんまりなじみがないかもしれません。

 

ただ、仏教ではこういうモチーフも多いので、結構身近にもあったりします。

例えば仏教では「合掌」っていう作法がありますよね。

これは、右手は最も清らかな「仏」を表して、左手は最も俗な「自我」を表すわけです。

ですが、その対極な二つが一つに合わさることで、世界の全てを表し、仏と一体であることを感じるわけですね。

これも、「一は全、全は一」と同じ象徴になります。

 

同じように、神社には狛犬がいます。

神社だから神道かと思うかもしれませんが、狛犬は大陸から輸入されたものなので、元々の神道ではないんですよ。

その狛犬は、一つは口を開いていて「あ」を語っていて、その対となるもう一体は、口を閉じて「ん(うん)」ですよね。

これは、インドで起こったサンスクリット語の最初の音(あ)と、最後の音(うん)なわけです。

まぁ日本に来てから発展した部分もあるかもしれないので、五十音の最初(あ)と最後(ん)でもいいです。

 

神社では、狛犬(あ)を起点、狛犬(うん)を終点として、神社をぐるっと取り囲むように結界が張られています。

狛犬(あ)は、世界の始まりを表します。

狛犬(うん)は、世界の終わりを表します。

世界の始まりと終わりが結びつくところというのは、「最も大きなもの」と「最も小さなもの」が結びつく場所と同じで、そこは「神の領域」なんですよ。

 

だから、神社では、そこに神の通り道があるわけです。

神社の道(石畳)っていうのは、人間が通るものではなくて、実は神様の通り道なんですよ。

神社は神様の住む場所ですからね。

だから、人は石畳の端っこか、もしくはその横を「通らせてもらう」ものなんです。

 

で、そういう「最も大きなもの」と「最も小さなもの」が結びつく「神の道」を通って、私たちは神社に入らせてもらうことができるわけです。

神社の結界の中は、「あ」から「うん」までの中にあるという、始まりから終わりまでが全て結界の中にあるということで、「世界の全てが含まれる完全なる領域」として象徴されます。

だから、狛犬の内部は結界で守られているので、穢(けが)れが入ることができない、清浄な空間なわけですね。

これも、「一は全、全は一」の象徴の一形態です。

 

神社で狛犬の間を通る時、「神の領域を通してもらって、結界に入れたんだ」と感じてみましょう。

神様の通り道を使わせてもらうことで、完全なる世界に入ることができたんだ……と。

こんな風に考えると、結構面白いでしょ。

 

まとめ

ま、こんな風に、「一は全、全は一」というのは、「神」とか「世界の全体」を指すモチーフとして多く用いられます。

こういう風に、実は神社とかお寺とかは、結構意味があるものなんですよね。

そういうのを知っていると、神社巡りも実はすっごく楽しくなるので、また機会があったらそういうお話でもしますかね~。

 

今回のお話はここまで。

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