今日は、思いっきり精神的なお話です。
「お前は恵まれた環境に生まれてきただけだ」という言葉に含まれる矛盾について、お話ししてみましょう。
「頑張れば何でもできる」への反発心
SNSとかを見ていると、実力でのし上がった人が「頑張れば何でもできる」、「願いが叶わないのは、お前の努力不足だ」的な発言をすることがありますよね。
そしてそういう場合に、よく次のような反応があると思うんですよ。
それが、「『何でも自力でできる』という人は、自分が恵まれた環境に生まれてきたことを知らない」、「お前は恵まれた環境に生まれてきただけだ」という反応ですね。
以前も触れましたが、例えば北朝鮮に生まれた場合、なかなかその境遇から出られないわけです。
そういう環境で「自力で成功する」というのは、かなりの難易度になると分かります。
それとか、例えばアフリカの紛争地帯で生まれ育った子は、裕福な家で生まれ育った子と比べても、やはり「できないこと」があるものです。
他にも、例えば離婚してシングルマザーになって、「子供を食べさせなきゃ」と目先の仕事をこなさないといけない場合、やはり余裕が作りにくくて、なかなか現状から出にくかったりして。
独立タイプと、雇われタイプの考え方の違い
そういう現実を前にすると、やはり「環境によっては脱出しにくい状況もあるのに、何でもできることはありえない」と感じるものです。
だから、「自力が大切だ」という人に対して、攻撃したくなるんだろうと思うんですが。
例えば以前、誰かが「こんな日本は終わっている」と言ったときに、堀江貴文氏が「日本が終わってるんじゃなくて、お前が終わってるんだよ」と言っていたんですよ。
これ、独立タイプの人なら堀江氏の意図が分かるんですが、雇われタイプの人にはさっぱり分からないんですよね。
それで、いろいろ反論があったようで、それもまさに「恵まれた環境に生まれただけだ」という反応かなと思います。
その言葉の内にある矛盾
ただ、私の中では、そういう「お前は恵まれた環境に生まれてきただけだ」という反応を見るたびに、いつももやっとしていたんですよ。
「うーん、何かそれも違うよな」と感じて、なかなか言葉にできなくて。
私はどちらかというと、「環境を変えるよりも、自分を変える」というのがメインスタイルなんですが、何か私の中でうまく論理がかみ合わないわけです。
ただ、現実問題として、やはり変えられない部分もあるわけで、そう言いたい人の気持ちも分かると。
で、最近になって、ようやくその矛盾というか、「かみ合わない理由」を論理で言えるようになったように思います。
なので、今日はそれについてお話ししてみようかと思います。
本当は「誰か、私を助けて」と言いたい
結論から言うと、そういう人は「お前は恵まれた環境に生まれてきただけだ」と攻撃したいのではなくて、本当は「誰か、私を助けて」と言いたいんじゃないかと思います。
「私は自力ではなかなか脱出できない状況にいます。いくらもがいてもダメです。だから、誰か助けて!」
それを言いたいのに、世の中にそれを言うと、反撃が返ってくるわけです。
「他の人も頑張って我慢しているんだから、お前も我慢しろ」とか。
「お前よりも苦しい状況にいる人がいるんだ。お前はまだ恵まれているのに、そんなことを言うなんて、甘えている」とか。
そういう風に、「我慢しろ」とか「甘えだ」と他者と比較されてたたかれてしまうことで、素直に「助けて」と言えないわけです。
だから、そういう人ほど、他の人と同様に攻撃してしまうと。
「自分がされたくないことは、他人にもしない」の正反対バージョン
これはまさに、「自分がされたくないことは、他人にもしない」の正反対バージョンだと言えるでしょう。
すなわち、「自分がされたくないことを、他人にどんどんしている」という自己矛盾に陥るわけです。
「お前よりも苦しい状況にいる人がいる。お前は恵まれているのに、そんなことを言うなんて」と攻撃されたくない。
だから、「お前よりも苦しい状況にいる人がいる。お前は恵まれているのに、そんなことを言うなんて」と、まったく同じセリフで他の人を攻撃すると。
そうして、「そういう言葉で攻撃されたくないし、傷つけられたくもない」というものを自分が使って、相手を攻撃して傷つけているわけですね。
矛盾だらけの言葉
まぁよくよく考えると、その「自分が恵まれた環境に生まれてきたことを知らない」という攻撃は、矛盾だらけだと分かります。
もしその言葉を言葉通りに受け取ると、それは「もっと弱者に配慮しろ」というメッセージだろうと思います。
でも、じゃあその発言者が「弱者に配慮しているか」というと、ほとんどの場合でそんなことはありません。
というのも、本当に弱者を助けようとしている場合、目上の人を攻撃するようなことに時間を使いたくないからですね。
「どうすれば、もっと多くの人を助けられるだろう」と考えて、知識や経験、お金や時間を、自分よりも弱い人のために分かち合うものです。
「弱者を助けろ」と言う人ほど、弱者を助けていない矛盾
実のところ、「お前は恵まれた環境に生まれてきただけだ」と攻撃する人ほど、より弱者から見ると、まさにその「恵まれた環境に生まれてきている」ことに気づいていないわけです。
だって、世の中には、いろんな弱者がいますからね。
どんなに自分が劣勢でも、もっと貧しい人がいるし、苦しんでいる人がいるものです。
なら、本当にそういう人を助けたいなら、「自分よりも力がある人で、自分がコントロールできない人」に時間を割くなんて無駄だと分かります。
そして、なんとかして自分にできる範囲で、助けてあげたくなるものですよね。
たとえ助けるだけのお金がなくても、本当に弱者を助けたいなら、いろんな希望が出るメッセージとか、言葉とか、知識や知恵、可能性を教えてあげたいものです。
すると、「こうするといいかも」、「こういうアプローチもあるよ」と、いろいろと提供できると思うんですよ。
なのに、そういう「自分が恵まれた環境に生まれてきたことを知らない」と攻撃する人ほど、愚痴とかねたみ、強者批判のメッセージばかり発信してますから。
それは「自分が得るためだけのもの」でしかなくて、誰も助けようとはしていないと。
すなわち、攻撃している本人が、「より弱者から見ると、自分が恵まれた環境に生まれてきている」ことに気づいていない、ということです。
こじれを認識できると、根本対策ができる
もっと簡単に言うと、こじれているわけです。
ストレートに「誰か、私を助けて」と言えればいいのに、それができないから、代わりに攻撃してすっきりすると。
でも、冷静になって考えてみると、そういう攻撃をしたところで、豊かになれるわけがありませんよね。
本当は助けが欲しいのに、攻撃をしているんですから。
すなわち、このこじれを自分で認識できていれば、「攻撃は一時的な憂さ晴らしでしかない。根本問題は別にある」と分かって、根本対策ができます。
なのに、こじれていることに気づかずに、「これが正義だ」と自己正当化をして、自分で信じ込んでしまっているわけです。
そしてそういう人たちは、何一つ根本対策をせずに、「傷つけられたくないから、傷つける」という争いの毎日を繰り返すと。
だから、永遠に現状から抜け出せないし、そういう人たちが集まって、永遠に傷つけ合うと。
仏教では「無間地獄(むけんじごく)」という「永遠に苦しみ続ける状態」というものがありますが、私からすると「まさにその無間地獄だな」と思ったりもするんですが。
まとめ
なので、「何でも自力でできるという人は、自分が恵まれた環境に生まれてきたことを知らない」という言葉には、そういう矛盾があるように思います。
すなわち、その言葉自体がこじれているわけですね。
そしてその言葉を発しても、その先にあるのは「傷つけられたくないから、傷つける」という、争いの無間地獄なんだと。
実際に、冷静にSNSのそういう世界を見ると、まさに争いの世界でしょ。
「本当は、私は助けが欲しかったんだ」、「『助けて』と言うと、批判されそうで恐れていたんだ」と素直に理解できると、この「争いの無間地獄」から抜け出しやすくなるように思います。
「助けをどういう形で得ようか」、「批判に対してどう対処しようか」と分かれば、いろいろと模索できますからね。
今なら、電子書籍で簡単に学ぶこともできるし、YouTubeでもいろんな人の経験談や発想も学べるし、いろんなブログもあるものです。
「批判せずに相談に乗ってくれそうな人も、身近にいる」と気づくかもしれません。
そうやって、こじれに気づいて自分の心に素直になるほど、根本的な対策をしやすくなるかなと思います。
そういう人から、現状を出て行けそうにも思ったりもします。
ということで今日は、「お前は恵まれた環境に生まれてきただけだ」という言葉に含まれる矛盾について、お話ししてみました。
今日はここまで~。