今日は、精神的なお話です。
なぜ断言した方がウケがいいのか、なぜ私は断言したがらないのか、その理由を語ってみましょう。
インフルエンサーほど断言する傾向
ちょっとしたまとめ記事があったのでご紹介。
「専門家は言い切らないが、インフルエンサー的存在は断言するので後者を信用する」人もいる事をどう考えればいいのか(Togetter)
内容はというと、「専門家は言い切らないけど、インフルエンサーは断言するので、多くの人がインフルエンサーの言葉をうのみにしてしまう」という内容です。
まぁこの背景には、きっとコロナウイルスへの対応の仕方とか、その辺があるんだろうと思うんですが。
これって、確かにありますよね。
「断言した方が、一般的にはウケがいい」という現象です。
一方で、私はあんまり断言することはしないんですよ。
じゃあなぜこういう現象とか、スタンスの違いが出るのか、説明してみましょう。
人は自分の頭で考えたくない
なぜ断言した方がウケがいいのかというと、人は自分の頭で考えたくないんですよね。
「考える」っていうのは、多くの負荷がかかるし、しんどいわけです。
「考える」だけでなくて、「自分を見つめる」とか、「自分の内面を探る」みたいな作業って、膨大な負荷がかかるし、疲れるわけです。
いやまぁ、人によっては、いろいろ考えるのが好きなタイプもいるんですけどね(笑
私とか、「これってどういう原理で動いているんだろう?」みたいに、いろいろ頭に負荷をかける方が心地よくて。
「ジョギングとか、ウォーキングが好き」みたいなのと同じです。
そういう風に、心地よい負荷がある方が好きな人もいるにはいるんですが、大多数の人は基本「何も考えずに生きたい」です。
考えずにすむ方が、楽
以前、サラリーマンに「なぜ毎日、しんどい会社に行くのですか?」と訊いたインタビューがあって、それで面白い答えがあったんですよ。
それが、「なぜ会社に毎日行くのかというと、昨日も行ったから」という答えで(笑
でも、これはとてもよくあることのように思います。
たとえそれが「本当は苦しい生き方」だったとしても、私たちは「考えたくないから」というだけで、昨日と同じ生き方を続けてしまう、ということです。
昨日経験したことだから、未知な方を選ぶよりも、理解している楽な方を選ぶと。
それは、そっちの方が「目先では何も考えずにすむし、楽だから」ですね。
なので、断言してくれた方が「考えずにすむ」ということです。
だから断言する方を信頼するし、それで動いてしまうと。
自分で判断しなければ、他人のせいにできる
で、そういう「断言する方を選ぶ」場合でも、間違うことはあるわけです。
でも、断言する方を選ぶことで、「自分で責任を取らずにすむ」というメリットがあるんですよね。
もし間違っていたとしても、「あの人がこう言ったから。断言したから」と相手に責任を押しつけられます。
自分で判断しなければ、他人のせいにできますからね。
だから、そういう「自分の思考を放棄する人」ほど、「誰か偉い人」から、「ああしろ、こうしろ」と言われて、何も考えずにそれに従っていたいタイプかと思います。
私の中では、それを「雇われマインド」とか「奴隷マインド」と呼んでいるんですが、
「私は何も悪くない」と安全を確保したいがために、自分の思考を放棄して、「誰か偉い人のせい」にすると。
なので、ある意味「自分の判断を放棄すること」と、「誰かを責めること」、「いいなり(奴隷状態)になること」、「私は普通だ、と言いたがること」、「特定の人を崇拝すること」はすべてセットです。
崇拝する人ほど、人を責めるし、自分で判断をしないし、自分から望んで「偉い人の言葉通り」で動きます。
また、「私は普通だ」とすることで、たとえ自分が間違った判断をしても、「みんなもそうだ」と正当化できます。
これは、「自分の望みを実現すること」はできませんが、「自分を守ること」は実現しやすくなります。
普通になれないから、考える
ただ、私の場合、そういう「断言する」ことはあまりしません。
というのも、私自身は、そういう「普通」に生きるのは苦しいからですね。
このブログを見ている人は、おそらくそういう「普通になろうとしても、なれない。他の人と同じようにできない。同じようにしようとすると、苦しい」と感じるタイプじゃないかと思います。
それはきっと、個性を持っているからだろうと思います。
「個性」というのは、「普通ではない要素」のことですからね。
だから、個性が強い人ほど、「普通はこうする」が通じないわけです。
その場合、その個性に合わせていろいろと自分なりに調整する必要があるわけで。
そして、個性が独自なものであるほど、正解が分かりにくいんですよね。
なら、自然と断言することもなくなって、「こういうのはどうかな?」と試行錯誤する形になるかと思います。
なぜしんどいのに、考えざるを得ないのか
そもそも、個性のある人ほど、毎日悩みがちかと思います。
自分の内面を見つめたり、考え方を調整することなんて、もう膨大なエネルギーを使いますよね。
そんな風に「考えるのはしんどいこと」なのに、なぜ悩んだり考えたりするのかというと、「考えないと、もっと苦しくなるから」だろうと思います。
私たちは、毎日が苦しいから、「何が原因でうまくいかないんだ。何がダメなんだ」と仕方なく考えたり、負荷がかかることをせざるを得ない、ということです。
そういう「個性のある人」ほど、「断言されること」は信用できなくなります。
というのも、「断言できること」は、「普通の人向け」だからですね。
今まで何度も、断言してきた人の言うことに従ってみて、結局自分には合わなくてやめてきたでしょ(笑
不確定な部分があるから、断言する
そもそも「断言する」というのは、そこに不確定な部分があるから、「断言(些末と判断した部分を削り取った言葉)」になるわけです。
数式とか、化学現象とかは断言する必要はなくて、「こうなる」と事実を示せばいいだけで、わざわざ断言する必要はありません。
不確定な要素を含みつつ語るから、「断言」になると。
だから、基本的に「断言すること」は、「大衆向け、普通の人向け」になります。
実際に私たちみたいな個性のある人の場合、「こう生きなさい」と断言されると嫌でしょ。
なので、しんどくても自分の頭で考えて、自分で判断せざるを得ないと。
それに、私自身、「手段は多い方がいい」というスタイルですからね。
「みんながやっていることをやろう」というのではなく、「独自な道を見つけるには、可能性や手段は多い方がいい」という判断です。
その場合、断言すると手段は限られるので、断言しない方がいろいろと模索できて、自分なりの突破口が見えやすくなる、ということです。
まとめ
そんな風に、大衆向けに言うのであれば、断言する方が効果的かと思います。
世の中の大多数は、自分で考えたくないし、「偉い人のいいなりになりたい」というタイプですからね。
ただ、そういう大多数の「考えたくない人」は、自分で責任を取りません。
なので、「断言することで人気だったインフルエンサーが、ちょっとした失言をしたら、大いにたたく」という現象が起きるわけです。
崇拝と攻撃は、表裏一体のものだということですね。
どちらも、「自分で判断する」ということを手放した、責任逃れから起きるものです。
そういう「普通」が合わない場合、「自分の頭で考える」が合うように思います。
それとか、個性ある人を助けたい場合とか、「自力で考える人」を育てたい場合、断言せずに、いろんな手段や可能性を提供する方がいいかなと。
すると、自分に合ったスタイルを選べるかなと思います。
ということで今日は、なぜ断言した方がウケがいいのか、なぜ私は断言したがらないのか、その理由を語ってみました。
今日はここまで~。