心に起因する心の苦しみって、やっぱりあるんですよ。
ほとんどが、過去にあった出来事に対してそれを思い出して苦しむ……ってやつです。
実は心が健康な人はそういうのがないんですが、心が不健康な人は、もう常日頃からずっとこれに苦しめられているんですよ。
今回のお話でそのメカニズムを知って、解決の糸口にできるんじゃないかと思ったりします。
今回はそんな、いかにも心理学っぽい「自我欠損」についてのお話です。
心が健康な人は、過去に苦しむことはないんですよ。
恥ずかしい出来事や大失敗でも、「まぁ仕方ないやん」みたいな感じで簡単に終わらせちゃうことができるんですよ。
私が知ってるすごい人で、叶井俊太郎さんという人がいるんですよ。
その人の妻は落ち込みやすい性格なんですが、妻が「失敗した……」と落ち込んでいる時に、彼はこう言ったんですよ。
「大変だね~。でも俺って人生で失敗したことがないからな~」
すかさず妻がこうツッコミを入れるんですよ。
「あんた去年、会社倒産させて自己破産したでしょ!」
「あ、そっか。そういうこともあったっけ」
って、からっとしてるんですよ(笑
会社の社長をやってたんですが、会社を倒産させて何億円という負債を抱えて、債権者に頭を下げまくって、叱られまくって、最後には自己破産までしたんですよ。
でも、1年も経ってないのに、もうけろっとしてるんですよ(笑
悩まない人っていうのは、これぐらい悩まないんですよ(笑
でも、悩む人っていうのは、何年前ものどうでもいいようなことをずっと悩んだりして、苦しむわけですね。
なら、なんでこんな違いが出てくるのか。
ここから少し、心理学の用語が出てきます。
私たちの心の中には、「超自我」と「エス」という二つの要素があり、その二つの上に「自我」というものがあります。
超自我というのは、社会的な規範意識だと思っておけばいいでしょう。
「こう行動すべきだ」「こうであるべきだ」という、「他の人や周囲のための行動」というものです。
一方でエスというのは、「自分はこうしたい」というものですね。
自分自身の欲求です。
古いですが、ミスチルが「es~Theme of es~」という歌を歌ってましたよね。あのエスです。
「イド」とも言うんですが、ここではなじみのある「エス」で説明するとしましょう。
そして自我っていうのは、超自我とエスを制御する、信号機のようなものです。
(自我と超自我はなんか似てて、超自我の方がなんかすごそうに聞こえますが、全くの別物だと思っておきましょう。
また、仏教用語で「我」があって「自我」と文字面は似てますが、我とも全く別物だと思っておきましょう)
例えば「お腹空いた」という現象が起こった場合、「授業中だから弁当は食べちゃいけない」っていう規範意識・社会常識を伝えるのが超自我です。
一方で「ばれなきゃいいよ。早弁しちゃえ」っていうように自分の欲求を伝えるのがエスです。
そこで、自我は超自我とエスの両者の欲求を聞いて、「お昼まであと10分だから、我慢しよう」とか、「あの先生はこっち見ないし、まだ2時間目だから 鞄にあるチョコでもこっそり食べちゃおう」とか、状況によって適切な判断を下すわけですね。
自我が、超自我とエスを支配しているわけです。
そして信号機のように、あるときは超自我の意見を採用して、あるときはエスの意見を採用して、適切な行動をしていくわけですね。
心理的に健康な人っていうのは、この自我が正常に機能しているんですよ。
一方で心理的に不健康な人っていうのは、この自我が働いていない(正確に言うと、「育っていない」)わけなんですよ。
この「自我が育っていない」ことを、「自我欠損」と呼びます。
自我が育っていなかったらどうなるのか。
超自我の「こうすべきだ!」という内容と、エスの「こうしたい!」という内容を上手く制御できないから、その両者の振り回されることになるんですよ。
例えば、上司に怒られた。
超自我は、「社会人たるもの、我慢するべきだ」と思うんですよ。
同時にエスは、「くそっ、嫌味でも言ってやればよかった」と思うわけですね。
でも、超自我は「いや、そんなことをしたら評価が下がる」、エスは「関係ねーよ! 知ったことか! あんな奴死んでしまえ!」とか思って、心の中で両者が対立したままなんですよ。
本来なら、自我が状況を判断して「あの状況なら仕方ないよ」と超自我とエスを制御するんですが、自我が育っていない人は、超自我とエスが暴走するしかないんですよ。
そして心の中で超自我とエスが対立して、しまいにゃ心の中でボコボコの殴り合いをし始めるんですよ(笑
自我は力がないから、それを止めることもできず、心の中でずーっと、ずーっと対立して、次第に心が疲れていくんですよね。
「私はこうしたいのに」「できなかった」「私はこうすべきだった」「あいつはこうすべきだ」「こうしたい」「しちゃいけない」「私はああしたかった、でもできなかった」
……こういうものの無限ループなわけです。
そうして最後には、「もう、何もかもが疲れた」になるんですよ。
心が不健康な人っていうのは、こんな風に、過去に起こった多くの出来事に対して毎日、まさに「四六時中」この心のケンカをしてるんですよ。
そりゃ、疲れない方がおかしいですよね。
だから、心が疲弊して、ちょっとのことで落ち込んだり、やる気がなくなったりするわけです。
それは、毎日「ただ生きているだけ」でも、血をだらだら流しながら生きているような、そんな苦しみを背負っているということなんですよね。
なので、健康な人と比べて「根気がない奴だ」と言うのはちょっとおかしいですよね。
自我欠損の人は、何もしていないだけでも、常に苦しみ続けているんですから。
じゃあ、なんで自我が育たなかったのか。
それは、ほぼ母親の問題になります。
細かいプロセスまで言うと長くなるので省略しますが、自我というのは、受け入れられることによって育つんですよね。
だけど、母親から「いい子にしていたら好き」「だけど悪い子だと嫌い」というように、「条件付きの愛」を受けていた場合、自我が育たないわけです。
本来なら、「いい子でも悪い子でも、貴方(自分の子ども)は好き」というのが本当の愛なんですよね。
ほら、昔は悪いことをした子どもに「悪いのはこの手か!」って言って、手をぴしゃっと叩いたりしたじゃないですか。
これは、「その子は悪くない、手が悪い」というように、その子自体の人格を否定しないようにしていたんですよ。
でも、母親は「いい子の貴方は好き、だけどそうでないのは嫌い」となると、子どもは常に「いい子」でないといけないんですよ。
だって、子どもにとって母親から愛されないというのは、生命の危機なんですもの。
だから、生き延びるために、必死で「いい子」になろうとするわけですね。
そして自分で判断する能力、すなわち自我を捨ててでも、生き続けようとするわけです。
すなわち母親の保護を得ようとするわけですね。
こうして、「状況によって自分で超自我とエスを判断する能力=自我」が育たない、自我欠損の子ができあがります。
自我欠損というのは、劣等感と同じ意味合いです。
なので、自我がない人は、強烈な劣等感も持つわけです。
自我が育っていなかったら、どうなるのか。
超自我とエスの制御ができないから、状況も考えずに、そのどちらかの強烈な欲求に、心と行動を支配されるんですよ。
何か腹立たしいことがあった場合、超自我が優先されたら「~~すべきではないですか!」と相手を責めたり、「人を責めちゃいけない、私がなんとかしなきゃ」と相手の問題でも自分を犠牲にしたりします。
一方で、もしエスが優先されたら、「殺してやりたい!」とか「酒飲んでハイになろう」になるわけですね。
人によって、どちらが優先されやすいかという傾向はあります。
超自我を人に向けるタイプか、自分に向けるタイプか、エスを人に向けるタイプか、自分に向けるタイプか、の4つですね。
エスを優先させるタイプの人は分かりやすいですよね。
エスを他人に向けるチンピラとかそうですよね。
目が合っただけで、「なんやワレ!」みたいな(笑
こういうタイプの人は、不良になったりするので自我欠損だというのが分かりやすいんですよ。
少しは社会的な規範を身につけろと言いたくなりますよね(笑
エスを自分に向けると、過食とかアルコール中毒、薬物などの依存症になります。
もしくは、自分を傷つけるようになります。
自分を責めて、苦しむ(と同時に快楽を得る)わけですね。
一方で超自我を優先させるタイプの人は、それを他人に向けると、規範意識で人を攻撃します。
「~~すべきだ」という言葉を多用して、規範に照らし合わせて攻撃をします。
そして超自我を自分に向けると、人を傷つけることを恐れて、自分を殺して、自分を犠牲にして犠牲にして生きるタイプになるんですよ。
この超自我を自分に向けるタイプは、「自分を出せないタイプ」になります。
特にこのタイプが、いじめられっ子になります。
子どもの頃でも、戦わなきゃいけない時っていうのがあるんですよ。
馬鹿にされた時、大切なものを傷つけられた時、そういう時は殴りかからなきゃいけない時もあるんです。
でも、超自我を常に優先して自分に向けるタイプの人は、エスを出せない。
だから、殴りかかれない。言い返せない。
そしていじめがエスカレートしていくわけですね。
ほら、昔、頑固オヤジが子どもに対して「やられたならやり返せ! それまで帰ってくるな!」っていうのは、そういうことなんですよ。
でも、実はオヤジ(本質的には母親が持つ支配性)に原因があって、オヤジも母親同様に頑固で支配的だから、子どもは親に服従するしかなくて、自我を育てられなかった……というのもあるんですが。
とはいえ、傾向はあるものの、自我欠損の人はこれら4つのタイプを全て持つものです。
そして、時によって、違うタイプを出すこともあります。
例えば、先に「いい子」も自我欠損だと説明しましたよね。
時々ニュースとかで殺人事件とかあって、「あんないい子だったのに、なぜ……」とか言いますが、いい子だからなんですよ。
自我欠損なんですから。
超自我とエスを抑えられないんですから。
なので、普段は超自我が優先されていてただただ自分を犠牲にするだけだったんですが、あるときに強烈にエスの方に傾いたら、人だって殺しちゃうんですよね。
自我が、両者を制御できないから、そうなっちゃうんですよ。
だから、「いい子」も不良と同じぐらい不健康なんですよ。
余談ですが、攻撃性が他人に向けられるとS(サディスティック)になり、自分に向けられるとM(マゾヒスティック)になります。
だから、SもMも共に不健康で、「SでありMである」ってのもありえるわけですね。
過去に悩んだり、苦しむのは、自我が育ってないからということです。
人に何か言われて傷つくのも、心が苦しむのも、全部自我欠損が問題なんですよ。
だから、心理学的観点から「苦しみを解決して安らぎを得る(幸せになる)本質的な方法」は何か。
それは、超自我を優先して「~~すべきだ」という理想を追求することでもないんですよ。
エスを優先して「もっと我が侭に、自分を出せ」という自分の要求を満たすことでもないと。
実は、その上にある「自我を育てる」ことなんですよ。
超自我を優先させても、エスを優先させても、確かに一時の欲求は満たされるでしょうけど、それは一時しのぎにしかならないと。
多くの不健康な人が、超自我かエスのどちらかを常に優先させて、片方に圧倒的勝利をさせることで、戦いを終わらせようとしてるんですよね。
でも、負けた方(抑え込まれた方)が少し休んで体力を戻すと、また戦いが始まっちゃって、エンドレスで心の中の戦いは続くんですよ。
本質は、自我が機能していない、自我が両者を支配できていないことにあるんですから。
なので、「心に振り回されて疲れる」ということが起きるんですよね。
なら、自我を育てるにはどうすればいいのか。
これがとても重要なんですが、どの本を読んでも、最高の答えは見つかってないんですよね。
ただ、私が考える、いい方法を紹介しておきます。
自我欠損ということは、自我を育てる必要があると。
すると、心の中での対立が消えるわけですね。
そのために、「超自我とエスがケンカしている」ことを認識して、「意識的に両者のケンカをやめさせる」ことです。
心の中でボコボコの殴り合いをしている両者に、「やめろーっ!」と飛び込むわけですね。
私はこういう状態で、「くつろげよ」とか「忘れろよ」いうのは逆効果、もしくは効果がないと思います。
だって、何もしなくても戦いは続くんですから。
お風呂に入っても、食事をしていても、頭の中はずっと対立でいっぱいなんですから。
忘れたくても、忘れられないんですから。
だから、心が疲れている状態で、さらに意識的に「気を張って」、戦いをやめさせるんですよ。
これは正直、疲れます。
「既に疲れている人にさらに気を張れとか、お前は鬼かっ」とか言われそうですが(笑
ですが、これが私の中では現状では一番だと思うんですよ。
もちろん最初は自我が弱いので、止めたとしても、両者のケンカは止まりません。
ただ止めようとしただけ体力を使って、さらに疲れたような感覚もするでしょう。
ですが、何度も何度も、根気よく続けていると、自我に力が付いてくるし、超自我やエスとの付き合い方も分かってくるんですよ。
すると、「~~すべきだ!」っていう思いが強い場合は「こういう例外だってあるだろう」と言って丸め込んだり、「殺してやる!」という場合は、「とりあえず枕殴ってすっきりしようぜ」とできたりするんですよ。
そうしていくと、次第に疲れを減らしていくことができるんですよね。
まぁ、これは私の実体験も元にしてるんですが(笑
こんな風に、精神的に苦しむ人は、「自我が育っていないんだ」と認識することで、その解決の糸口にできるんじゃないかと思ったりします。
いつもは専門用語は使わない日常用語で分かりやすいお話にしてますが、まぁたまには専門用語を使うのもいいですよね(笑
長くなりましたが、今日はここまで!